SECT.20 急ヲ告ゲル事態
少し体がだるい。疲れがたまっているようだ。
が、ねえさんを見つけるまでは無闇に休息をとるわけにいかない。重い体に命令を送り、王都への伝令を書きとめた。それを伝書鳥に括りつけると空に放った。
それを終えてカウンター席に座るとますます疲れがのし上がってきた。
先ほど昔の夢を見てしまったのも疲れているせいなのだろうか。それともこの街の空気が幼い頃暮らしていた場所に似ているせいなのだろうか。
「ウォルジェンガ=ロータス……か」
古い名を思い出してしまった。
封印していた思い出と共に。
実際5歳より以前に住んでいた街のことはよく覚えていない。ただ近所に住む同い年の子供たちや大人たちは今いる世界よりずっと身近にいたことだけ覚えている。
「もう忘れたと思ってたんだがな」
自嘲気味に笑う。
自分の両親が姉上にばかり目を掛ける理由はその優秀さだけではない。実の子である可愛さからもあった。生まれた時からクロウリー家の長女として育てられた筋金入りの貴族だ。いくらか育った状態で引き取った嫡子とは全く立場が違う。
だから15歳で家を出て騎士団に入った。父に反抗したかったということもあり、政治でなく武力で国に貢献したいと思った。
騎士になり家から離れて炎妖玉騎士団の居城で生活するうち、心の底から騎士として国のために働きたいと思うようになっていた。騎士の強さ、心意気、意思や勇気など先輩騎士から学ぶことは多かった。
だが、その願いは5年後に崩される。
父の命令でマルコシアスのコインを受け継いだ。自分の前は祖父が使役していたものだった。
病床の祖父は嫌ならいいんだ、と言い、でもお前にしかできない事があるのだからできることなら……とコインと共にこの闇色のマントをくれた。
くそじじぃいわく自分には飛びぬけた才能があったのだという。
コインを常に身につけていても全く影響を受けない鉄の耐性――それを知ったゼデキヤ王が放っておくはずはなかった。
左手首に下げた3つのコインを見つめる。
一つ目は第35番目の悪魔マルコシアス。魔界屈指の剣の使い手で、自分の剣の師でもある彼はクロウリー家が代々引き継いできた戦の悪魔だった。
二つ目は第43番目の悪魔サブノック。滅多に使わないが、個人に合った武器製造をしてくれる悪魔だ。これまでに製造したのは自分の長剣と義兄上の持つ刀、それから炎妖玉騎士団長のバーディア卿の大剣だけだ。サブノックは自分が気に入った者の武器しか作らない。いつだったかゼデキヤ王の武器を……と頼んだ時は全く興味を示さなかった。剣技を極めていないのだから当たり前と言えば当たり前だが、王家の者に対して失礼な悪魔である。
三つ目は第38番目の悪魔ハルファス。マルコシアスと同様剣技に優れた悪魔だが、契約後まだ使っておらず、加護を受けるとどのようになるかは不明だった。見た目は子供のようだったが契約の際に不意打ちをするあたり典型的な悪魔らしいと言えば悪魔らしい。気は抜けなかった。
セフィラとの戦闘で堕天のコインは使えない。おそらくハルファスを使うことになるだろう。
幾つも角の欠けた四角形のような紋様を浮かび上がらせたハルファスのコインは今も熱を帯びている。
右手で3つのコインを握り、心を落ち着けた。
毒気のあるコインでそんな事をするのはお前ぐらいだとじじぃには言われたが、この熱は確実に自分の心を落ち着けてくれるのだ。
おそらくこのコインは自分の新しい世界の道標だから。
騎士という道を諦めた瞬間に世界は変わった。一介の騎士は王国の要となるレメゲトンへと変貌を遂げ、それと共に地位も環境も周囲の人の扱いも……何もかもが一変した。
そしてその時ガキの言う『一つだけ』をグリモワール王国とゼデキヤ王に捧げた。
あれからもうそろそろ4年になる。
自分は『一つだけ』にあのガキを選んだ。
何故かと聞かれれば自分でもよく分からない。一目見た時すでに強烈に惹かれていた。それは容姿だけでなくガキの心自体に惹かれたのだと分かるまでそう時間はかからなかった。
この街と同じ、懐かしい匂いのするあの温かな心がとても愛おしかった。
とは言え残念ながら自分の片思いだ。あのガキの中で『一つだけ』になる時はねえさんに勝たねばならないが……それは無理な話だった。
さて、休憩と回想はこのくらいにしよう――カウンター席を立ってぐるりと店内を見渡す。
ほぼ完璧に準備が終わっている。
そうだ、昨日は皿が足りなくて困ったから増やしておこう。
「大皿があるといいんだが……」
そう思って店の奥の階段から倉庫に降りた。
かび臭さが出迎えてくれた。
大量の酒瓶と保存の利く穀物や根菜類、乾物などで敷き詰められた倉庫はなかなか広い。ここで篭城しても10人が10日はいけるだろう、などとまるで騎士団にいた頃のように計算してしまい、一人で苦笑する。
空いている食器を探して倉庫内を歩いていると、ずっとここでこうしていたいような不思議な気持ちに襲われた。
この温かな人々の住む穏やかな時間の流れるこの街で、戦争のことも任務のこともセフィラのことも全て忘れてこんな風に静かに暮らしていけたら。出来ることなら隣に……あのくそガキがいるといい。
そんな事を考えてしまった自分に驚く。
どうも今日の自分はおかしい。寝不足がたたっているのかこの街の空気がそうさせるのか。
棚を探すとそれなりにいい大きさの皿が見つかった。上に乗っているのは大きな壷だ。一体何が入っているんだろう?
一抱えもあるそれをゆっくりとずらすと、その後ろには小さなオルゴールが隠れていた。
壷の中には何も入っていないようだ。
そちらは割らないよう慎重に床に下ろして、オルゴールを手に取った。
「悪魔の紋章? だがこれは……」
72の悪魔どれのものでもない悪魔紋章が刻まれたオルゴールだった。開けようとしたが、鍵がかかっているようでびくともしなかった。
黒の天鵞絨で覆われた上に銀の紋章が細工で貼り付けられている。
きっと大事なものなんだろう。
そのオルゴールと壷を元に戻してから、大皿を持って倉庫を後にした。
皿を持って店に戻ると、店の扉が乱暴に開け放たれた。
一瞬身構えたが、そこに飛び込んできたのはまだ年端もない少女だった。ガキよりいくつか年下だろう、よっぽど急いできたのかひどく息を切らして床にへたり込んだ。
小麦色の頬に赤みが差していた。
「おい、どうした」
ただ事ではない。
嫌な予感が胸をよぎる。
「あの、アレイさん、ですか?」
息を切らしながら少女が尋ねる。
「そうだが」
「ラックが……敵がって……アレイさんを……」
「?!」
敵が、と言った。まさかセフィラか?!
「呼んで、きてって、すぐに。すごく……真剣な、顔で……」
血の気が引いた。
大皿を落として派手な音がした。
少女がその音に驚いてびくりと身を引く。
「場所は?」
「メイン……ストリートの、所です」
「すまない、ありがとう」
かろうじてそれだけ口にすると、すぐに店を飛び出した。
待っていろ、すぐに行く。
夕陽に照らされた灰色の石畳はまるで燃えているかのように赤かった。太陽はもうすぐ山にかかるところで、その赤さは血と死を暗示させてひどく禍々しかった。




