SECT.19 優シイ街
店に戻るとすぐガキは倒れこむように眠りについた。
明け方まで動き続けたこともそうだが、ずっと気が張り詰めていたのも原因の一つだろう。ゆっくりと眠らせてやることにして、自分は店の食品を補充することにした。
朝日が昇り、動き始めた街を歩くと地面に布を敷いただけの露店が目立つ。
メインストリートの朝市はそれなりの人で賑わっていた。朝採れたであろう野菜や果物、遠くから運ばれてきた魚を売る店もある。
「おう、ラックと一緒に来たにいちゃん」
声を掛けられてそちらを向くと、昨日店に来ていた一人がにこにことこちらに向かって手を上げていた。無精ひげに見覚えがある。
名前は確か、えー……忘れた。
自分も他人の事は言えないな。
苦笑しつつ近寄ってみると、その男も露店を開いていて、麻布をしいた上にはずらりと新鮮な野菜が並んでいた。きっと先ほど採れたばかりなのだろう、朝日を浴びて表面についた露がきらきらと輝いていた。
見事な出来栄えだ。
「どうだ、さっき畑でとれたばかりの野菜だよ」
「いい出来だ」
「だろう?」
男は自慢げにトマトを一つ取り上げた。
その後ろではその男の妻と思われる女性がニコニコと微笑んでいた。
「綺麗な子だねえ。ラックと一緒に来たんだって? ミーナさんの親類とか言うじゃないか。やっぱり美人は家系なのかねえ」
もうすでに自分は子と呼ばれる年でもないのだが。しかも、家系も何もねえさんとはそれほど濃く血が繋がっているわけでもない。
だが、変な下心なく容姿を褒められたのは久しぶりだったせいで、ひどく新鮮に感じた。
「ラックもこの街に来てからだいぶ大きくなったね。最初はちんちくりんのガキだったのに今じゃ街一番の美人だよ。まあ、少し頭が足りないようだけど」
「ゼルはずっとラックを男だと思ってたらしいぜ、はは、昨日のゼルの顔ときたら!」
「あたしも見たかったね。今日はミーナさんの店に邪魔しようかしら。綺麗な兄さんもいることだし!」
女性は豪快に笑って並んでいた商品をいくつか袋に入れた。
そしてにっこりと笑ってその袋を自分に差し出した。
「これは……」
「はい、お近づきの印だよ。ラックをよろしく頼むよ、あの子はこの街みんなの子供みたいなもんなんだから」
どうしたものか困っていると男性も楽しそうに笑った。
「はは、お代はいいぜ。持ってきな」
「……ありがとう」
とりあえず礼を言ったが、ひどく困惑していた。
これほどに純粋で見返りを求めない好意を受けたのは初めてだった。笑顔に全く暗いところもない。駆け引きという勘定はまったく働いていない。
自分が今まですんでいた世界とは異次元に存在するものだった。
それでもとても清々しく温かな気持ちに包まれた。
王都の市場に比べると狭い小さな市の真ん中に佇んで空を見上げた。
そうか。この空気があのガキを育てたんだ。他人を大切にし、優しさで包み込み、全てのものに光を与えるあのガキの心はこの柔らかな空気で満たされたこの街のなかで形作られたんだ。
きっとそうに違いない。
「どうしたんだい、酒場のにいちゃん」
ぼんやり空を見上げていると別の街人が声を掛けてくれる。
そう、この街の人はこんなにも温かい。
自分が全く無意識のうちに微笑んで、その微笑にその場にいた全員が釘付けになっていたことになど全く気づいていなかった。
お金を一切使わず両手にいっぱいの『お近づきの印』を手に入れ、店に戻った。
どうやらこれで当分は買い物しないですみそうだ。
店の奥の部屋をのぞくと、ガキはまだ眠りから覚めていなかった。相当疲れているのだろう。夕方までは放っておくことにしよう。
とはいえ自分もかなり眠くなってきた。
少し仮眠を取ろう。
ガキのベッドの隣に置かれたソファに身を埋め、しばしの休息に身を委ねた。
久しぶりに夢を見た。
幼い頃の夢だ。初めてクロウリー家本邸に足を踏み入れた時の――
「初めまして」
これは姉上の姿だ。まだ5歳ほど、自分と同じ紫の瞳がキラキラと輝いている。今まで見た事がないくらいに可愛い女の子だと思ったのを覚えている。
初めて見る貴族の娘に思わず母の後ろに下がる。
「どうしたの、ウォル。ほら、あなたのお姉さんよ」
「は、はじめ……まして。ウォルジェンガ=ロータスです」
おずおずと挨拶すると、紫の瞳とふわりとしたこげ茶の髪が愛らしい少女はにこりと微笑んだ。
「私はダイアナ=クロウリーよ。よろしく、ウォルジェンガ」
そう、当時の名前はウォルジェンガ=ロータス……いつからだったろう、アレイスター=W=クロウリーと名乗るようになったのは。
ウォル、と呼ぶ優しい声が消えてしまったのは……
はっと目が覚めた。
拍動が速い。
「夢……」
鈍く痛む頭を押さえて起き上がると、隣のベッドで漆黒の髪の少女が安らかな寝息を立てていた。その姿にほっとしている自分がいる。
昔のことを思い出すなんて……街の優しさに触れてクロウリー家へ足を踏み入れる以前に住んでいた場所のことを思い出してしまったせいなんだろうか。
時計を見るともう夕刻だった。
しまった、少し寝すぎたか。
すぐに起きて店の掃除を済ませる。カウンターに置きっぱなしだった『お近づきの印』をそれぞれの場所に片付けると、ガキを起こしにかかった。
さすがに寝すぎだ。そろそろ働いてもらわなければならない。
少しゆすると、ガキは眠そうな瞼で緩慢と起き上がった。
「寝すぎだ、ガキ」
「んあ、ごめん」
店の方で待っていると服を変えたガキが目をこすりながら現れた。
まったく、仕方ない奴だ。
「そろそろ店の準備をする。今日も店を閉めたら外に出ることにするぞ」
「はあい」
ひとつ大きな欠伸をすると、軽く体操しながら店内の準備を始めた。
テーブルのランプに明かりを入れ、テーブルクロスと花瓶を準備していく。その手つきは慣れたものだった。どうやら思ったより早く終わりそうだ。
「後で倉庫からいくらか酒を補充しておいてくれ」
「はあい」
とってくる酒を指示してやると、素直な返事をしたガキは奥へ引っ込んでいく。
その後姿に哀愁の影はなかった。
よく眠ったのがよかったのかそれとも気持ちを切り替えたのか、今朝教会で傍から見ていて痛々しいくらいに落ち込んでいた空気はどこかへ消え去っていた。
二人のセフィラの目的は分からない。ねえさんの居場所も分からない。
それに加えて天使崇拝の教会の事がどこかに引っかかっていた。
「持ってきたよー」
「後は店が閉まる前に果物屋で適当にフルーツを買ってきておいてくれ」
今朝の市場での反応から考えると、今日は女性客が増えるかもしれない。果物とデザートは多めに用意しておいた方がいいだろう。
「ほんと? 桃買っていい?」
こいつは桃が好きなのか?
異様に時期はずれだが仕方がない。
「……好きにしろ」
ため息でもって送り出してやった。




