SECT.8 不安ノ夜
ねえさんの屋敷に到着した頃には日が傾いていた。
馬から下りるためにもう一度手を貸してやると、ガキはじっと漆黒の瞳で見上げてきた。
「……怒ってる?」
なぜそうなる?
質問の意味が分からない。
「別に」
「嘘だ。だってぜんぜん喋ってくれないじゃん」
唇を尖らせて上目遣いに訴える様子に、肩の力が抜けた。
まったく、本当に……
ひとつ、大きくため息をつく。
「本当にお前は……」
くしゃりと漆黒の髪を撫でてやる。
「仕方ない奴だな」
思わず苦笑した。
そんな風に人の顔色を伺ってばかりいては疲れるだろうに。それでもこいつは人の事ばかり気にするんだろう。
「怒っていない。そんな顔をするな」
「ほんと?」
ほっとしたように笑うガキの屈託なさにさらに力が抜けて、もう一度頭を撫でてやった。
そうするとあまりに嬉しそうにするのでこちらが今度は照れてしまった。
何度も出入りするうち顔馴染みとなったねえさんの乳母はガキの服に少し驚いたようだが、姉上のことを説明すると納得したようだった。
むしろ、この服を喜んでいる様子さえ伺えた。
「ファウスト女伯爵はご在宅か?」
「いいえ、まだ帰っておりません」
乳母は首を横に振った。
するとガキがにこりと笑った。
「んじゃあおれの部屋で待ちなよ。広いから」
ガキが唐突に手をとって歩き出した。
乳母は困ったように微笑んで自分とガキを見送った。
客間の一つをガキの部屋に当てたようだ。
それほど広くない部屋にベッドが一つ、4つ椅子のテーブルと4人がけのソファが一つ、女性らしくドレッサーも見られたが、使われた形跡はなかった。
入るなりガキはベッドの端に座り込んだ。
「痛いよう……」
靴を放り出して足を伸ばしている。
きっと慣れない靴を履くから足に負担がかかったんだ。どこか軽く痛めたんだろう。
「見せてみろ」
「ん」
膝をついて見てみると、足の側面が赤く腫れていた。
「少し赤くなっているな。サイズが少し合っていなかったんだろう、薬を塗っておく」
国中を回ってロストコインを集めるという危険な仕事柄、いつも持ち歩いている傷薬を取り出して赤く腫れている部分に塗りこんでやった。
「そのお薬、いつも持ってるの?」
「ああ。仕事柄怪我をする機会も多いからな」
そう言うと、ガキは少し黙り込んだ。
怪我、という言葉に反応したのだろうか。少し過敏すぎる。
「アレイさん」
どこか辛そうで不安げな響きをもつ声。
「何だ?」
見上げると、いつもより大人びて見える漆黒の瞳が泣きそうに歪んでいた。
またも不意打ちで心臓が跳ね上がる。
「ちゃんと戻ってくるよね。ひどい怪我したりしちゃやだよ……?」
泣きそうな声で必死に問いかける瞳から目が話せない。
そんな目をするな。お前を悲しませたくはないんだ。だから何も言わず契約に臨むつもりだったのに。
気持ちが揺れ動いた。
潤む漆黒の瞳と桃色の唇がどうしようもない感情を誘発する。
このまま吸い込まれてしまいそうだ……
「失礼します」
侍女の声ではっとした。
「お茶をお持ちしました」
大きなブラウンの瞳の侍女が丸い盆を持って部屋に入ってきた。
と、その視線がこちらに向けられる。
靴を脱いでベッドの端に座る少女と、その傍らに跪く青年。
「しっ、失礼しましたっっ!」
慌しく盆を置いて出て行った侍女の判断は正しい。
普通はそう思うだろう。
確かに正しい。正しいのだが……
この場合、胸の中にあった感情はなかったことにしてとりあえず妙な噂が流れる前に侍女の誤解を解かねばならないだろう。
ガキのこれからのためにも、自分のためにも――ねえさんに殺されないように。
説得には多少手間取ってしまったが、なんとか侍女を呼び戻すことができた。
しかも驚いたことに侍女は同じ顔をした二人だった。
アイリスとリコリスと名乗った少女たちは恥ずかしそうに部屋に戻ってきた。
「あ、アイリス。どうして逃げちゃったの?」
「すみません、ラック様。私はてっきり……」
それ以上は省略して恥ずかしそうに微笑んだ少女の反応が一般的なものだろう。
むしろガキの神経を疑いたい。
「今お茶の用意をしますね」
双子の侍女は慣れた手つきで茶を注いだ。
湯気の立つそれは、精神的にどっと疲れた身に染み渡る美味しさだった。
「ねえちゃんはまだ戻らないの?」
「ええ、いつもならすでにご帰宅されている時間なのですが……今日は遅くなるとも聞いていませんし」
双子の片割れが答えて窓の外を見る。
すでに暗くなりかけているそこにはジュデッカ城のシルエットが浮かんでいた。
「城で何かあったのか……?」
不安げに呟くガキと同じように、自分の中にも警鐘が鳴っていた。
おかしい。何かあったのか?
唇をひき結んでジュデッカ城を睨んだ。
ねえさんはその日、帰ってこなかった。




