SECT.3 穏ヤカナ昼食
数時間の稽古の後、持ち前の動体視力と運動神経のよさでそれなりの剣術を身につけたガキは汗だくになってへたり込んだ。
「精進せよ 幼き娘」
「はい!ありがとうございました!」
「大丈夫だ すぐに強くなる」
「ほんと?」
「筋がいい」
確かにそうだ。あの身体能力と目のよさがあれば、少し稽古するだけでそれなりの戦いが出来るようになるはずだ。
いつかサブノックに頼んでガキ専用の武器を作ってもらってもいいかもしれない……
そんなことをぼんやりと考えていると、マルコシアスがしみじみと呟いた。
「アレイとの契約を思い出す」
「契約の時?アレイさんが3ヶ月も帰って来なかったっていう」
……そんな思い出話は聞きたくない。
「3ヶ月か 精々30時間ほどだと 思ったのだがな」
笑うマルコシアスはおそらく確信犯だ。
今だから分かるが、この戦士は気に入った者に稽古を付け、育っていく様を見る事を至上の楽しみとしているようだ。
「おかげでかなり鍛えられました」
「時間の流れが違うんだよね。向こうのほうがゆっくりなんだね」
ガキが向こうと呼ぶのは、普段マルコシアスたち悪魔が暮らす魔界のことだ。
ほんの何時間かいただけでも、現実世界では何日も過ぎてしまう。かと思えば何年も経ったと思って帰ってきたらほんの数日しかたっていなかったという話もある。
「ゆっくりとは限らない。時空列に規則性がない。速いときもあれば遅いときもある」
「そうなんだ。んじゃあ年のとり方も違うの?」
「もともと我等 年をとらぬ 外見はそれなりに変えられる」
「んじゃあ今の見た目は作ってるって事?」
「形を変えようと意識せねば こうなる」
「背中の翼も?」
「これは我が 堕ちた証 常に存在する」
ガキはマルコシアスの純白の翼を見つめた。
あの好奇心に満ち溢れて瞳はなにかよからぬことを考えているに違いない。
「あの……触ってもいい?」
案の定ガキは期待に満ちた目でマルコシアスを見つめ、そんなとんでもないおねだりをはじめた。
本当に信じられんやつだ!
しかもマルコシアスは軽く微笑んで頷いた。
「許す」
「ほんと!」
「マルコシアス! このくそガキを甘やかさないでください!」
ほとんどやけくそで叫んだが、マルコシアスはガキに向かって翼を差し出した。
少し躊躇うように右手を伸ばしたガキは、翼に触れると非常に嬉しそうに微笑んだ。
その微笑に思わずどきりとする。
「……あったかい。気持ちいい……幸せだ」
撫でるようにしてマルコシアスの翼に手を滑らせる。
「満足か 幼き娘」
「うん……この羽根、すごく素敵だね」
「一枚抜いて 持っているといい」
「いいの?!」
「構わぬ」
「ありがとう!」
本当にマルコシアスはこのガキに甘すぎる。
ガキもガキで遠慮なく1本の羽根を抜いた。純白のそれはまるでさざめく様に風に靡いた。
「……痛くなかった?」
「心配せずとも 大丈夫だ」
ガキは嬉しそうにその羽根を見つめている。
「アガレスさんにも羽根はあるのかな?」
「奴は 翼を鳥に変えた」
第2番目の悪魔アガレスは、肩に大きな鷹を止まらせているという。
「あっ、あの鷹がアガレスさんの翼だったの?」
「翼と 失った眼の代わりだ」
失った眼?
伝承にはないその言葉に首を傾げてガキのほうを見ると、まるで自分が傷つけられたかのように痛みをこらえる表情をしていた。
痛いのはお前ではないだろうに、人の痛みまで感じてしまうのだろう。
「ねえ、マルコシアスさん。アガレスさんの目の怪我……誰にやられたの?」
「それを 我に聞くのか 幼き娘」
「……あ、うん、ごめん、本人に聞くよ」
「それがいい」
マルコシアスはもう一度微笑んだ。
それはまるで父親が娘に見せるような優しい顔だった。
自分は今日休暇だからジュデッカ城に参上しなくてもいい。また、ガキも契約休暇の真っ最中だ。時間はたっぷりある。とりあえず午前の稽古はいったん切り上げて昼食をとることにした。
いつもと同じ殺風景な部屋での食事だったが、ガキがいるだけで空気が全く違う。
そのおしゃべりはとどまるところを知らない。
まるでここが自分の家ではないようだ。同じ席に座ってはいても会話の全くない両親を思い浮かべながらも、温かな気持ちで料理を口に運んだ。
と、またもガキが唐突に叫ぶ。
「あ、そうだ!」
そうしてきらきらと期待するまなざしでこちらを見た。
「今度ね、ねえちゃんのお休みが取れたら一回カトランジェの街に連れて行ってもらうんだ! アレイさんも行かない?」
「カトランジェというとお前が以前住んでいた街だな。なぜ俺を誘う? 二人で行ってくるといい」
カトランジェはガキがねえさんと出会い、3年間育てられた街の名前だ。
二人にとって特別な意味を持つその街には二人で行くのが一番だ。何も知らない自分がいても邪魔になるだけだろう。
「だってアレイさんも一緒がいいと思ったんだ」
「!」
全く本当にこのガキは……唐突に、こんな素直なことを言い出すから時に驚いてしまう。嬉しくもあるのだがその気持ちの振幅は非常に心臓に悪い。
しかし、どうしたものか。
新たにコインの悪魔と契約を結ぼうと決心したところだ。それまでは少し待っていてもらわねばなるまい。
「行ってやってもいい。ただ、もう少しだけ待っていろ」
「うん、いいよ。おれのお休みはあと2週間残ってるから。」
「2週間か」
差し当たって急用もない現在は、望めばおそらく明日には契約に行けるだろう。そしてもし明日契約に行くとすればそこから1ヶ月間は休暇が与えられることになる。
2週間以内に帰ってこられれば、休暇の最中だからガキの要望にもこたえてやれるだろう。
考えている表情が少し困っているように見えたのか、ガキが恐る恐る聞いた。
「どうしたの?」
「お前は知らなくていい」
ぴしゃりと言うと、ガキはむっとしたような口調で言い返してきた。
「何でだよ、教えてくれたっていいじゃん!」
「言いたくない」
珍しく正直な気持ちを述べたのに、ガキのお気には召さなかったようだ。大きく漆黒の瞳を見開いて睨みつけられてしまった。
が、それもいつものことだ。
「ねえさんの休みはいつ取れそうなんだ?」
「一週間くらい後だって」
「わかった。覚えておく」
「うん」
ガキは嬉しそうに笑う――自分はどうもこの顔に弱いようだ。それを見ているだけで頬が火照ってくる。
さて、そうするとこれからの稽古は自分には無理だということになる。
仕方ない。
がたりと席を立つと、ガキが慌てて追いかけてきた。
「どこ行くの?」
「何とか時間を作ってやる。一週間マルコシアスとの稽古は休みだ」
「えー?」
「代わりに稽古場を紹介してやるからついて来い」
「ほんと?」




