--- オワリ ---
朝の光が顔に当たっている。昨日は早く寝たのに、もう太陽が高まり始めている。
起きなくては。
そう思ったけれど、体は鉛のように動かない。もう少しだけ惰眠をむさぼることにしよう。
なんとなく風が頬を揺らしているのは感じていた。初夏も後半に入った朝の風は清々しい。ずっとこのまま眠りたい。
ところがそこに聞きなれた声が響いた。
「おはよう、アレイさん。遊びに行こうよ。起きて?」
しかしまだ覚醒するほどではない。
「ねえ」
その瞬間シーツをはがされた。
少しずつ頭が起きてくる。それと共に軽く体が痛んだ。ついでにうっすらと目を開けると、漆黒の瞳が近くにあった。
何でこんなところにいるんだ。
「……痛い?」
それが包帯に向けて発せられた言葉だと気づくのにも一瞬かかる。
「少しな」
まだ完全には覚醒できていない。
くそガキはベッドの脇にかがんでそっと包帯に触れた。痛くはなかったが触れたところから暖かな体温が伝わってきた。
「ごめんね。ありがとう」
「それは……昨日聞いた」
泣きそうな顔のガキを見ていたらどうしようもなく我慢できなくなった。
本当にどうしていつもいつも他人のことばかり……どうせまだ泣いていないんだろう。言葉を失くすほど、瞳の光を失うほどに辛かったくせに辛いなんて一言も言ってないんだろう。
近くにあった腕をつかんで強く引っ張る。ガキは抵抗もせず、ベッドの上に倒れこむようにバランスを崩した。
「うわっ……」
驚いているガキをそのまま腕の中に大きく包み込んだ。柔らかな黒髪が頬にかかって、微かに甘い香りがした。
心の底からほっとする。
それでも、無事でよかったと思うから。
本当によかった。
「俺のほうこそ……謝らねば」
「どうして?」
「お前を守れなかったから」
微かに残る記憶の中で、このガキは左腕を悪魔に食われ、悲鳴を上げていた。
その悲鳴は鋭く胸に突き刺さったままだ。
左手には滅びのコインが埋め込まれ、痛々しい様をさらけ出している。
「目の前で左腕を悪魔に砕かれた。俺にはどうすることもできなかった……」
「ラースはちゃんとおれに代わりの左手をくれたよ」
明るい声で答えようとする腕の中の少女がいとおしくて仕方がない。
胸が苦しくなるほどに切なくなった。
「でも、痛かったろう?」
そう問うと、答える代わりにぎゅっと肩にしがみついてきた。
どれほど痛かったか、苦しかったか、辛かったか……怖かったか。それを考えただけでも胸が詰まる。
この華奢な肢体のどこであの衝撃を受け止めたのか。
どうしようもない感情が全身を駆け巡る。
目の前にいたのに。
もっと力があれば助ける事だって出来たはずなのに……!
「怖かっただろう。すまなかったな……」
うまく他に言葉が思いつかなくて、少女の耳元でそっとささやいた。
少女は肩を震わせながらますます強く肩に額を押し付けた。
「怖かった。おれの体が……おれの体でラースは銀髪のヒトを殺そうとしたんだ。血がいっぱい出て……鉄の味がして……」
消え入りそうな涙声で途切れ途切れに声を絞り出していた。
もういい。もういいんだ。
まるで恐怖を思い出して痙攣するように肩が震えている。
その震えも全部包み込むように少女を抱きしめた。少しでもいい、恐怖が拭い去れるのなら。
ここまで気丈に振舞っていた彼女が我慢せず少しでも弱みを見せてくれるのなら。
「怖かったよ……アレイさん。すごく怖かった……」
「よくがんばったな」
一瞬迷った。
でもそれは本当に一瞬で、その名前は自然に口から滑り出た。
「……ラック」
嗚咽が聞こえた。ほとんど声を上げずに少女は涙を溢れさせていた。
きっといつも泣かないように我慢しているんだろう。あのねえさんに嫌われないように、迷惑をかけないようにと。
でも、こうやって自分がいることでその我慢を少しでも和らげられたら。
言葉をかけずにずっと漆黒の髪をなでていた。
触れたところから体温を感じる。肩も胸も腕も頬も、じわりと優しい温度が灯ったようだ。
そのうちしばらくして、少女の肩の震えがとまった。もう一度強く抱きしめると、少女は抵抗せず自分にゆだねていた。
少しは回復したようだ。
「よく泣いたな、くそガキ」
「ガキって言うな」
言い返してはいるが、ばつが悪いのか視線が合わない。
「だいたい、遊びに行くために呼びに来たんだよおれ」
「そうなのか?」
「そうだよ!」
漆黒の瞳がいつものように自分を見上げた。
それが嬉しくて思わず微笑んでしまった。
それよりなによりこのぬくもりをまだ離したくなかった。
「今日くらいゆっくり休んでもいいんじゃないのか?」
少女はゆったりと微笑むともう一度自分の肩にもたれかかった。
「そうだね」
少女は安心したように目を閉じた。
静かに音を殺しながらドアを開けて、ねえさんが部屋に滑り込んできた。
怒られるかと思ったが、ねえさんは軽く微笑んだだけだった。
「ありがとう、アレイ」
「何がだ?」
「この子はきっと放っておくと人に頼ることなんてしない。私の前では絶対に泣かないのよ?すごく……すごくつらかったはずなのに」
「……」
「お願いよ、アレイ。この子の傍にいてあげて。どこにも行かないで見守って」
「それはねえさんの仕事だろう?」
「いいえ、この子はきっといつか私よりもあなたを選ぶようになるわ」
「そんな事があるはずがない」
心の底からそう思ったが、ねえさんは悲しげに微笑んだだけだった。
ここのところ、ねえさんは少し変だ。
「今日は少し休ませてあげて。この子はあなたの隣がすごく好きみたいだから」
腕の中で完全に安心しきっている少女に優しく微笑みかけて、ねえさんは自分の頭をなでた。ずっと昔、幼かった頃にそうしてくれたように。
「いつかこの子もあなたを一番大切な人に選ぶでしょう。だから……」
少女の寝顔を見ていると、ねえさんの言うことがあながち間違っていない気もしてくる。
「絶対に離れないで。お願いよ」
ねえさんはそう言い残して部屋を出た。
窓の外からは温かな風が流れ込んでくる。腕の中では大切な少女が安らかな寝息をたてている。
本当に安心したように目を閉じた少女の涙に濡れた目元に唇を寄せた。
穏やかな呼吸を感じながら自分も少し眠ることにしよう。
例えばこの先もっと恐ろしい出来事が多く待ち構えていたとしても――




