SECT.25 深マル謎ト
目が覚めたときにはすでに腹部の傷は縫合も終わっていて、国家医師の一人が2週間は安静にしていてください、と言った。
少しずつ先ほどのことを思い出しながら天井を見つめていると、ねえさんが入ってきた。
「だいぶ血が足りないそうよ。傷も深いし……当分安静ね」
「こんなもの大丈夫だ」
腹筋に力を入れて起き上がろうとしたが、麻酔がまだ効いているのかうまく起き上がることができなかった。
「無理しないで。ラックも無事よ、ほとんど無傷だとベアトリーチェが言っていたわ」
「……そうか」
それで十分だ。
だが、それはおかしいことにすぐ気づいた。
「じゃあ、左手はどうなったんだ?」
「グラシャ・ラボラスがあの子に新しい左腕をくれたわ。ただ元と違うのはコインが埋め込まれてしまっているということくらいかしら。切れた筋も戻っていて、動かすのに全く支障はないみたい」
「何だと……?」
悪魔が左腕を与えるなど、きいたことがない。
いや、驚くべきはそれよりも……
「あのガキはいったいいつグラシャ・ラボラスと契約したんだ?」
「分からないの。少なくとも私があの子に出会う前よ……全く気づかなかったわ。何よりグラシャ・ラボラスと契約する人間がいるなんて思いもしなかったもの」
「だろうな」
歴史に残る限りグラシャ・ラボラスを使役したのは稀代の天文学者ゲーティア=グリフィス本人だけだ。その後何人もの血を吸ったコインはいつしか殺戮と滅びの悪魔として契約を交わそうとする者はいなくなっていた。それも数十年前のグリフィス家の滅亡と共に行方知れずになっていたのだ。
「私にも分からないことだらけよ。ゼデキヤ王にもなんて報告していいかわからないわ」
「……何があったのか最初から話してもらえるか?」
「ええ」
あの後ねえさんは、明日に処刑を控えたセフィラに会わせるためガキを地下牢獄へと連れて行った。処刑前最後に会えるチャンスだろうとくそじじぃが手引きしたらしかった。
ところが案の定あのセフィラはやはり戦闘意欲をむき出しにガキに突っかかり、天使を召還して牢を破壊し、ねえさんを吹っ飛ばしたところに俺がちょうど到着したらしい。
というのがねえさんのあらすじだった。
「一つだけすごく気になることがあるの」
「何だ?」
「ミカエルの姿を見て、あの子の額に何かの紋様が浮かび上がったのよ」
「紋様?」
「ええ。コインの紋様ととてもよく似ているけれど、72個のうちどの象徴とも違っていたわ。それもあの子はあの天使のことを『ミカエル』と呼んだ――そんな名前これまで一度も教えていないのに」
「全てはガキが失くした記憶の中……か」
「ええ。後でクローセルを呼び出して聞いたのだけれど、全く要領を得なかったわ。何か知ってて隠しているというか、話したくない様子というか……」
「その紋様に悪魔が関係しているのは間違いなさそうだな」
ねえさんは無言で頷いて少し神妙な顔つきで黙り込んだ。
その沈黙は果てしなく重く、これから行く先の困難を暗示しているようで息が詰まった。
しばらく休むと麻酔が切れて鈍痛が襲ってきた。痛みはあったが起き上がることは出来たし、立ち上がることもできた。
ゆっくりと立ち上がって近くにあった服を着なおすと、隣の部屋からねえさんと……あのガキの声がした。
そっとドアを開けると相変わらずの阿呆面で笑ったガキが最初に目に飛び込んできた。
ほっとして思わずいつもの言葉が滑り出る。
「くそガキが間抜け面してんじゃねえ」
「ガキって言うな!」
案の定ガキはいつものようにぱっと振り返って主張した。
が、その顔がみるみる歪む。まるで泣きそうな顔で自分を見ている。
「だいじょうぶなの? ひどい怪我したんじゃ……」
自分の体を見下ろすと、腕や首筋から包帯が見え隠れしていた。
「こんなものはかすり傷だ」
そう言うとねえさんがあきれたようにため息をついた。
その後ろにはレメゲトンの一人、ベアトリーチェ=アリギエリ女爵の姿があった。
「やせ我慢しちゃって。このぶんじゃラックと一緒に1週間はお休みね」
本当は2週間安静にしろといわれている。
「俺はすぐにでも動ける」
「嘘おっしゃい」
ぴしゃりと言い込められて思わず口をつぐんだ。
すると、ガキがてくてくと近づいてくる。
「ごめんね、痛かった?」
下から見上げるようにして大きな漆黒の瞳を泣きそうに潤ませている。
その顔は反則だろう!
叫びたかったがぐっとこらえた。
「ありがとう、アレイさん。いつも助けてくれて」
心から『ありがとう』の気持ちをこめて微笑んだガキは先ほどの地獄のような光景から完全に回復しているように見えた。
お決まりとなった小さなため息を一つこぼして、ガキの艶やかな黒髪にぽん、と手を乗せる。
「だから……気がついたように素直なこと言うんじゃない。驚くだろうが」
するとガキはねえさんの前でするような阿呆面をして笑った。
初めて見るそんな安心しきった表情に、不覚にもどきりとする。
「アレイさんの手も好きだよ。あったかくて大きいもん」
そう言いながら右手で自分の胸元に触れた。
傷が少し痛んだが、それ以上に手のひらの感覚が温かくてほっとした――よかった、ちゃんと生きている。
ガキも心臓の鼓動で生きていることを確認するように自分の胸に手を当てていた。
「イジワル言わないアレイさんはすごく好きだよ。近くにいると安心するんだ」
幸せそうな顔で、こんなに近くで無垢な瞳で見上げられると心臓の拍動は高まっていく。
ガキにはそれが伝わってしまっているかもしれない。
「だから、どこにも行かないで」
「!」
驚くほど突然の告白だった。
「ここにいて!」
驚いて目を丸くした。
本当にガキの思考回路は全く読めない。相変わらず意味不明だ。ブラックボックスだ。
抱きしめてやりたいと唐突に思った。が、ここにはねえさんもいるしアリギエリ女爵もいる。
それより何より自分は知っているはずだ。このガキがねえさんよりも俺のことを優先する日が来ることはまずない、と。
そうだ。そんなことあり得るはずがない。
冷静にそう判断してガキの肩に手を置いて遠ざけた。
そしてまっすぐに目を見つめて問う。
「お前はそこのねえさんに付いていくんじゃないのか? それが望みだろう」
「うん。それは今も変わってないよ」
「なら俺はいらないだろう」
「おれはねえちゃんの隣にいる。でも、反対側の隣にはアレイさんにいて欲しいな」
やっぱりか。
そんなことだろうと思った。ガキの考えそうなことだ。
「それはまるで……母親と父親のようですね」
アリギエリ女爵が困ったように微笑んだ。
「アレイが父親っ! ほんと、報われないわねえ、アレイ」
ねえさんは楽しそうに笑う。
もういい。やっぱり、気づいてもらえなくてもいい……というか、気づいてもらうのは無理だ。
どうしようもなく空しくなってそっぽを向いたのに、ガキはなぜか嬉しそうに笑った。
「あらラック、嬉しそうね」
「うん」
ガキの漆黒の瞳が真直ぐこちらに向けられる。
「アレイさんはおれが嫌いなわけじゃないんだよね?」
ねえさんはくすくす笑いながら答える。
「そうね。むしろ……」
「やめてくれ」
間髪いれず分断して、これ以上何か言われる前に退散することにした。
「俺は帰って休む。くそガキ、お前もとっとと寝ろ」
「ガキって言うな!」
ガキの声が後ろから追いかけてきたが完全に無視した。
今日は本当に疲れた。
大量の血を失ったのも本当だ。早く帰って眠るとしよう。




