SECT.24 帰レト呼ブ声
「くソっ まあイイ 次ハ 逃がサない」
忌々しげな悪魔の声でガキが呟く。動かなくなったはずの左手で口元をぬぐい、ぎらぎらとした漆黒の瞳をぎろりと周囲に向けた。
セフィラの姿も天使の姿もなく、逃げてしまったものと思われた。
自分の体が動かないうちにすべてが終わってしまった……いや、終わったわけではない。
ガキの体にはまだグラシャ・ラボラスが残っている。
「約束ドオリ 左ウデ 貰うヨ」
そう響いて、ガキの体から黒い霧が噴出した。
その霧は収束し、悪魔の体を形作る――伝説に伝え聞くグラシャ・ラボラスの姿そのものを。
闇色の毛並みに映える地獄の業火を閉じ込めた炎妖玉が不気味に煌いて、犬歯が飛び出した口には先ほどの血がこびりついている。背の翼は蝙蝠のような膜翼だ。
悪魔はガキに擦り寄ると、左腕を牙で持ち上げた。
いったい何が起こるのか分からなかった。殺戮の悪魔グラシャ・ラボラスに乗っ取られたガキがセフィラを取り逃がし、さらにはその悪魔と契約を結んでいるという目の前の光景は信じがたいもので、とても現実とは思えなかった。
ただ、痛む体は指一本さえ動かせずその光景を目に映すことしかできなかった。
「っあああっ!」
ガキが悲鳴を上げた。
その悲鳴が胸に突き刺さった。傷の痛みよりもっと重いものが心を貫いて押しつぶした。
血がほとばしっている。がりがりと何か硬いものを砕く音がする。
「ぐっ……ああああ……」
左腕から血を大量に流したガキはよろよろと壁にもたれかかった。
くそっ、動け。動いてくれ……!
命令を送るだけで脳髄を揺さぶられるような痛みが走る体を叱咤して無理やり上体を起こす。
ぱたた、と床に血が散った。決して浅い傷ではない。服の前面がじっとりとぬれている。ずくんずくんと傷が疼いた。
「ありがとう……ラース。助かった……」
ガキがポツリと呟いた。
どうしてありがとうなんて言えるんだ。左腕を喰われて、ぼろぼろにされて、それでもなぜそんな風に微笑むことができるんだ。
もうやめてくれ。
頼むから……
悪魔は消えて、ガキは生き絶え絶えに壁にもたれかかっている。
重い体を引きずってその場所までたどり着いた。
「……くそガキ」
漆黒の瞳には光がなかった。
あまりのショックでどこか意識が飛んでしまっているようで反応しない。今だって果たして目の前の俺の姿が意識の範疇にあるのかすらも怪しい。
それでも唇の端をあげて、満足げに微笑んだ表情で中空を見つめている。
その微笑みはどうしようもなく胸を締め付けた。
状況は何も分からなかった。ただ、目の前の少女が悪魔と契約を交わし、敵を撃退したということと、その衝撃的な体験のために茫然自失の体になっていることだけが理解できた。
「もう笑うな」
辛い時には笑わなくていいんだ。泣いていいんだ。
血まみれの頬にそっと触れる。指先の感覚がはっきりしなくて手のひら全体で包み込んだ。漆黒の瞳は全く力がない。
このまま少女が糸の切れた人形のようになってしまう気がして怖かった。
「ラック」
名を呼んだのは初めてかもしれない。一瞬、漆黒の瞳の光が揺れた気がした。
守りたかったのに。
何者からも、どんな辛いことからも守ってやりたかったのに。
それなのに……!
指で血をぬぐった。それでも微かに除く歯にも唇にも大量の血液がこびりついている。敵のセフィラの血なのかこいつ自身の血なのか分からない。
冷たい頬を何度もぬぐって、でもそれでも血はぬぐいきれなくて……心の痛みが突き刺ささったとげのように抜けない。
虚ろな瞳はどこに視点を向けることがない。初めて出会った時の人形のような彼女がもう一度目の前に浮かぶ。
もう二度と動かないのではないかという恐怖がむくむくと頭をもたげる。
そうだ。ねえさんが言っていた。見つけたとき記憶も声もすべてをなくしていたと。
もう一度そんな状態になってしまったら……?
「帰ってきてくれ」
心が壊れてしまえばもう二度と会えない。
笑顔を守りたかったけれど、それはそうやって辛い時にまで笑うって事じゃないんだ。本当に守りたいものは――もっと大きくて暖かなその心なんだ。
何もかもを受け入れて、周囲に太陽のような暖かさを与えることができるお前の心そのものを守りたいんだ。笑顔は心が表れた一端に過ぎないから。
辛いなら泣いたらいい。ずっと傍にいてやるから。
「ラック」
守ると決めたのに。
「戻ってきてくれ。会いたいんだ」
そんな言葉が自然に滑り落ちた。
心から人を大切に思い、どんなものでも包み込めるお前に会いたいんだ。
このまま心が壊れてしまわないように俺がいくらでも支えになってやるから。頼むから帰ってきて欲しい。
ねえさんが見つけ、3年間育ててきた魂をここで失うようなことはしたくない。
帰って来い。
肩に手をかけて首筋に額を押し当てる。血の匂いが鼻をついた。
「頼むから――」
声が聴きたい。
あの暖かな微笑をもう一度見たい。
阿呆面でいい、光の灯った瞳に会いたい……
「……ぅ……」
微かな声にはっとした。
「ラック!」
「ぁ……」
少しずつ焦点が合い始めた瞳。
「しっかりしろ!」
まっすぐに目を見つめて呼びかけた。
光が差し始めた瞳は力なく、しかしはっきりとこちらを見返した。
「アレイ、さん」
「ああ……」
思わず感嘆の声が漏れた。
漆黒の瞳は迷わず自分を見つめていて、少女はふわりと微笑んだ。
その微笑に言葉を失ってしまった。
「どうしたの? 泣きそうな顔……してるよ?」
「お前はいつもそうだな。」
血が気管に入ったのか少女は軽くむせた。
軽く背を叩いてやるとすぐに落ち着いた。
「大丈夫か?」
「だいじょうぶ。それよりアレイさんこそ……」
「そうやっていつも人のことばかりだ。そんなところは」
一瞬迷った。
「……嫌いじゃない」
「ほんと?」
少女は嬉しそうに笑った。
きっと自分はこんな笑顔が見たかった。
安心してきたら腹部に受けた傷が痛み出した。少女のほうもかなり衰弱している。左腕も悪魔に喰いちぎられたはずだ。
「戻ろう」
少女を腕に抱えあげた。
相変わらず軽かったが、少女が肩に額を押し当てた。
「あったかい」
そうやって小さな動物のように擦り寄ってくる様子が気恥ずかしくて、思わずもとのぶっきらぼうな口調に戻ってしまった。
「寝ろ。今外に連れてってやる」
「うん」
少女は目を閉じた。
手足から力が抜ける。きっと今まで緊張で張り詰めていたんだろう。
そう思って視線を前に戻すと、ちょうどねえさんが起き上がっていた。
「ねえさん」
「……ラック?」
どうもねえさんはこの少女しか目に入っていないようだ。
「いやあああ!」
空気がびりびりと震えるような声で叫んだねえさんは一瞬で駆け寄ってきた。
そうだ、ぐったりとして血まみれの少女はどう見ても尋常でない怪我をしているように見えただろう。
「大丈夫、これはこのガキの血じゃない」
「ああ、そうなの……」
言ってからねえさんははっとしたように俺を見た。
「アレイ!」
「半分くらいは俺の血かもしれん」
腹部の傷はかなりの量の血を流れさせてしまったようだ。
気を失う前にガキを運んでしまわなくてはいけない。
「真っ青よ、あなた! ひどい傷……」
「とにかく……上に……」
血が足りずふらふらとする頭を抱え、よろよろと階段を上りきるともう西に傾いた太陽が出迎えてくれた。
ガキを建物に運び込んですぐ俺は意識を失ってしまった。
やっぱり血を流しすぎたのが原因だったらしい。




