SECT.23 殺戮ノ悪魔
セフィラはとうとう天使を召還した。
頑丈なはずの檻は物理的とは思えない力で完全に粉砕されており、その前にはガキがへたりと座り込んでいる。
迷っている暇はない。もう一度叩き潰して、今度こそ完全な状態で処刑するのみだ。
「マルコシアス!」
そう叫べばいつものように加護を受けた状態で戦えるはずだった。
天使を召還したセフィラがいる以上、少なくともマルコシアスの助けがなければ互角には戦えまい。
だが、魔方陣は発動してもマルコシアスは姿を現さなかった。
「どうした……?」
その時、はっとした。
はるか昔セフィロト国と戦をしていた時代がある。その時代のレメゲトンが書き記した言葉――『堕天の悪魔は本物の天使の前で姿を保つことはできない』
ただの伝承だと思われていたそれが頭の中でフラッシュする。
「くそっ!」
ねえさんの姿が見えない。すでにセフィラにやられてしまったというのだろうか。
次の瞬間、ガキが絶叫がこだました。
「うああああああああ!!」
全く何が起こったか分からない。とにかくセフィラとの間に立ち塞がってガキを見たが、怪我をした様子もない。ただ額には見たことのない悪魔紋章が浮かび上がっていた。深い群青色のそれはまがまがしい光を放ち、それ自体がガキを苦しめているように見えた。
どさりと地面に倒れこんで苦しみから逃れるように床を這ってもがいている。
「たすけ……て……」
漆黒の瞳には光がない。
セフィラに幻影か何かを見せられているのか?!
「いやだあああ!」
絶叫が耳に突き刺さる。
とにかく気を確かに持たせるしかない。
腹の底から搾り出すようにして叫んだ。
「起きろ、くそガキ!」
その瞬間、ようやくガキの瞳に光が戻った。
少しだけほっとしてセフィラのほうを睨みつける。
「貴様はまた邪魔をするのか……」
銀髪のセフィラは頭上に天使の姿を戴いて、忌々しげに呟いた。
背後ではガキの荒い息遣いが聞こえる。いったいこいつに何をされたというのだろう。
許さない。ぜったいに殺させない。触れる事だってさせない。
セフィロト国神官セフィラ、第6番目ティファレト――使役するのは美のミカエル。流れる銀髪が群青の瞳を嵌め込んだ美しい顔を縁取っている。左手に銀色の剣を携える姿は天使軍の長にふさわしい。
「マルコシアスの加護がない貴様など敵ではない!」
天使の前で堕天の悪魔は呼び出せない……それはただの伝説だと思っていたが、本当だったようだ。
それでも負けない。後ろにいる少女を傷つけることは許さない。
銀髪のセフィラは光り輝く銀の剣を作り出した。
この間のように油断することはない。
慎重に剣を構え、相手の攻撃を待った。自分から攻撃するのはタブーだ。マルコシアスが自分に重点的に教えた剣は柔の剣、攻撃を仕掛けるよりカウンターで返すことを主とする。
これでこのセフィラと向き合うのは4度目だが、これまでで最も集中していたと言える。
敵の剣先の軌道までがはっきりと見えた。
剣筋をそらし、体勢を崩させて攻撃に転ずる。それが基礎の型だ。
が、手本どおりにうまく捌いても敵のバランスが崩れる様子はない。完璧に決まったはずの技がなぜか間一髪であたらない。
それどころか受け流している方の自分が押されてきた。
これが加護の有無の差なのか……?
一瞬の焦り。
その隙を突かれて攻撃が激しくなる。
がつん、と大きな衝撃が剣を握る腕に伝わってくる。
受け流すのが厳しくなってさらに押されてきた。
まずい、と思った次の瞬間だった。
「死ね!」
自分の剣が跳ね上げられる。
完全に体の全面のガードが空いた。
「!」
はっきりと相手の剣先が自分の腹部を大きく切り裂くのが見えた。
しまった。
間髪いれず第二激が追ってくる。
「ぐあっ!」
激しい痛みに一瞬目の前に暗幕が下りた。
闇の空間が広がっている。
かすむ視界に銀髪のセフィラとガキの姿が目に入った。どうやらガキ自身がセフィラと対峙しているようだ。
無茶な。
セフィラの実力はよく知っている。ガキのかなう相手ではないはずだ。
何とか立ち上がろうとしたが、それどころか体が動かない。指先さえピクリとも動かない。まぶたを押し上げているので精一杯だ。
緊迫した空気がその場に張り詰めていて、その静寂を破ったセフィラの低くよく通る声が響いた。
「器の差だな。読み誤ったろう」
銀のブレイドを閃かせたセフィラがにやりと笑う。いったいどういうことだろう?
それにつられたようにガキもにやりと笑う。
が、その表情はいつものものではない。残酷さと冷酷さを秘めた殺戮者の微笑――それはおそらく悪魔のものだ。
「読みアヤマったノは そっちダ 僕はもともト 剣士ジャない」
まさか……ガキの体が悪魔に乗っ取られている?!
この闇の空間はあの悪魔が作った特殊空間というわけだ。ティファレトの天使を包み込む空間を作り出す力を持つなど、あの悪魔はいったい何者だ?
次の瞬間、ガキの体が一瞬でセフィラの懐に飛び込んだ。
黒髪が一瞬漆黒の空間に靡く。
遠くて何が起きたか分からないが、ガキは――というかガキの体を乗っ取った悪魔はそのセフィラに飛びつき、蹴り飛ばすようにして離れた。
「僕ハ サツ戮と滅びの悪魔 グラシャ・ラボラス 武器は 剣ジャない この牙ダケだ」
その言葉に愕然とする。
グラシャ・ラボラスだと……?
確かにガキはあのコインを持っていたが、未だ契約はしていないはずだ。
ガキの姿をした悪魔は口から血を吐き出した。顔から首筋、とくに口の周りが真っ赤な血で染められていた。象牙色の肌に浮かび上がるそれは胸を裂くようなおぞましさを浮かべていた。おそらくセフィラの懐に飛び込んで一瞬で首筋に牙を立てたのだ。
血に塗られてゆらりと闇の空間の中にたたずむその姿はまさに殺戮の悪魔――
心臓がどくりと脈打った。
全身に痛みの感覚が戻り始める。
気の遠くなりそうな痛みに思わず顔をしかめた。
その瞬間に特殊空間が解除されて、目の前に地下牢獄の光景が戻ってきた。




