SECT.21 疼ク心ニ
普通は何日もかかる契約をたったの半日で終わらせて帰ってきたガキにはおよそ1ヶ月間の休暇が残っている。契約と回復にかかる期間を約一ヶ月と換算し、レメゲトンを治める王からそれだけの猶予が与えられるからだ。
昼食を済ませた後にそれを聞いてガキは首をかしげた。
「あれ? そしたらおれはその間どうしたらいいんだ?」
「アガレスと話しなさい、いろんなことを。彼は博識よ。彼の言葉は難しいかもしれないけれどとても勉強になるはずだわ」
「わかった」
「あとは、アレイとマルコシアスに稽古をつけてもらいなさい。あなたは、左手が使えなくても戦える方法を学ばなくてはいけないわ」
「……わかった」
ガキ自身も自分の左手がもう死んでしまったことを承知しているようだった。
ピクリとも動かない左手をちらりと横目で見て、唇を引き結ぶ。
「明日の午前中にはお医者さんが抜糸してくれるそうよ。午後にはもう包帯なしで動けるでしょう。そうしたら、まずは買い物にでも行ってきなさい。市場に行きたいんでしょう?」
「行っていいの?」
「今日がんばったご褒美よ。アレイ、一緒についていってあげて」
どうしてそんな話になるんだ。
「何で俺が……」
「こんな大きな街に一人で出すわけには行かないでしょう?」
「ねえちゃんは行かないの?」
「私は用事があるのよ、ごめんなさいね。大丈夫よ、アレイが連れて行ってくれるから」
「うん、わかった!」
「ガキのお守りなんか真っ平だ」
ふいとそっぽを向くと、ねえさんが含みのある声できっぱりと言った。
「あら、何を言ってるのかしら。一日でもラックと遊びに行けるのを許した私に感謝なさい」
「っ!」
ああ、何で俺はこのねえさんの目の前であんなことをしてしまったんだろう。
ねえさんに苛めてくれと宣言したようなものじゃないか!
「だいたい相手がラックじゃなければあの時とっくに気づいてるわよ? これ以上隠す理由なんてないと思うけれど?」
「若造が……」
「くそっ……」
あんな場面を見られてしまったのでは言い逃れできない。
頬に熱が灯る。
恥ずかしいのと照れくさいのとでとにかくこの場を離れたくなった。ガキが気づいていないのをいいことにねえさんの攻撃は容赦ない。
と、思っているとガキが唐突に叫んだ。
「アレイさんおれのこと嫌いなんだろ!」
その瞬間ねえさんが苦笑した。くそじじぃさえ笑いをこらえている。
というか、ガキの頭の中のブラックボックスはどこをどうやってそんな結論を導き出したんだ?!
思わず顔が引きつりそうになる。
ああもう本当におれにはこのガキが理解できない。なぜ自分がこれを『ひとつだけ』に選んだのか本当に分からない。
「報われないわねえ、アレイ」
失恋の痛みというよりは理解できないもどかしさで言葉が出なかった。
ガキは相変わらず年相応でない顔で唇を尖らせた。
おそらくこの部屋の中で最もこの状況を楽しんでいるであろうファウスト女伯爵が嬉しそうにガキに聞いた。
「ラックはアレイ好きなの?」
いったい突然何を聞くんだ?!
声も出ない。怒ったというよりは驚いたという感覚で思わずねえさんを睨みつけた。ねえさんはいたずら好きの猫のような目で興味津々にガキを覗き込んでいる。
ガキは少し首を傾げた、がすぐにこう言った。
「んとね、声が好き」
「?!」
「いろんな事教えてくれんのも好き。でも……」
でも、の後に続く言葉が予想できない。とにかくいいことでないのは確かだ。
もう逃げたい。
「口が悪いとこは嫌い!」
その瞬間にねえさんは大爆笑した。
「他には?」
「えっと、何か考えてるみたいな時の顔は好きだけど、きゅって眉間にしわがよってるときはあんまり好きじゃない」
仏頂面で悪かったな!
「あ、でもねでもね」
「何?」
「普段アレイさんを見てるのは好き! アレイさん、すごく綺麗だもん。ミメウルワシイってアイリスとリコリスも言ってたよ!」
もう勘弁してくれ!
席を立って部屋の扉に向かった。
ガキはきょとんとした顔をしていたが、いつものことだ。それは見なかったことにした。
ドアを閉めて、部屋の外の壁にもたれかかってとりあえず心臓の鼓動を落ち着ける。
『声が好き』
あの瞬間に心臓が跳ね上がった。
「はぁ」
ガキが自分のことを恋愛とかそんな目で見ていないことは知っている。それでも好きと言われれば嬉しいし、その言葉に一喜一憂してしまう自分がいる。
別に伝わらなくても構わない――いったいいつまで我慢できるのかしらね。
ねえさんとの会話がよみがえる。
本当にその通りかもしれない。
こんな一言で揺れる。感情にこれほどの振幅がある事に初めて気づいた。
「はあ……」
ため息が癖になってしまいそうだ。
何もかもおかしい。あのガキに会ってから。あの笑顔を知ってから。
気が狂いそうな感覚と明かりが灯ったような穏やかな気分が同居して胸の中を何かが渦巻いている。
一緒にいると暖かな気持ちに包まれるけれど、同時に心のどこかにぽっかりと穴が開いたように切なくなる。
表裏一体、正反対の気持ちがせめぎあう。
人はこれをなんと呼ぶのだろう。自分の心をもてあまして、飲み込みきれない気分をどうやって抑えているのだろう。会いたいのに、話したいのに実際目の前にするとうまくいかない葛藤をどう処理すればいいのだろう。
――本当に、気が狂いそうだ。
このままではいけない。
とにかく体を動かすべく建物を出て歩き始めた。




