SECT.20 最速ノ帰還
ガキが契約のため向こうに行ってから半日がたとうとしていた。ここは地下だから分からないがきっと外では太陽が天頂を過ぎてしまったはずだ。
まだまだ帰ってくるはずはないのだが俺もねえさんもくそじじぃもその場を動こうとはしなかった。
会話はないが、その静やかな空気の中にあのガキを思っていることは歴然だった。
ねえさんは床に膝をついてじっと祈りをささげていた。じじぃは何を考えているのか分からない表情で杖を突いたまま立っていた。
壁にもたれて少し目を閉じた。
まぶたの裏に思い浮かべるのはあの少女の面影。
ちゃんと帰ってきたら、少しくらいは優しい態度をとれるかもしれない。いや、それはガキの態度次第な気がしなくもないが。
そうだな、『ガキ』ではなく名前くらいは呼んでやってもいいかもしれない。
「ラック!」
そう、こんな風に……
ねえさんの叫び声ではっとした。
「おお!」
じじぃも感嘆の声を上げた。
まさか!
「ただいま!」
ずっと聞きたいと思っていた声がした。魔方陣の中に立つ人影に、目を疑った。
それでも、漆黒の髪も大きな瞳もはじけるような笑顔も本物だった。
間髪いれずねえさんが駆け寄って人影を強く抱きしめた。
「よかった……!」
震えるような声がこれまでの不安を全部表していた。
心臓がどきどきした。
「えらく早いな」
無事に帰って着てよかった。そういうつもりだったのに、口をついたのはやっぱりそんな言葉だった。
横を向くとじじぃと眼が合った。
「これまでの歴史の中で最短やも知れん。実に恐ろしき少女よ」
じじぃはガキのほうに歩いていき、自分もそれに従った。
「アガレスは何とおっしゃった?」
「困ったら呼んでいいって。コインも、ちゃんと。ほら!」
ガキは嬉しそうに契約を終えたコインを見せた。
「じぃ様より少し若い感じの紳士で、シルクハットをかぶってたよ。すごく優しいヒトだった。でも、話が難しくて半分も分からなかったよ」
いつもと変わらない口調に心の底からほっとした。
そうだ。こいつはいつだってこいつのままなんだ。
「……それでよく契約できたもんだ」
自分も何を変えることはない。今までどおりこのガキに接すればいい。
唯一つ変わったとすれば、これからはこのガキの傍を離れないようにするというその一点だけだろう。
「さあ、おなかすいたでしょう。ケーキも用意しなくてはいけないわ」
「やった!」
ねえさんはガキの細っこい手首にアガレスのコインを細い鎖で固定した。
「ねえちゃん。ねえちゃんの時はどのくらいかかったの?」
「私がクローセルと契約したときは、大体1週間くらいかしら。契約はすぐ済んだのだけれど、なかなかクローセルが帰そうとしなくて」
「1週間?」
ガキはびっくりしたような声を出した。
「アレイのときは、もっとかかったわよ。マルコシアスと契約に行って、帰ってきたのは3ヵ月後だったもの」
「3ヶ月!」
うるさいな、余計なお世話だ。
「剣の稽古をつけられていたんだ」
「すっごおい」
「帰ってきた時はぼろぼろだったわ」
余計なことは言わなくていい。マルコシアスとの契約に3ヶ月もかかったなど、クロウリー家の恥だ。
「でも、ちゃんと帰ってきた。それだけですばらしいわ」
「帰ってこないヒトもいるの?」
そんな当たり前の質問に、俺もねえさんも答えあぐねた。
帰ってくるものが2割に満たない時代が長かった。だがそれを知っていながら契約に送り出した後ろめたさがあった。
「帰って来ぬ者のほうが多い。8割は契約しようとした悪魔に囚われ、一生を向こうで終える。もしくは……命を落とす者も多いのだ」
じじぃの言葉にガキは目を丸くした。
「ゼデキヤ王はレメゲトンの称号を与えることを躊躇なさるの。本当に王の信頼を得られない限り悪魔との契約まで漕ぎ着けないわ。ゼデキヤ王が即位されてから、悪魔との契約で命を落とすものは出ていない……それはひとえに王の判断力と人を見る力が優れているおかげよ」
「帰って来なかったり命を落としたりしたのは昔の話だ。近年では堕天以外のコインは使わないことになっている。扱いづらいコインをわざわざ起こすこともあるまい」
「だてん」
ガキは自分の台詞の中から、また難しい単語に反応したようだ。
「クローセルさんも同じことを言ってたよ。だてんだから翼があるって。だてんって、なあに?」
「天使から悪魔になった人たちを、堕天と呼ぶのよ」
「クローセルさんも、マルコシアスさんも、アガレスさんも?」
「そうよ。他にもたくさんいるわ」
「フラウロスさんは?」
ガキが聞いた。当たり前の疑問だろう。
「フラウロスは違うの。彼は最初から悪魔よ。オレンジの大きな豹の姿で、恐ろしい地獄の業火を操ると言われているわ。焼き殺されたレメゲトンも数知れない。アガレスとは比べ物にならないほど苦労するはずよ」
「だから今回のゼデキヤ王の考えが理解できんといっているんだ」
「怖い悪魔さんなんだ……」
そうだ。アガレスとは比べ物にならないくらい残虐で、何人ものレメゲトンの命を奪ってきたコインだ。
「それだけゼデキヤ王はラックの能力をかっているということね。まあ、でもそれはまだ先の話よ。とりあえずはアガレスと契約した事でレメゲトンとしての地位を確立できるわ。フラウロスと契約するのは何年も先でいいの」
「そういうものなんだー」
「当たり前だ、このくそガキ」
契約を何度も何度も行うことは、それだけ多く命の危険にさらされるということである。
待っているこっちはたまったものではない。
「ガキって言うな!」
「そう何度も命を賭けられてたまるか」
契約へ向かう直前に思いが爆発して行動を起こすほどに不安だった。心配だった。もう帰ってこなかったらと思うといても経ってもいられなかった。
また思い出してしまって顔をしかめると、ガキはなぜか自分の顔を上目遣いに覗き込んできた。漆黒の瞳が真直ぐに向けられて、動揺した。
「何を見ている」
やはりそう突然優しくなれるはずもない。
いつものように仏頂面で返してしまった。
「もしかして、心配してくれた?」
「していない」
また、これも嘘だ。
「何言ってるの、もちろんしてたわよ」
ねえさんが代わりに答えてしまう。
「たとえあなたが3ヶ月帰って来なくてもアレイはずっとこの部屋に居たでしょうね。」
ちくしょう、まったく……
「でも、本当よ。今回は半日で戻れたけれど、次もそうだという保証はない。むしろ今回が歴史的に見ても稀有なくらいに簡単だったのよ。本当によかったわ、無事に帰ってきて」
「うん、分かった。悪魔さんと会うときは、すごく気をつけるよ」
素直に頷いたガキに、少し複雑な思いを寄せる。
気づいて欲しくないという気持ちはあるが、こちらがあれだけ恥ずかしい思いをしたのだから、もう少し何か変化があってもいいんじゃないのか?
「じゃあ、戻りましょう。少し遅くなったけれど昼食よ」
「はあい」
だが、ねえさんににこりと微笑んだガキの屈託ない笑顔を見ると、そんなことどうでもよくなった。




