SECT.19 大切ナ者ヘ
「行ってしまったわ……」
ねえさんの震えるような声が地下の空間に響いた。
「お願いよ、無事に帰ってきて頂戴……!」
ねえさんはきっと毎日だってケーキを用意して待つだろう。たとえ3ヶ月、あのガキが帰ってこなかったとしても。
「でもねえ、アレイ。手を出したら拳固じゃすまないって言ったわよね?」
「!」
しまった!
ガキしか目に入っていなかった俺は不覚にもねえさんのことを失念していたようだ。
自分はいったいこれからどうするのだろう? ガキが無事に戻ってきたとして、どんな顔をして会えばいいんだろう?
一気に血の気がひいた。
「あの子、どこからどう見てもかわいいもの。アレイが気に入るのも仕方ないわ。でもね」
ねえさんの笑顔が怖い。
「まだ早いわ。ラックは私の手元に置きたいの。これからは一緒に暮らせるのよ? 一緒にお茶をしたり料理したり、お菓子作ったり……まだまだやりたいことがあるのに、まだアレイには渡せないわ!」
「いや、そんな……」
ねえさんの脳内でいったいどこまで進んでしまったんだ。
ガキはきっとこれからもずっとねえさんと一緒に暮らすだろうし、自分が入り込む隙なんてどこにもないように見える。二人の絆には干渉できない。
そう思った時ちくりと胸が痛んだ。
「俺には無理だ。あのガキが一番大切にしているのはねえさんの方だ。俺が入り込む隙なんてどこにもない」
「今はまだそうかもしれない。でも、あの子はきっといつか私以外を選ぶわ。それはアレイ、あなたかもしれないしもっと別の誰かかもしれない。それでも分かるの。あの子は広い世界を知り始めている。そうすれば私のことなんて……!」
「そんな馬鹿な」
あのガキがねえさんの傍を離れる日が来るなんて想像もつかない。
「あの子は素直すぎるの。しかも、全く弱味を見せようとしないのよ。他人を大切にしすぎるあまり自分のことが疎かになってしまうの」
ねえさんはまるで泣きそうな顔で自分をまっすぐに見つめた。
猫のように金色の瞳が少しだけ潤んでいる。
「それはねえさんを大事にしているからだ。あのガキはねえさんを困らせて嫌われたくないんだとはっきり言った」
今でも覚えている。『ひとつだけ』を選んだあの夜、辛いと言って愚痴をこぼし自分に助けを求めたあのガキの台詞。本当に苛立つくらいにねえさんのことばかりを考えている。
深い絆を感じるたびに苛々する。
そう、これは嫉妬だ。
全てを認めた瞬間に何もかも合点がいった。
「あの子があなたにそう言ったの?」
「ああ」
表情まではっきりと覚えている。今にも泣きそうになりながら消え入りそうな声でこう呟いたのだ――『やだよ、ねえちゃんを困らせて……嫌われたくないもん。』と。
「本当に?」
ねえさんは驚いたように目を丸くした。
あまりの驚きようにこちらが動揺する。何か言ってはいけないことを言っただろうか。
「そう……あの子が」
ねえさんは力が抜けたようにとん、と後ろの壁にもたれかかった。
「ねえさん?」
「初めてよ、あの子がそんな風に心の奥を吐露することなんて」
「あのガキはいつもそうしているじゃないか」
天真爛漫で、脳と口が直結しているんじゃないかと思うほどに素直な性格の持ち主だ。
「違うわよ。いつもの台詞と、あなたに言った台詞は」
ねえさんは安心したように微笑んだ。
「よかったわ……でも、本当に寂しいものね」
「は?」
ねえさんの言っている意味が分からない。
いったい何のことだ?
眉を寄せるとねえさんはくすくすと笑った。
「あなたは変なところで鈍いのよね。昔からそうよ。でもね、お願いアレイ。あの子の傍を離れないで。何があっても守ってあげて」
「……」
返答はできなかった。
もう自分の中で答えは出ていたが、それを口に出してしまえばもう後戻りできなくなることも分かっていたから。
「当たり前だ、って顔してるわよ? アレイ」
ねえさんの顔にいつもの不敵な笑みが戻ってきた。
少なからずほっとする。ねえさんに落ち込んだ顔は似合わない。
そうやって他人に弱みを見せないところはそっくりだと思う。育て親にあのガキが似たんじゃないかと思うほどに。
「まあ、ラックのことですからあんなことされても気づかないでしょうね。あの子に思いを伝えていくのは大変よ」
言われて先ほどのことを思い出す。
思い出すたびに頭に血が上るような感覚に襲われる。死地へ旅立つ直前とはいえ、なんて事をしてしまったんだろう!
抱きしめた時の柔らかな感触や温かな鼓動を思い出して、頬が熱くなった。
「……別に伝わらなくても構わない」
「あら、そ? でもそれでいったいいつまで我慢できるのかしらね。見ものだわ!」
完全にいつものペースに戻ってしまったねえさんを止める術はない。
くそじじぃがこちらを見て嘲笑したように見えたが、それは気のせいだと思いたい。そうだ、くそじじぃにも見られてしまった。これは失態だ。
「ああ、でもアレイをからかったら元気が出たわ」
ねえさんは大きく伸びをした。
「あの子は大丈夫よ。なにしろこの私が3年間も手塩にかけて育てた秘蔵っ子なんですから!」
「……そうだな」
このねえさんの育て子なら、契約でしくじるはずはない。何より、あのガキの素直な心はきっと悪魔にも届くはずだ。
マルコシアスが気にかけているくらいだ。同じ堕天のアガレスもきっとあのガキの魂に何かを見出すだろう。
そう思ったら少し安心できた。
信じてあのガキを待っていよう。
これからのことなんてガキが帰ってきてから考えればいいことだ。




