SECT.17 眠レヌ夜
その晩は家に戻っても眠れなかった。
姉上はもうすでに今の家――フォーチュン家の屋敷へ戻っており、家の中はやけに広くて寒々しい感じがした。
自分の部屋がいつもより広く感じるのはなぜなんだろう。
眠れない時は剣の稽古をするに限る。
心乱れる時はいつもそうやって気を落ち着けてきたからだ。
「やあっ、たぁ!」
無意味に大声で気合をかけてみたりもするが、その合間の静けさがうるさい。
息を切らしながら稽古場の壁にもたれかかった。別館で作ってもらった稽古場は本館とは少し離れており、誰が来る気配もない。
静寂がうるさすぎて気がおかしくなりそうだ。一人でいては狂ってしまう!
「マルコシアス!」
闇の色の魔方陣が発動した。
剣の稽古にマルコシアスを呼ぶことは、これまでも何度かあった。
ただ、全身を現したマルコシアスの威圧感は並大抵ではない。契約のときの畏怖も加わって、いつでも終わった後は泥のように眠りこけるのが常だった。
今日はきっと、それがちょうどいい。何もかも忘れて眠りたかった。
ガキの笑顔も明日の契約のことも、胸の奥で疼く心の欠片も。
「どうした アレイ」
「剣の稽古を……お願いします!」
褐色の肌の戦士に深く頭を下げた。
「ふむ」
戦士は自分を上から下までなめるように見た。
「何か迷っておるな いいだろう 構えよ」
マルコシアスとの稽古はまだ未熟な自分にとって死闘に近いものになる。
雑念を取り払え。
今は剣先にだけ集中して……
その瞬間、あのガキの笑顔が目の前を通り過ぎた。
アシタ 契約 ガ
「集中せよ アレイ!」
死ヌカモ シレナイノニ
「くそっ!」
頭を振ってその考えを取り払う。
消えない。
あの笑顔が焼きついて離れない。
初メテ 会ッタ ソノ日ニハ……
「アレイ!」
マルコシアスの怒号。
はっとすると目の前の戦士からは闘気が完全に消え去っていた。
「今日はやめておけ 怪我をする」
「あ、あの……」
「黄金獅子の末裔か?」
「!」
なぜ分かったのだろう。
大きく目を見開いていると、マルコシアスはさもおかしそうに笑った。
「変わらぬな 実直で不器用 最初からずっと 変わらぬ」
「……!」
こんな風に自分のことを話すマルコシアスは初めてだったので、思わずどきりとした。
「認めてしまえ 楽になる もう気づいておるだろう?」
ねえさんも、姉上も同じようなことを言う。
いや、すでに断定している。
そして、自分も心の中で気づいている。
心臓がバクバクと脈打っている。全身から冷や汗が噴出した。
マルコシアスは少年のあどけなさを残す顔でにやりと笑った。
「あれは 極上だぞ? アレイ」
「……」
強大な戦士のオッドアイは自分を貫いた。
もう逃げられない。
最後通告を受けた気分だった。
自分が一番理解できない。一目見た瞬間から、強烈に惹かれていた。心でなく、全身があの少女を求めていた。
それは理屈でない感情だった。
それを知ってか知らずか、マルコシアスは言葉を続けた。
「近いうち花開く そうすれば 権力者はこぞって あれを奪おうとするだろう」
「それは……」
分かっていた。初めて彼女を目にしたときから。
グラシャラボラスのコインを持つ、黄金獅子ゲーティア=グリフィスの末裔。つややかな黒髪に象牙色の肌、澄んだ黒瞳とそれに見合う清浄な心の持ち主だ。
今はまだ少女の域を超えないが、もう2・3年もすれば絶世の美貌を手にすることは間違いないだろう。
「あの魂は 万物に平等 物事の本質を瞬時につかむ才能を持っている よい素材だ」
「分かっています」
少し話せば、あいつが秘めたものにすぐ気付ける。
無垢が故なのか、常識にとらわれない発想。知識のなさは頭脳の不足ではなく、単純な経験の不足からくるもので、決して頭の回転自体は遅くない。
時折もれる鋭い質問を聞いていると、むしろ賢いのではないかと思わせるほどだ。
経験さえ積めば、あいつはきっと強くなる。
グリフィスの名、美貌、そして能力。すべてを兼ね備えた少女は、おそらくこの国になくてはならない存在へと成長していくはずだ。
「奪われてからでは 遅いのだぞ?」
「そんなこと……」
知るか、といいそうになってあわてて留まった。
「アレイ」
「何ですか?」
「お前はレティに よく似ている もう何百年も経つはずだが」
マルコシアスの言うレティはおそらく初代炎妖玉騎士団長レティシア=クロウリーのことだろう。最初にマルコシアスを使役した勇壮な女剣士。
よく似ている、の真意を掴みかねて反応を返せなかった。
「妙に格好をつけたがる所が特に もう少しあの少女を見習うといい」
「……」
あれは、素直ではなく阿呆の鳥頭だ。
ねえさんに異常なほどに懐いていて、最近は生意気な口も覚え始めて、でも……
「明日、彼女が契約します。第2番目の悪魔、アガレスです。」
これまでの歴史の中で悪魔に取り入られ、帰ってこなかった者がいた。取り殺された者もいた。体を乗っ取られてやむなく処分された者もいた。
怖いのだ。もう二度とあのガキが帰って来ないかもしれないと思うとどうしようもなく胸が締め付けられてしまうのだ。
「契約に絶対はない、それはよく知っています」
「怖いか? アレイ」
炎妖玉と碧光玉のオッドアイが優しい光で自分を包み込んだ。
「それは……」
思わず口をつぐんだ。
これまでは畏怖の対象だったこの悪魔が、厳しくも優しい師の姿へと変化しようとしていた。
「怖い、です」
ポロリとこぼれた言葉が最後の堰を取り払ったように思えた。
堰を失った心は次々あふれ出して止まらなくなった。
驚くほど正直な言葉が自分の口から滑り出ていた。
「あのガキがいなくなると思っただけで震えが止まらなくなるくらいに怖い。明日の契約であいつが苦しむんだろうと思うだけで気が狂ってしまいそうなんです」
眠れないほどに押し寄せる感情に任せて、マルコシアスを召喚してしまうほどに。
いったいいつ、どうしてこんなにも彼女のことを思うようになったのか自分でも分からない。気がつけば彼女の笑顔が頭を離れなくなっていた。
いや、違う。
分かっていた。最初から。あの街で、偶然彼女を見かけたときから。自分の中の血があの少女を呼んだときから――
「きっと初めて見たときからもう俺は……」
気づかない振りも認めたくない気持ちの抵抗ももう限界だろう。
初めて見てからまだ10日も過ぎていないのに。
「心の変化に 時間は関係ない」
マルコシアスの声が耳に心地よい。もう何百年もクロウリー家に代々使役されてきた悪魔。見た目こそ少年のあどけなさを残しているが、実際過ごしてきた年月はその比ではないだろう。
その長い年月にこの悪魔はいったいどれだけのことを経験してきたのか、自分には想像もできない。自分にとっては伝え聞く伝説でも、目の前の悪魔にとっては実際に経験してきた事実なのだ。ゲーティア=グリフィスとのコイン契約も、暗黒の33日間もすべてこの人自身が起こしてきたことなのだ。
「慎重さは 美徳だ だが時に 勇気は必要だ」
「はい」
「間違えるな 己が望む事を 履き違えるな」
マルコシアスは微笑んだ。
あのガキとは違う、しかし人を見守る優しさを備えた笑顔だ。
いったいどれだけの歴史を見守ってきたんだろう。
「ありがとうございます」
「あのグリフィス家の末裔は 面白い だが 多大な困難を抱えている」
「グラシャ・ラボラスですか?」
「それだけではない」
マルコシアスは少し悲しそうな顔をした。
「マルコシアス?」
まるであのガキのようにぽかんとした声を出してしまった。
「言えぬ まだ早い」
マルコシアスの姿が透けた。
もう帰るのか。
「大切な者の傍を 離れるな 決して」
「ありがとうございました」
マルコシアスの姿は夜の闇に溶けるように消えた。
離れるな、と言った時のマルコシアスの痛切な表情がいつまでもわだかまっていた。