SECT.16 焦リト迷イ
部屋を出てすぐ、ガキは大きく伸びをした。
「なんだか疲れたよ」
「仕方ないわ。これはレメゲトンになるために必ず踏まなくてはいけない手順の一つよ」
「今のが?」
「ええ。レメゲトンの地位を与えるときは、二人以上の現職のレメゲトンと二人以上の王国騎士団長がいる前で王が宣言を行う必要があるの」
「めんどくさいんだね」
控え室としてあてがわれた部屋でヴァイヤー老師が現れるのを待つことになった。が、とても和やかに紅茶を飲む心境ではない。
ガキに与えられた第64番目の悪魔フラウロスは地獄の業火を操る灼熱の豹。その姿を見たものは炎に怯え陽炎に慄くという――だが、畏怖すべきは姿形だけでない。過去幾人ものレメゲトンを気に入らないという理由で焼き払ってきた恐ろしい獣である。
それをレメゲトンになったばかりのこんなガキに渡すなど、王はいったい何を考えている?
悪魔には大きく分けて二種類ある。
一つ目はマルコシアスやクローセル、ガキが今回手にしたアガレスなど、以前天使であったが魔界に下った俗に『堕天』と呼ばれるものたちだ。悪魔の中ではかなり友好的で、魔界へ来た人間をこちらに返したがらないことはあっても基本的に殺すことはない。
もう一つは、もともと魔界に生まれ育った悪魔だ。好戦的で残虐、恐ろしく冷酷なものも多いという。
「ゼデキヤ王の意図が分らん。こんなガキにフロウラスだと? このガキを体よくつぶしにかかったとしか思えん」
「違うわ、アレイ。ゼデキヤ王はこの子の秘めたる力をお見抜きになったのよ」
「そこでなぜそのコインが出てくるんだ。せめてもう少し大人しいコインで修行を積んでから……」
「若造、何も分っておらんな」
そこへしゃがれた声が割り込んだ。
「ヴァイヤー老師」
「すでに悪魔と契約した天文学者がもっと強い悪魔と契約するには一度目の何倍もの力がいる。逆に、最初に契約した悪魔が強ければ強いほど次の悪魔との契約は簡単になる。力とはすなわち精神力。いうなれば意志の固さだ」
久しぶりに見るくそじじぃはまた少し老けたような気がした。
褐色の肌のしわがまた増えた気がする。床まで届く濃い紫色のローブから除く手首は骨と皮だけになっているのではないかと思えるほどに細い。
「お主がグリフィス家の末裔か……女だと聞いたのは己の聞き違いか?」
くそじじぃは本当に不思議そうに聞いた。
まあ、無理もない。
「いえ、正装を支度する暇がなく弟のヨハンが着ていたものを拝借した次第です、老師」
「そうか」
くそじじぃは紅茶を持ってきた侍女に軽く礼を言った。
テーブルに向かうその足取りがひどくゆっくりとしたものになっている。よる年波には勝てないらしい。
じじぃは年をとっても鋭さを失っていない青い瞳に厳しい光を灯してガキに問う。
「名はなんと言う? 少女」
「えーと、ラックです」
「ラック=グリフィスと名乗りなさい。それに、目上の人には敬語を使うのよ」
「ラック=グリフィスです。よろしくお願いします」
「そうそう、これから人に名乗るときはそう言うのよ」
「はあい」
いつもの阿呆面になって、ふにゃりと相好を崩す。
じじぃは驚いて目を丸くした。
仕方がない。まさかこの見た目から……男装の麗人とも呼ばれるだろうこの容姿から3歳児のような発言が飛び出すのだから。
「精神年齢が低いんだよ、このガキは」
「ほう」
「私が3年前に拾った時には過去の記憶すべてをなくしていたわ。一体何があったのか分からないのだけれど、その時この子は全身にひどい傷を負っていて声も出せない状態だった」
これは初めて聞く話だった。
3年前に山で全ての記憶をなくした状態で拾ったとは聞いたが、怪我の話も声が出なかったことも初めて聞いた。
「最初の1年丸々かけて回復して、2年間で探索者の仕事をちゃんとこなすようになったの。おそらくその影響があって今のこの子の精神年齢が形成されたんじゃないかと思うわ」
声が出ない。そんな風になるなんていったいこのガキはどんな目にあったんだろう。
全身にひどい傷を負って、記憶もなくして……そこから回復するにはどれほどの苦労があったことだろう。
ねえさんはガキの頭をなで、ガキは嬉しそうに笑った。
この二人の間にある絆が何か少しだけ分かった気がする。
ガキがねえさんを何より必要とする理由も、世界の全てをかけてねえさんを慕う訳も。
「この子の心はまだ何色にも染まっていないの。何も知らない無垢な心を持っているわ。この子を天文学者にするなんて……私だって本当に嫌だったわ。でも、そうしないとこの子を私の傍においておくことは出来ない。逆に言えば、たとえレメゲトンになったって私の傍にいさえすれば守ることが出来るもの」
ガキは真直ぐな瞳でねえさんを見上げた。
無垢な心。
その全てがこの瞳と笑顔に表れている。
「おれ、ねえちゃんと一緒にいるよ? どこにも行かないよ?」
「そうね」
くそじじぃの瞳から厳しい光が消え、まるで幼い子を見るような優しげな瞳になった。
「刷り込みのようなものか。鳥は最初に見たものを親と信じてどこまでもついていくという」
「この鳥頭が」
ほんの少し苛立ちが募る。
この二人の間の強い絆を感じるたびにちりちりとした炎がほんの少し心の端を焦がす。
この炎の正体は未だ知れない。
いや、心のどこかではすでに気づいているが、気づかないふりをしている。
「まあよい。お主が国を裏切らない限りこの少女も国に仕え続けるだろうからな」
胸の端をちりちり焦がす感覚が消えない。
いったい自分はどうしてしまったんだろう。
「己が来たのはそのコインがどのようなものか、お主はこれからどういう立場になるのか、そして悪魔を使役するにはどうすればいいのかを伝えるためだ」
くそじじぃは幼い子に諭すようにゆっくりはっきりと言葉を紡いだ。
「今回ゼデキヤ王は第2番目アガレスと第64番目フラウロスをお主に与えた。アガレスは地震を起こす力を持ち、フラウロスは地獄の業火を操る力を持つという。どちらも恐ろしく強大な力を秘めたコインだ」
「どんな悪魔さんたちなの?」
「アガレスは老いた紳士の姿で現れるという。その姿は優美にして壮麗だが、その言葉に曖昧さが多く入り混じる。伝承によるとまるで問答のようにして会話を進めるらしい」
「問答ってなぞなぞのこと?」
「そうだ。アガレスの言う言葉を真に受けてはならん。そこには確かに真実があるのだが、それは幾重にも折り重なった霞の奥に隠された至宝だ。アガレスの言葉を何度も何度も噛み砕いて考えるとよい」
アガレスは博識だ。その上言葉の扱いに非常に長けている。
単純明快な脳みそを持つこのガキに操れるはずがない。契約に行ってそのまま帰ってこないのがオチかもしれない。
「こいつにそれが出来るわけがない」
口からこぼれた言葉にガキが即座に反応する。
「出来ないかもしれないけど、がんばるもん!」
漆黒の大きな瞳は強い意思を帯びていた。
これは『ひとつだけ』を決めて、それだけを見つめている目だ。
ガキはすぐにくそじじぃへと視線を戻し、真剣なまなざしで問いかけた。
「もう一人のほうは? えーと、フラウロスさん」
「フラウロスは大きな一頭の豹の姿で現れる。人の姿もとるが、それはごく稀らしい。色は炎のように燃え盛るオレンジに黒の奇怪な斑点がある。瞳は燃え盛る炎の色だ」
ガキはそれを聞いてコインを二つ引っ張り出した。
それに続いて……最初から持っていた、グラシャ・ラボラスのコインも。
くそじじぃはさすがに嫌そうな顔をしてたしなめた。
「そのコインは使わんでいい。お主の過去への道しるべとして大事に持っておきなさい。グリフィス家の末裔である証だ」
「このコインの悪魔さんはどんなヒトなの?」
「……使わんのだから知らんでいい」
ガキは素直に言われたとおりコインを胸元にしまった。
それを見てじじぃが驚いたような声を出す。
「時に聞くがお主、コインはいつもそこにあるのか?」
「そうだよ。寝る時もお風呂はいる時もずっとつけてるよ」
「何と!」
驚いたのはじじぃだけじゃない。自分も十分すぎるくらい驚いた。
思わず頭を抑える。少しだけ……ゼデキヤ王がなぜこの二つのコインを託したか分かった気がした。
分かりたくもなかったが。
「ゼデキヤ王がアガレスとフラウロスのコインを託すわけだな。何という耐性の強さだ。この若造並みではないか」
くそじじぃがため息混じりに言った。
ガキはまたも何を言っているのかわからない、という顔で首を傾げ、ねえさんに回答を求めた。
ねえさんは困ったように解説する。
「悪魔のコインは普通の人にとっては毒みたいなものよ。近くに置き過ぎると体調を崩したり精神に異常をきたしたりするの」
まさにねえさんの言う通りだ。
レメゲトンになるときに付きまとう危険は契約のみならずその毒性にもある。
「でも、私たち天文学者になる者は悪魔のコインに対する耐性を持っていて、少しくらい持っていても平気なのよ」
「耐性の強さは人によって違う。俺やねえさんはそれなりに強いが……」
そこまで言ったところでねえさんに分断された。
「アレイ、あなたみたいな鉄の耐性と私を一緒にしないでくる?」
ずっとコインを手首に巻いている自分のことは棚に置いて、気にせず続けた。
「だがこのくそじじぃはそろそろ無理だろ」
睨み付けるとくそじじぃも負けじと細く青い瞳で睨み返してくる。
「年寄りを敬え、若造」
「うるせえくそじじぃ。年を考えてそろそろ引退しやがれ」
「お主が一人前になったら考えてやらんこともない」
「だったらせめてコインの数を減らしやがれ!」
ここのところ老けたのは年のせいだけでなくコインの影響も強いはずだ。
「己以外に老賢者フルカスと話せるものはおらんよ」
このくそじじぃが!
その言葉を飲み込んでそっぽを向いた。
「アレイもずっとコインを手首につけたままよ。私やヴァイヤー老師は普段体から離して保管しているわ」
「おれはどうしたらいい?」
「そうね、3つとも癖のあるコインだから……」
この上ないくらいにな。
「身につけていた方がいいかもしれないけれど、コイン同士はあまり近づけない方がいいわね。明日にでも加工してあげるけど、仕方ないから今日は一緒に首に下げておきなさい」
「はあい」
ねえさんに対していつものように素直な返事をしたガキを、じじぃが見たこともないような優しい瞳で見つめる。
「己に孫がおったらこのくらいか」
「んじゃあ、おれにじいちゃんがいたら老師さまくらい?」
「……そうかもしれないわね」
「じぃ様って呼んでいい?」
「かまわんよ」
このガキはまったく、やりたい放題だな!
そんな自分の視線に気づいているのかいないのか、ガキはにっこりと微笑んだ。
「仕方がない、孫のためじぃ様はがんばるとするか」
くそじじぃは椅子から離れた。
孫のために……明日行われる悪魔との契約のため、魔方陣を準備するのだろう。
契約のことを思い出してもう一度胸が痛んだ。
「今日中に魔方陣を完成させておく。明日また来るといい。神殿で待っておる」
「よろしくお願いします、ヴァイヤー老師」
くそじじぃを見送ると、本当に明日このガキが悪魔との契約に望むのだという実感がわいてきた。それとともに不安がむくむくと頭をもたげてくる。
この不安はいったいどこから来るのか。時折発生していらだたせるあの炎の正体は何なのか。
もう自分でも気づきかけていた。
それでも認めてしまったらもう後戻りはできなくなるだろうことが分かっていたから。
気づかぬ振りをしてやり過ごそうとしていた。
それが無駄な努力だと知るまでそうはかからなかった。