SECT.14 ウリエル
四枚翼の天使――?!
驚いて声を失った俺を尻目に、その天使は俺の背後のマルクトに向かって軽く手を挙げた。
「よーお、サンダルフォン」
長い金色の前髪から深紅の瞳をちらつかせて。
マルクトは顔をしかめ、両手をさっと振ってその天使に対して攻撃を仕掛けた。
天使同士で争うなど、見た事のない光景に思わず息をのむ。
しかし、漆黒の神官服を纏った四枚翼の天使は、のらりくらりとした動作でサンダルフォンの攻撃を避けた。完全に見きって紙一重で攻撃をかわしていくあの動きには見覚えがある。
そう、あれは相手の攻撃を見ながら(・・・・)避ける者の動きだ。
「こっちに出てきやがれ、サンダルフォン」
無駄のない、流れるような動きで攻撃を避け、すっとマルクトの額に指を当てた四枚翼の天使――美しいその動きの中には、あのくそガキの戦闘形態の行きつく先があった。
その瞬間、バチン、と何かが弾ける音がした。
そして、音と共に弾かれて反り返ったマルクトの体から、眩いばかりの光があふれた。
サンダルフォンをとりこんだマルクトの口から少女のものではない声が漏れた。
「何故 邪魔をするのです」
「何故って、お前こそリュケイオンまで何しに来やがったんだヨ。領権侵害でリュケイオンとの戦争いなっても知らねぇぜ?」
金髪の天使は腰に手を当て、呆れたように言い放つ。
すると、深紅の瞳をしたマルクトは――いや、おそらくこの天使によって現世界に引っ張り出されたサンダルフォンは、ため息と共に答えた。
「変わりませんね ウリエル」
「ウリエル……?!」
その名に思わず言葉を失った。
10人のセフィラが召喚する10の天使がある。
第一番目ケテル――王冠の天使、天界の長メタトロン。
第二番目コクマ――知恵の天使ラジエル
第三番目ビナー――理解の天使ザフィケル
第四番目ケセド――慈悲の天使ツァドキエル
第五番目ゲブラ――峻厳の天使カマエル
第六番目ティファレト――美の天使ミカエル
第七番目ネツァク――勝利の天使ハニエル
第八番目ホド――栄光の天使ラファエル
第九番目イェソド――智恵の天使ガブリエル
第十番目マルクト――王国の天使サンダルフォン
もちろん、天界にはそれ以外の天使も多く存在する。コインの悪魔以外にも、多くの悪魔が存在するように。
中でも最も有名な天使がウリエルだった。人間を騙しに現れた、天界の長メタトロンと決裂した、悪魔を擁護して天界を追い出された。ウリエルに関する噂はいつも型破りだ。
それゆえ『孤高の伝道師』の二つ名を与えられ、いつしか名前以外は歴史から葬り去られていった。
いま、目の前にいる天使がその『ウリエル』だというのか――?
金冠を背負ったマルクト――サンダルフォンは忌々しげに四枚翼の天使を見つめていた。それに対して、ウリエルと呼ばれた天使は肩をすくめて言い返す。
「俺様が大人しくコッチで暮らしてんだから、邪魔すんじゃねーヨ、サンダルフォン」
とても天使とは思えない口調だった。
ウリエルは深紅の瞳をちらりと俺の方に向け、ため息をついた。
「追いかけてるコレが原因なんだろうが、領権侵害は余計な戦しか生まねぇぜ?」
「言われずとも 分かっています」
少女のマルクトから、低くうめくような声が漏れた。
「しかし それ以上に マルコシアスを 逃すわけには いきません 無論 その息子も」
「知らねーぜ、そんなことしててまたケテルに怒られんぞ?」
「人間の命令は聞きません 私は兄の命に従うのみ」
「ふーん、でもそのケテルを選んだのはメタトロンじゃね? そこはどうなんだよ」
そう言うとサンダルフォンは言葉を止めた。
ウリエルの口元がにやりと笑みの形に歪んだ。
「アイツの考え方だって一つじゃねーんだヨ。人間が俺様たち天使から影響を受けるように、俺様たちだって人間から影響を受ける事はあり得るぜ。いつまでもメタトロンが昔のままだと思うなヨ」
「嘘をつくな と言いたいところですが」
マルクトは――サンダルフォンはため息をついた。
「ウリエル 貴方の言う事は 昔から的を射る」
「だから帰れって。俺様の日常生活を邪魔すんじゃねーヨ、サンダルフォン」
「ですが」
いい下がるサンダルフォンに、ウリエルは一喝した。
「いーから帰れっつってんだよ!」
長い前髪の間から、強い光を放つ深紅の瞳が覗いた。
「ほれ、急がねーと来ちまうぜ?」
ウリエルが指差した先、乾いた褐色の大地に砂埃を上げながら、何かが地平から近づいてくる。
「ここいらは、軍神アレスの領域だろう?」
はっとしてウリエルの指した先に意識を向けると、天使とも悪魔とも違う不思議な気配が近づいてきていた。
予想通りの事態だ。
軍神アレス。それは、リュケイオンの宗教組織『テオゴニア』に属するオリュンポスの一人だ。リュケイオンで天使や悪魔にあたる、『精霊』を召喚し、その力を行使する者。
マルコシアスは俺を庇うように翼を広げた。俺をすべてのものから守るように。
その好意に甘えて倒れ込むようにマルコシアスの背に落ちた。
両腕の感覚はほとんどなくなっていた。
刺さった刃を引き抜いてもいないのに、指先からはぽたぽたと血が滴り落ちていた。
「さぁ、俺様は逃げるぜ? お前はどうする、サンダルフォン」
ウリエルの言葉にサンダルフォンは答えなかった。
なぜ突如としてここにウリエルが現れたのかは全く分からないが、少なくともサンダルフォンよりは仲間に近いように思える。
「お前も俺様とサンダルフォンのくだらん言いあいなんぞ聞いてないでどっか行けよ、マルコシアス」
ひらひらと手を振るウリエル。
「何が目的だ ウリエル 我を擁護する理由など ない筈だ」
マルコシアスの言葉に、ウリエルは肩をすくめた。
「サンダルフォンが俺様の静かな生活を邪魔しやがったから追い返しに来ただけだヨ」
マルクトが召喚したサンダルフォン、狼の姿になったマルコシアス、そして突如現れたウリエル。
3つの魂が息のむ様な空間に集っていた。
マルコシアスは炎妖玉の瞳でウリエルを見た。
「ふむ」
そして、ふふ、と狼の喉から笑いが漏れた。
「ウリエル ひとつ 借りておく」
「そんなくだらん借りは忘れろよ、相変わらずお前はめんどくせぇ奴だな、マルコシアス」
肩をすくめて首を振ったウリエルは、ばさりと翼を一振りした。
「退け、サンダルフォン」
「仕方ありません ここは貴方の顔を立てましょう」
サンダルフォンは背に負った大きな金冠をばさりと動かした。
「何より オリュンポスと争うつもりはありません」
サンダルフォンはマルコシアスと、その背にぐったりと崩れた俺を交互に睨みつけた。
「必ず 再び相見えましょう」
返答を待たず、サンダルフォンの姿はふっとかき消えた。
「ったくどいつもこいつも借りだの貸しだのウルセーんだヨ」
ふん、と鼻を鳴らしたウリエルは、ひらひら、と手を振った。
「じゃーな、マルコ(・・・)。もう会う事はねぇだろうがな」
「息子を救ってくれた事 感謝する」
マルコシアスは頭を垂れ、ウリエルはふっとその場からかき消えた。
ウリエルが消えてから、マルコシアスは地面に降り立った。
ここはリュケイオン。あれほど焦がれた異国の地だ。吹き抜ける風に負った怪我も忘れ、一瞬の心地よさを感じ取った。
「まだ気を抜くな アレイ」
マルコシアスの言葉で、なんとか意識をつないだ。
だめだ。いま意識を飛ばせばマルコシアスが魔界へ帰ってしまう。
それだけは避けねばならない。
一難去ってまた一難。
果たしてオリュンポスは敵か、味方か。
両腕が動かない今、腹筋を頼りに上体を起こした。
「弱みを見せてはいけない、と言ったのはねえさんだったかな……」
亡き上官の言葉は、いまも俺の中で生きている。事あるごとに思い出すそれは、何よりの道しるべだった。
かすむ視界に、砂埃が近づいていた。