SECT.9 幼キ猫
逃げられるとは思っていないが、少なくともこの広場のど真ん中で戦闘開始するのはかなりまずい。
「あっ! 逃げないでよー!」
無論、すぐにフェリスも追ってくる。
どこか戦闘できる場所を。
あたりを見渡すが、こんな大きな町の昼間、広場の真ん中にそんな場所があるはずもない。
街を駆け抜けて外に出るか……?
その時、視界の端に歌劇団のテントが映った。
もう四の五の言ってはいられない。
「ど、どうするの、アレイさん?!」
「迎撃する。一か八かマルコシアスを召喚する。だから、テントに飛び込んだらお前は少し離れていろ」
「えっ……?」
広場の真ん中のテントに、そのまま駆けこんだ。
舞台はすでに片づけられていて、大きな中央ホールに人影はなかった。
好都合だ。
くそガキを背にして庇いながら、後を追って飛び込んできたフェリスと向かい合った。
「お前は先に逃げろ。あいつを倒したらすぐに追いかける」
単純な勝負でもおそらく負けはしないだろう。しかし、得体の知れぬ相手、確実にここで足止めするには生身のままでは無謀。特に、フェリスが手にしているような飛び道具は相性が悪い。
昨日この街でケテルに遭遇したばかりだということを考えると、一か八かの賭けだった。
一瞬の迷いを振り払い、左胸に手を当てた。
「マルコシアス!」
魔界屈指の剣士の名を呼ぶと、全身に加護がいきわたり、背に大きな翼が広がったのが分かった。
「早く行け。俺もすぐに行く」
有無を言わさず召喚したのは、すぐにでもくそガキをこの場から遠ざける必要があったからだ。
マルコシアスを召喚した姿を見てまでここにとどまるほど、こいつはバカではないはずだった。
案の定、くそガキは震える声で、しかし決意した口調で告げた。
「分かったよ、アレイさん……おれ、モーリとルゥナーを探して、ちゃんと全部話すよ。全部話して、頼んでみるよ。だから……」
その言葉を最後まで紡ぐ前に軽い足音が遠ざかって行った。
どうやら、ちゃんと言うことを聞いて離れたようだ。
ほっとしたのもつかの間、目の前の敵に向き直る。
「うわー、これが悪魔の召喚? 初めて見た」
黒ニット帽のしたのセルリアンの瞳をきらきらとさせて、獣のような青年は目を大きく見開いた。
「翼も白いんだ、天使とあんまり変わんないね。不思議。でも、天使じゃないんだよね?」
「ほう 我の事を天使と呼ぶ人間が 幼き娘以外にもいたとはな」
フェリスの言葉を聞いて、マルコシアスは加護を残したまま、その姿を現世にあらわした。
褐色の肌に映える炎妖玉と碧光玉のオッド・アイ。袖なしのくすんだ紺の服から鍛え上げられた腕が伸びている。まだ少年のようなあどけなさを残した顔は、笑うと八重歯が少しのぞく。
背に負うのは大きな純白の翼、そして頭上に戴くのは金冠。悪魔らしいのは、黒髪の間から短い角が二本、生えているというだけだ。
彼は、自分の胸に刻印を施した契約の主だった。
久しぶりに現世に姿を現したマルコシアスは、両手に持った抜き身の剣を、腕を組む様にして脇に収め、地面に降り立った。
「マルコシアス」
「うわわ、マルコシアスって、魔界屈指の剣士じゃん。まじすげー!」
口を大きく開けてマルコシアスを見たフェリスの瞳に、嫌悪の色はなかった。
セフィロト国の人間は、特に神官に近しい人間たちは、悪魔を毛嫌いしているというのに。
脳と口が直結したくそガキのように、思わず、間髪いれず尋ねていた。
「フェリス、お前は悪魔を厭わないのか?」
「んー? オレっちは別に天使でも悪魔でもどっちでもいいよ」
「ふふ 面妖な 天使の加護を受けた親を持ちながら 我らを容認するか」
マルコシアスは楽しそうに笑った。
それを見てフェリスは首を傾げる。
「だって、どっちも一緒じゃん。何が違うの(・・・・・)?」
「何が、だと……?」
天使と悪魔は、何もかも違う。
かたや天界に住まう白き遣い、かたや気まぐれな魔界の住人。
セフィロト国が戴く天使、グリモワール王国で崇拝されていた悪魔。
まったく正反対の存在、それが天使と悪魔のはずだ。
「だってさ、マルコシアスは天使じゃないの?」
「確かにマルコシアスは元々天使だったために『堕天』と呼ばれるが、建国の折からコインでの契約を行っていた悪魔だ」
「魔界に住んでたら悪魔なの? じゃあ、悪魔が天界に住み始めたらそれは天使なの?」
「それは」
フェリスの問いに、思わず言葉を詰まらせた。
魔界を創ったのはリュシフェルだ。リュシフェルと共に魔界に下った天使たちを堕天と呼ぶ。さらに、魔界で生まれ育った悪魔もいる。
しかし、過去、天界へとのぼった悪魔はいない。それがいったい何になるのか、自分には答えられなかった。
口を噤んでいると、フェリスはくるくるとナイフを回した。
「ま、オレっちはどっちでもいいんだけどねー。シアさんは悪魔のことキライみたいだし、オレっちもどっちかというとキライっちゃキライかなあ?」
何だそれは。
こいつの基準は育て親か?
その瞬間、脳裏を数年前のくそガキの姿が過った。
「蒼瞳の幼き猫 お主は 幼き娘とよく似た魂を有しておる」
まるで自分の考えを読まれたかのように、マルコシアスがそう言って笑った。
「偏見を持たぬ眼差しと 育て親に心酔する幼き心 幼き娘が 有する心と同一だ」
「え、もしかして、マルコシアス、オレっちのこと褒めてる?」
「事実を 述べたまでだ」
「なーんだ」
頬を膨らませたフェリスの不遜な態度を見て、ますます若いころのくそガキの姿が思い浮かぶ。
くっく、と笑ったマルコシアスは、翼を大きく振り、ふわりと地面から浮きあがった。
「幼き猫 それだけの見識を有しておれば さらに上を目指すことも出来ように」
「さらに上? 何のこと?」
首を傾げたフェリスにはそれ以上答えず、マルコシアスは姿を消した。
この気まぐれさ、やはりマルコシアスは悪魔だ。
ふう、と一つ溜息。
「談笑の時間は終わりだ、フェリス。お前が俺とグリフィスの末裔を狙うと言った以上、放置するわけにはいかん」
「えーっ、そのまま戦うの? 卑怯じゃね? オレっち生身よ?! なんでそっちは悪魔召喚してんの?!」
「形振り構っていられないんでな」
「ひどいっ! グレイスだったら絶対にそんなことしないよね?!」
確かにあのくそガキなら真面目に生身で、下手をすれば素手で立ち合うだろうな。
しかし、今は緊急事態だ。
こいつを倒し、こうなれば国境に配された騎士団員たちを倒してでも、今すぐにでも国境を越えねばならない。
ケテルだけでなくマルクトまで出てきたら、もはや収集がつかなくなってしまう。
さらに、あの銀髪のティファレトが出てきた日には――
「すまないな」
「そんな謝罪はいらないよ! 悪魔返しなよ! ただでさえアンタ強いんだから、せめて生身になって!」
フェリスがあわてて両手をぶんぶん振り回す。
ついでに、降参を示すように、持っていたナイフをすべて放り出した。
「ほら! オレっちもう武器捨てたから!」
「ここで逃せばお前はマルクトを呼ぶだろう」
「そりゃシアさんに報告はするけどさ」
「では、致し方ない」
マルコシアスの加護を全身に受け、地を蹴った。
「やめっ……」
フェリスの台詞を最後まで聞くことなく、そのまま当て身で地面に沈めてやった。
マルコシアスを召喚するという少々大人げない方法で昏倒させた青年を見下ろし、軽くため息をついた。
さて、どうしたものか。
いくらか記憶を消してもいいのだが、そんなことをしたところで長くは持たない。
かといってこの場に転がしていくわけには……
そう思案し始めた時だった。
ざわり、と背筋を冷たいものが走った。
マルコシアスを召喚したのは、一か八かの賭けだった。
昨日この街でケテルと遭遇し、ティファレトの話を聞いた。
この青年はマルクトを『シアさん』と呼び、育て親と慕っていた。
それを、マルコシアスの力を借りて倒すのだ。一か八かどころか、どう考えてもこうなるのは分かっていたことだろう。
「オレが大事に育ててるんだ、フェリスをあまり苛めないでもらえるか」
だから自分は、戦争当時から考えなしとねえさんに罵られっぱなしなのだ。
倒れ込んだフェリスの隣に、何の予兆もなくふっと立つ影が現れていた。
色の抜けた白髪、血のように赤い瞳。かろうじて見覚えのある姿は、あのくそガキと共に剣を学んだという女性騎士だった。
オレ、という自称は女性らしくないが、それはくそガキにも言えることだ。
少年にしては華奢すぎる肢体は明らかに少女のもの。
「久しいな、レメゲトン」
「マルクト……!」
目の前に静かに現れたのは、セフィロト国に使える神官だった。