SECT.21 再ビ誓ウ
もし自分たちがコインを持たなかったらどうなっていただろう。平穏な暮らしの中で出逢い、穏やかな生活を享受できただろうか?
いや、そんな過程は無意味だ。
そもそもきっと悪魔達がいなければ、自分たち二人は出逢ってすらいなかっただろうから――
長年の習慣と言うものは恐ろしい。
昨日あんなことがあったばかりだというのに、朝早くに目覚めてしまった。
仕方がないので日課となった剣の稽古をしよう、と外に出た時、ちょうど同じように木刀を振っていた元 漆黒星騎士団長と鉢合わせした。
「おはよう、アレイ。早いね」
「……おはようございます」
軽く礼をしてから、隣で稽古を始めた。
相変わらず美しい型を持つ義兄上の腕前は、あの頃から全く衰えを見せない。
「アレイ、少しだけ、話がある」
「何でしょうか?」
「……ファウスト女伯爵と、ミュレク殿下の事だ」
その名に、思わず手を止めた。
ひととおり稽古を終えて部屋に戻ると、ちょうどくそガキも目を覚ましたところだった。
明るい灯が差し込む窓の外をぼんやりと見つめている。
その横顔はひどく美しかった。胸が締め付けられるほどに儚く、憂いに満ちたその表情はもう少女のものとは言い難かった。一人の成熟した女性のそれは、目が離せなくなるほどに魅力的だった。
だから、声をかけるのを一瞬躊躇ってしまった。
「……ラック」
「なあに?」
振り向いた彼女は、いつもの表情に戻っていた。
どこか少女の幼さを残す明るい笑顔。光を灯した大きな漆黒の瞳。象牙色の頬を彩る黒髪。
きっと、初めて出会った時から変わらない。
「一度、カトランジェへ行かないか。そこに……ねえさんが、眠っているらしい」
「……え?」
少女は少し首を傾げた。
「あの時、戦争の混乱で遺体が王都まで辿り着かなかったらしい。義兄上が手を回して、カトランジェに埋葬してくださったそうだ。あの、森の中の、教会に――」
少女の目が大きく見開かれるのを見た。
「今晩、発とう。長居すればそれだけ危険は増える」
きっとこれ以上子供の傍にいれば、もっと連れて行きたくなってしまう。
それだけは避けなければならない。あの子らの未来を願うなら。平穏を、あの双子に贈りたいのならば。
妻はきゅっと唇を噛んで、こう言った。
「名前、つけよう。二人に。それからさ、羽根の加護を置いていこう。あの二人に悪魔の加護があるように――」
「……そうだな」
それ以上のものは残せないから。
いや、自分たちの痕跡を残してはいけないから。
「マルコシアスにしよう。名前」
少女の母親は唐突にそう言った。
「……男の方か」
「うん。マルコシアスさんみたいに強くて優しいヒトになれるように」
強くて優しい……?
優しいかどうかはさておき、聡明で真っ直ぐな、強い子に育つだろう。
「では、女の方は……ラスティミナ、という名にしていいだろうか」
「ラスティミナ」
その名に、母がはっと目を見開いた。
「……いいだろうか」
もう一度聞くと、グレイスはにこりと微笑んだ。
「うん。そうしよう……きっと、とっても強い女の子になるよ」
この少女の育て親で、自分の導き手。
誰よりも気高く、美しく、そして強かったねえさん――メフィア=ラスティミナ=ファウスト。
「大丈夫か」
「うん、平気……」
それでも青い顔をした彼女は胸に頭を預けてきた。
仕方がないだろう。この3日間、いろんなことがありすぎた。
本当なら今頃は子の誕生を祝って、微笑んでいるはずだったのだから――
「少し休もう。カトランジェなら、いくらか心許せる」
「……うん」
小さな声で返答した彼女は、まだ幼い少女のように震えていた。
何故いつも自分は何も守る事が出来ないのだろう。
自分の生みの母も、目の前で光に貫かれたねえさんも、一度死に至ったこの妻も……いつだって、一つだって大切なものを守りきることなどできはしない。
もっと自分が強ければ。
もっと多くの事ができたならば。
たくさんの命を守れただろうか。震える彼女に、別離の悲しみなど味あわせる事はなかったのだろうか――
午後から街の人にお別れを言ってくる、と言って出ていったくそガキは、幾許もしないうちに逃げ帰って来た。
部屋に駆け戻ってばたん、と扉を閉める。
「どうした。真っ青だぞ」
「アレイさん……」
尋常でないその様子に、また何かこのくそガキを傷つける出来事が起きたのだと直感する。
「あのね、街のヒトね、誰もおれのこと覚えてないんだ……きっと、ルシファとマルコシアスさんがやったんだ」
「何?」
「マリー姉さんもローストさんも、『旅の人かい?』って。気をつけなって……」
ああ、そうか。
マルコシアスとリュシフェルの光が街を包み込んだあの時、きっと自分たちの存在は街の人々の記憶から消え去った。おそらく、彼らも生まれたばかりの赤子の平穏を守るために。
「落ち着け。もしリュシフェルとマルコシアスのしたことなら、ただお前を狼狽させるためだけにしたわけじゃないだろう。よく考えてみろ、その方が俺たちがこの街を去るのには好都合だ」
「……っっ!」
唇をかみしめたくそガキにも、その事は分かっているはずだった。
それでもまた泣きそうな顔をした少女は、勢いよく自分の胸に飛び込んできた。
震える声で、震える肩で。
「……お願い。もう一回だけ、言って?」
「ラック?」
「お願い……」
何を、とは聞かなかった。
これまでずっと見てきた。こいつが何に苦しみ、何を失い、何を求めているのかは手に取るように分かっていたから。
震える少女を安心させるようにきつく、きつく抱きしめた。
「大丈夫。俺は、俺だけはお前の傍からいなくなったりしない。ずっとここにいる。忘れもしないし、死んだりもしない。隣にいて、一番に助けてやる。永久にお前と一緒だ。もし、お前が嫌がったとしても……放さない」
もう何度も誓ってきた言葉だ。今さら口に出さずとも、ずっとそうしていくつもりだった。
それでも、お前がその言葉を望んでくれた、と喜んでしまうのは不謹慎だろうか。
いつも大切なものを失くしてぼろぼろに傷ついているお前が俺を求めてくれることを、何より嬉しく思ってしまうのは罪だろうか。
この先永劫の時を刻むことで、お前は何度も何度も傷ついてしまうんだろう。何度も別離を経験し、悩み、苦しみ、悲しみを抱いて生きていくんだろう。
でも、自分だけは絶対に傍にいてやる。
これまでの誓いをいっそう強く心に刻む。
戦場で一度死んだことで起きている自分たちの身体変化には気付いていなかった。この少女が過去をどんな風にとらえ、どんな枷を背負ってきたのか、まだ知らなかった。
マルコシアスが悲哀をこめて自身を『半端者』と言った理由を知っていれば、滅びの悪魔の名を呼ぶ度に滾る自分の中の血に気づいていれば、少しは予想できたかもしれなかったのに。