SECT.12 ローシェンナ
騎士団での生活が始まった。
辺境の地カーバンクルに砦を構える炎妖玉騎士団では、基本的に身の回りのことを自分でこなさねばならない。もちろん、貴族という身分は通用しない。それがたとえ、クロウリー家の嫡子であったとしても。
覚えるべきことは多かった。しかし、それらはすべて生活に必要なこと。
政治や経済、武道や歴史に関する知識がすでに豊富であった自分にとって、炊事洗濯の方法を学ぶのは新鮮だった。
特に、自分の身分を気にせず親しんでくれる仲間の存在は大きい。『ウォル』という愛称で呼ばれるようになるまで、そう時間はかからなかった。かつて母がそう呼んでいたように。
そんな仲間たちは、5歳でクロウリー家に引き取られてからほとんど外に出る機会のなかった自分をカーバンクルの街へと引きずり出し、貴族ではない一般の庶民たちの文化に触れさせ馴染ませていったのだった。
クロウリーの屋敷にいたころからは考えられないほど様々なものに触れた。
そうして徐々に忘れていった。
母を亡くした痛みも、父への畏怖も、悪魔の血も――
騎士団にきて初めての冬がきた。多くはないが、それなりに雪の降る土地だ。内陸部であるため、特に朝晩は冷え込みが厳しい。それでも朝昼関係なく稽古を続け、同期の中でも一目置かれる剣の腕を磨いていった。
そんなある日、同じ年に入団し、最も仲の良かったシリウスと共に街に出る機会があった
「お前は練習しすぎ! ちっとは休めよ。俺たちがお前に追い付けなくなるだろ!」
などという理由で休日の街へと連れ出されたのだった。
昨晩振った雪がまだ残っている地面に、さくさくと足跡をつけながら二人並んで歩く。
シリウスはけして小柄ではなかったが、すでに大人と同じ身長だった自分と並ぶと、彼の視線は少し見下ろす位置にあった。南方出身のシリウスは浅黒い肌に目立つ金髪とオリーブ色の瞳を持つ15歳の少年だった。
寒いのは苦手らしく、襟部分に毛皮のついた暖かそうなコートに完全に首をうずめている。
オリーブ色の瞳を恨めしそうにこちらに向けて、シリウスは盛大に文句を言う。
「お前……寒くないのかよ!」
「寒くないと言ったら嘘になるだろうな」
自分が身につけているのは綿も入っていない薄手のコート一枚だ。だが、シリウスのようにがたがたと震えるほど寒くもなかった。
しかしながらシリウスがあまりに寒い寒いというので、行きつけの定食屋で暖をとることになった。
店に入るとすぐ明るい少女の声がした。
「いらっしゃい! って、なあんだ、シリウスとウォルじゃない」
「ういっす」
シリウスが片手をあげて応える。
淡い水色のエプロンドレスを身につけた茶髪の少女が肩をすくめていた。年は自分たちより2つほど上、この店の看板娘のローシェンナだ。
「どうしたの? こんな時間に珍しい」
「今日は休暇なんだ。この間レメゲトンのリヴィングストン卿が亡くなっただろう? その葬送に出席するために団長から部隊長からみんな留守にしてたんだよ。それが帰ってきたから、今度はその間頑張ってた俺たちの休暇ってわけ! シェンナ、なんかあったかいの頼むよ!」
「うちが冷たいものを客に出すような店だとでも思ってるの?」
少女のあきれ声。腰に手をあててため息をついた少女は少しきつめな鳶色の瞳を歪めた。
温かい店内に入ってシリウスはようやくコートを脱いだ。
「あー寒かった」
「シリウスは無駄に寒がりよね」
「仕方ないだろう! 俺はもっとあったかいことで生まれ育ったんだ! こんな寒い所に来るとは思ってなかったんだよ!」
「何よ、カーバンクルを馬鹿にする気?」
「しっ、してねえよ!」
慌てて否定するシリウス。
その様子を見て肩をすくめたシェンナが自分の方を向いて微笑んだ。
「ウォルはどうする?」
「シリウスと同じものを頼む」
シリウスと並んでカウンター席に座ると、すぐに湯気の立つカップが目の前に置かれた。
「これは、あたしからの奢りよ。店の中でそんな寒そうな顔しないで。営業妨害だわ」
「ありがとう、シェンナ!」
シリウスは嬉しそうにカップを口に運んだ。
ほんのりと甘い香りがした。おそらくホットココアだろう。
昼時でもないのに店内が賑わっているのは、おそらく自分たちと同じように寒さに耐えかねた人々が逃げ込んだせいだろう。みな暖かそうな服に身を包み、湯気の立つ飲み物や食事を口に運んでいた。
窓の外では、雪が降り出しそうな分厚い雲が空を覆っている。今夜も寒くなりそうだ。
「何か見つけたの? ウォル」
じっと窓の外を見つめていると、いつの間にかシェンナが真横まで来ていた。先が軽くウェーブした柔らかい茶色の髪が頬に触れそうな位置にある。もちろんわざとではないだろうが、長い睫がすぐ手の届くところにあった。
普通の少年はこのくらい近くに少女の顔があれば避けるなり喜ぶなり反応するはずだが、全く自分の感情は動かなかった。
最近気づいたことだが、どうも自分は人より感情の起伏に乏しいらしい。
「いや、今夜もまた寒くなりそうだと思っていただけだ」
「こいつ、いっつも深刻な顔してるけどほとんど何も考えてねーよ。人生について深刻に悩んでるような顔しやがって」
「本当よね。顔に似合わず、ってこういう人のことを言うのね」
「……」
無表情も無愛想も生まれつきだ。今さらどうにかなるものでもない。
困って口を噤むと、シリウスがさらに笑った。
「この顔が困った顔だなんて、普通思うか? どう見ても不機嫌100パーセントだろ!」
つられてシェンナもくすくすと笑う。
この二人が互いを気にし始めているのは、いかに鈍いと言われている自分にもすぐに分かった。それは、寮での部屋が同じで、シリウスと過ごす時間が長いせいもあるだろうが。
最近のシリウスの話題はシェンナの事ばかりだ。すでに話を聞き流す能力も手に入れていた。
そのシリウスは15歳の少年らしい満面の笑みを見せた。
「でもずいぶん柔らかくなったよな。この一年で!」
「そうね。最初は……本当に怖い人だと思ったもの」
「……そうか?」
首を傾げると、さらに二人が笑う。
しかし、その笑顔が好ましいものだと思うようになっただけ、自分はこの一年で成長したのかもしれない。
その時、店の扉が乱暴に開かれた。
驚いた客の視線がそちらに集中する。
シェンナも声を失ったが、すぐ笑顔に戻った。
「いらっしゃいませ!」
あわただしく入ってきた男はあからさまに不審だった。
外は雪だというのにひどい薄着で、全身が震えている。足元も裸足で、落ちくぼんだ目は光を失っていた。手足も細く、栄養状態が悪いことは一目で分かった。
シェンナは慌ててその男にタオルを渡しに行く。
その後姿を見送ったシリウスと目配せする。何があってもすぐ行動できるように、常に手元に置いている剣が足元に立てかけてあることを確かめ、背後の様子に全神経を集中した。
この不審な男に、周囲の客も注目している。
受け取ったタオルを全身に巻いてなお震える男は、何かに脅えるように辺りをきょろきょろと見渡していた。もとは黒かったであろう髪は色褪せてぼさぼさ、同色の髭も方々にとんでいる。
ここ、カーンバンクルの人間でないのは一目瞭然。
「大丈夫ですか? どうぞ暖炉のそばに……」
シェンナがそう言うと、男はぎょろりとした目を彼女に向け、よろよろと暖炉に向かった。
その様子を見たシリウスがオリーブ色の瞳を細める。
「……シェンナに近寄んな、おっさん」
彼がぼそりと呟いた言葉に思わずため息する。
そう言う問題ではないだろう。
疑うべきは、あの男の素性だ。
どう贔屓目に見ても東の都トロメオを経てカーバンクルにやってきた旅人ではなさそうだ。だからと言って北の街シリアから来たにしては薄着過ぎる。ここより南は人の住めるような土地ではない。
必然的に、やってきた方角は決定出来ようというもの。
そう結論付けた時、もう一度店の扉が乱暴に開かれた。