SECT.11 悪魔ノ一族
これはもしかすると、俗に「走馬灯」と呼ばれる奴だろうか。もう一度人生を体験しなおしているようだった。
それに従って自分の人格が戻っていく。記憶が復元していく。
そうだ。思い出した。
彼女の名は――
「ラック……」
喉から漏れた名は誰に届くこともなく拡散して消え入った。
物心ついた時には、すでに母と二人だった。
王都ユダの城下町、それも裏通りの小さな小さな家に身を寄せ合って暮らしていた。薄暗く陰気くさい、日の当たらない裏道。レンガ造りの建物がまるで空を埋め尽くすように聳え立っていた。
身売りをして自分を育ててくれた母。そしてもう一人、自分に『ウォルジェンガ』という名をくれた異国出身の老人。
その二人が自分の世界のすべてだった。
「ねえ、キイじぃ。悪魔の話、聞かせて!」
裏町の路地、日も当たらないような最奥で壁にもたれ、舗装もされていない土の地面に座り込んで。
名付け親の老人、キイじぃにいつも話をせがんだ。
「仕方がないの」
元貿易商人だったが事業に失敗して国へ帰ることもできなくなってしまったキイじぃは、昔取った杵柄で教養深く、知識が豊富だった。このグリモワールという国のこと。崇拝されている悪魔のこと。そして、キイじぃが生まれ育った故郷の国に伝わる昔話。話が尽きることはなかった。
とても子を持つとは思えないほど美しい母と、キイじぃ。
これ以上の世界はいらないと思っていた。
が、世界は時に優しく、時に残酷な事をするのだ。
母に手をひかれて初めて裏街を出た。
太陽がひどく眩しかったのを覚えている。そして、道幅の広さと人が多いことにも驚いた。
少し怖くなって母の手をぎゅっと握ったまま俯いていた。
「さあ、ウォルジェンガ。これからあなたのお姉さんに会いに行くわよ」
「おねえ、さん?」
「ええ」
にっこりと笑った母は、すでに治らぬ病を抱えていた。
手首はとても健康とは言えないほどに細く、足も折れそうに華奢だった。それでも、自分の手を握り返す力は強く、安心した。
母の病は自分が近くにいる限り進行し、最終的には死に至るということを知ったのはずっと後になってからだった。
裏街で育った自分は、ある日突然名門クロウリー公爵家に養子として引き取られた。そしていつしかアレイスター=クロウリーと名乗るようになっていた。
病弱な母が亡くなった頃から、厳しい躾が始まった。貴族としての嗜みだという剣術、馬術、作法から舞踏に至るまで様々なことを叩き込まれた。
多くのことを学ぶのは楽しかった。新しく入り込んだ世界はあまりに広く、大きく、そして強かった。逆らうなどという言葉はまるでその世界には存在しないかのように。その上、最初は辛かった訓練もいつしか生活の一部と化していた。何より剣を振るのは単純に楽しかった。
何が何だかわからないうちに12歳になり、社交界にデビューした。
貴族の世界は、見たこともないほど明るく華やかだった。煌びやかなパーティでは父親であるクロウリー公爵に媚を売ろうという貴族たちがこぞって話しかけてくる。何もかも面倒だった。いきなり自分に突きつけられた世界はあまりに自分の意識からかけ離れすぎていたからだ。
クロウリー家は代々、悪魔のコインを守ってきた。契約の証であるコインを使って悪魔を召喚し、その力を得る。そうしてグリモワール王家に貢献してきたのだ。
ファウスト公爵家と今は亡きグリフィス家と並び称される強大な力をもつ貴族だった。
そしてそのクロウリー家は悪魔の血を継ぐ一族――その噂を聞いたのは社交界に出てから、偶然小耳にはさんだものだった。
「父上、お伺いしたいことがあります」
「話ならクリスに聞け。忙しいのだ、話しかけるな」
この家に来てからずっと冷たい父親は、使用人だった母に手を出し、そして捨てた。ところが世継ぎがいないとなると一転して自分をクロウリー家に引き入れた。
初めて見た時から、父親の存在は圧倒的だった。むろん自分には正妻であるクロウリー公爵夫人との交流は全くない。唯一、姉に当たるダイアナ=クロウリーとはしばしば話す程度だ。ほとんど執事のクリスが自分の世話や教育をしていた。
すでに50歳を越した執事のクリスは非常に有能だった。
そして、貴族の世界に放り込まれてすぐ母を亡くした少年に対して情も深かった。
クロウリー家は悪魔の血をひく一族なのか、とそのものずばりの質問をぶつけると、クリスは悲しげに微笑んだ。
それは、とうとうこの時が来たか、と諦めている顔でもあった。
「ぼっちゃま。昔話はご存知ですか?」
クリスはふとそう話を始めた。
「クロウリー家の源流は、伝説に残る女騎士レティシア=クロウリーに通じます。彼女が戦の悪魔マルコシアスを最初に使役したという事はご存知ですね」
「ああ、よく知っている」
悪魔学でも歴史でも、寓話の授業でも習うことだった。
「彼女は素晴らしい女騎士でした。生涯、その身を剣に捧げたのです。わずか20歳の時に炎妖玉騎士団の原型となる兵団を纏め上げてから、戦場での傷がもとで亡くなる31歳まで人間の夫を持つことはありませんでした」
「人間の?」
そこを強調したクリスに、この話の先を視る。
クリスにもそれが分かったらしい。淡々と告げた。
「もうお分かりでしょう。レティシア=クロウリーはマルコシアスと交わり、子を成したのです」
「……!」
「表向きは機密事項とされておりますが、この国では公然の秘密とされるほどに有名な話です。クロウリーは悪魔の血をひく一族。それがグリモワール国の重鎮と呼ばれる理由の一つでもあるのです」
頭を殴られたような衝撃を受けた。
自分の中に、悪魔の血が……?
マルコシアスは好きだ。戦の悪魔とも呼ばれる彼が無類の剣の腕の持ち主であり、自分の祖父に当たる人物が過去に使役していたという事はよく知っていた。今もそのコインがこの屋敷に眠っているという事も。
グリモワールの一民として、一人の剣を学ぶものとしていつか会ってみたいと強烈に思う相手だ。
しかし、自分がその子孫であるとなると話は別だった。
「私は人間ではないのか?」
そう問うとクリスはじっと唇をひき結んだ。
その様子に胸の奥から熱いものがこみ上げた。
「もういい!」
そう叫ぶと、クリスに背を向けて自室に閉じこもっていた。
自分は当たり前に人間だと思っていた。世界の人ほとんどそうであるように。
実はそうではないと気付いた時、世界は崩壊した――いったい自分は何をしているんだろう?
優しかった母はいない。訳のわからない世界に放り込まれ、抵抗することさえ許されない。父親は自分に無関心だ。姉は正妻の子ということもあって、心から親しむことなどできなかった。
14歳になる頃には実家を離れることを決めていた。
もともと父の後を継いで政治家になる気はない。また、自分の中にマルコシアスの血が流れていると聞いてからは国家天文学者、つまりレメゲトンと呼ばれる存在に憧れることもなくなっていた。
15歳の時、家出同然で騎士団に入団した。
試験ののち発表された所属先が炎妖玉騎士団だったのは何かの皮肉だろうか。
こうして自分はようやく実家を離れることができたのだ。