SECT.8 非日常ノ契機
穏やかに時が流れていった。
夏の暑さは心配していたほどでなく、身重のグレイスも未だ見ぬ子も元気なまま秋を迎えることができた。街唯一の女医のディーンにも順調だ、と太鼓判を押してもらい、見る見るうちに大きくなっていくグレイスの腹部を見て、生命の不思議を思い描いた。
店を閉めて家に戻ると、必ず妻が笑顔で迎えてくれる。最近購入したソファは、身重の彼女が休むにはちょうど良かったようだ。
隣に座ると、グレイスは見上げて微笑んだ。
「お帰り、ウォル」
すでに夜になると肌寒いくらいの季節になっていた。寄り添うようにして二人で一枚の毛布に包まれて、一日の報告をするのが常だった。
ディーンによると出産はもうすぐで、そろそろグレイスの体調に気をつけていて欲しいと念を押されている。だから店をほとんどリッドに任せて早めに家に帰ることにしていた。朝もぎりぎりまで残って家事をこなしていた。
そんな事をするとリッドに迷惑だとグレイスが怒るのだが、彼女の無事には代えられない。もちろんリッドも了承済みだ。
「ねえウォル。名前、何にしようか」
「早いだろう。まだ男か女かも分かってないんだぞ」
そう言うと彼女は肩にもたれて寄り添った。
「でも、すごく楽しみだね。どんな子かな。男の子だといいな。クラウドさんのところで剣術習わせるんだ。ウォルに似て、きっと奇麗な子だよ」
こういう恥ずかしい台詞を堂々と吐けるのはうらやましい限りだ。しかも、本気で心の底からそう思っているのだから言い返すこともできない。
そんな素直なところが本当に可愛いと思う。
「……お前に似たらきっと美人になるよ」
影響を受けて、照れながらもそんな台詞が言えるようになってしまった。
嬉しいような……複雑な気分だ。
それもすべて、幸せそうに笑うグレイスを見ているとどうでもいいことのように思えるのだった。
次の日はなぜか気になってしまって昼過ぎには家に帰ることにした。リッドに店を頼み、家路を急ぐ。
途中でグレイスの好きな桃を買うのも忘れない。
そうして歩いていくと、家の前にグレイスとダイアナが立ち話をしているのが見えた。
「グレイス! 体に障るからあまり外に出るなと言ってあっただろう!」
思わず叫ぶと、彼女は肩をすくめるようにして笑った。
「でもずっとうちの中にいたら気がおかしくなっちゃうよ」
「ふふ、生まれる前から過保護なお父さんね。今からこれじゃあ、生まれたらどうなるか……」
ダイアナの言葉には遠慮がない。
ほとんど自分たちの後見人と化しているクラウドとダイアナの二人にはいまだに逆らえなかった。
もう一人の後見人、クラウドもすぐに道場から出てきた。
「やあ、ウォル。仕事はどうしたんだい?」
稽古着だということは、今も生徒を見ていたんだろう。いまや街の多くの子供が通うようになった道場では、毎日入れ替わり立ち替わり道場生が稽古に来る。自分から見ても凄まじい腕を持つクラウドも常に稽古を欠かしていないようだった。
自分も早朝練習に付き合っていた。最初に言われたとおり、剣を振っている間は至極落ち着いた。
にこにこと笑うクラウドは絶対に裏に黒い人格を隠し持っている気がする。
全く、意地の悪い質問だ。
「……リッドに任せてきた」
これは言いたくなかった。
「リッドにばっかり負担かけちゃだめだって言ってるじゃん!」
こうやってグレイスが頬をふくらませて抗議するから。その姿は非常に可愛らしいのだが、あまり機嫌を損ねると厄介だ。
もう21歳、そろそろ母親になるというのにグレイスはまるで幼い少女のような心を持ったままだった。表情も仕草も言動も。見た目だけならだれもが絶賛する美女なのだが、どこか少女の雰囲気を残す愛らしい女性になっていた。
初めて会った時から変わらない。
これからもずっと、こんな穏やかな暮らしの中でこの笑顔を見ていられたらいい。
――しかし、世界はそんなことを許してくれるはずもなかった。
「クラウドさん!!」
突然その場にリッドの緊張した声が入り込んできた。
駆けてくる様子は尋常ではない。
「どうした? リッド。店で何かあったのか?」
「店、じゃ、なくて……いま街全部が……」
「急がなくてもいい。何があったのかゆっくりと話してくれないか?」
クラウドの声にもどこか焦りが感じられる。
リッドはいくらか息を整えた後、こう告げた。
「セフィロト軍が……来てるんだ」
その瞬間、金髪の美丈夫がはたから見て分かるほど顔をこわばらせた。いつも笑顔で何もかもを煙に巻くこの人らしからぬ表情。
そんな顔を見たのは、これっきりだった。
突如現れたセフィロト軍は、半年前から施行した悪魔崇拝禁止令を盾にすべての家を探索し、悪魔崇拝の証拠を見つけては街の人々に危害を加えているらしい。
「今、ローストさんとリストさんが捕まった。オレは途中でこっちに来たから、まだ捕まる人は増えてるはずだ」
クラウドの決断は早かった。
「ウォルジェンガ、グレイス、二人はすぐ家に戻りなさい。ダイアナは二人についていてくれるかな。リッドは私と一緒に来てくれ」
「待て、俺も行く」
そう言ったが、クラウドはすでにいつもの笑顔に戻っていた。
「だめだよ、大切な人の傍を離れては」
そんなことを言われてはここを離れるわけにいかない。
リッドと二人駆けていく後姿を見送った。
道場の隣の家に入り、落ち着いてダイアナの淹れた紅茶を口にした。
悪魔崇拝禁止令が出された時からいつかはこんな日が訪れるだろうと思っていた。天使崇拝を強要するセフィロト国が元グリモワールの民を弾圧し始めるだろうことはよく言う予定調和的な出来事だ。
少なくとも過去を持たない自分とグレイスはその片鱗を持ってはいなかったが、クラウドとダイアナは不安だった。
自分たちと共にいてもどこか気品漂う姿からグリモワールの追放貴族ではないかといわれている二人だ。また、天使の話が全く会話に出てこないことからも未だ悪魔を崇拝していることは一目瞭然だった。
「この家にはないのか? 悪魔信仰の証拠となるようなものは」
「ふふ、ちゃんと隠してあるわよ」
やはりあるにはあるんだな。後で隠し場所だけクラウドに聞くことにしよう。
そう思ってため息をついた。
「クラウドもダイアナも……未だ悪魔信仰を捨てないのか?」
「そうね。信仰、というよりは身近で当たり前すぎて今さら遠ざかることなんてできないわ。きっと多くの人がそう思っているはずよ」
確かにそうだろう。信条というものは昨日今日『やめろ』と言われて変えられるようなものではない。
商売をするときは黄金を作り出すという悪魔ハアゲンティに、家族が病気になれば癒しの悪魔ブエルに、困難が立ち塞がってどうしようもない時は魔界の王リュシフェルに祈る。
これまでの慣習はそう簡単に変えられない。
「……それによって国から弾圧を受けるとしてもか?」
「ええ。もちろんよ。だって私たちには魔界の王リュシフェルがついているわ。それに戦の悪魔マルコシアスも」
「そんなこと口に出すな。誰が聞いているか分からんぞ」
ため息交じりにそう言うと、ダイアナは微笑んだ。
「大丈夫よ、だって噂によるとゼデキヤ王の唯一の息子であるミュレク殿下は未だセフィロトの手に落ちてはいないのでしょう? 皇太子殿下は聡明で情に厚い立派なお方よ。時間はかかっても、きっとまたグリモワール王国は再建するわ」
「……まるで皇太子を知っているような口ぶりだな」
「ふふふ」
ダイアナは微笑んだだけだったが、ほとんど肯定したようなものだ。
一般人にはあり得ない剣の腕を持つクラウドといい、いったいこの夫婦は何者なんだろう?
訝しげにダイアナを見下ろしていると、彼女は隣に座っていたグレイスを見て眉をひそめた。
「それよりグレイス、顔色が悪いわよ。大丈夫かしら?」
「う、うん。大丈夫……」
とても大丈夫には見えない様子で額に手を当て、何かをこらえているようだ。
「ちょっとお水もらってもいいかな」
そう言って立ち上がった瞬間、グレイスは床に崩れ落ちる。
「痛……っ」
「グレイス!」
全身からさっと血の気が引いたのが分かった。
慌てて支えてはみたものの、グレイスの呼吸は荒い。顔も真っ青でかなり苦しげなことがすぐに分かった。
「ウォルジェンガ! 今すぐ街まで走ってディーンさんを連れてくるの。早く!」
「あ、ああ」
ダイアナの鋭い声に、すぐに家を飛び出した。