SECT.7 幸セナ生活
酒場の仕事はもう辞めるつもりでいた。業務が嫌なわけではなかったが、疲労度も激しく、このままではグレイスと過ごす時間が減ってしまうから――そんな女々しい事を考える自分はひどく新鮮だった。
どちらにしても一度ステラと話さねばならないだろう。
昼に街を歩くと、いつもと違う景色が見られる。
「ロータスさんじゃないか、珍しいね!」
酒屋の主人が声をかけてきた。卸売りの相手ということですでに顔見知りで、ここの娘は自分の酒場の常連だった。
「うちの娘がいま体調を崩しててね、手が足りなくて大忙しだよ」
「大丈夫ですか?」
「ああ、毎晩飲み歩いてるからだよ。あ、いや、ロータスさんは悪くないんだよ。うちの娘が」
「……いえ、俺はもう店を辞めることにしました。これまでお世話になりました」
そう言うと、酒屋の主人は目をぱちくりとさせた。
「そうなのかい? いったいどうして? 流行っていないなんてことないだろう?」
「いえ、少し……思うところありまして」
「さては特定の女でも出来たのか?」
図星。
口を噤むと、主人はもう一度目を丸くした。
「ロータスさんを射止めるなんて大した娘だね。どこの誰だい?」
少し躊躇った。
が、ぽつり、と零した。
「隣の家に住んでいた……」
「グレイスか! ああ、なるほど! それなら納得だ」
主人はポン、と手を打った。
「ふはは、なるほどな。街一番の色男を射止めたのは街一番の美人か。うん、妥当なところだな」
街一番の美人かどうかはさて置き、あの少女グレイスが街の人々に愛されていたのはよく分かる。いつも笑顔を絶やさず素直な心で人と接しているのだから、よほどのことがない限り人に恨まれることはないだろう。
少女の温かい笑顔を思い出して微笑んだ。
「よく笑うようになったねえ、ロータスさん」
「……そうですか?」
「ああ。表情も明るくなったよ。いいことだ」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げると、主人は少し表情を陰らせた。
「だが、少し気をつけた方がいい。ロータスさんのファンだって娘は多いから、グレイスが嫌がらせを受けることもあるかもしれない。逆もあるよ、グレイスを好きだったやつがお前さんに危害を加えるかもしれん……気をつけな」
主人の忠告を心に刻んで、ステラのもとに向かう。
昼間だから酒場は閉まっているが、階上の宿はやっている。店の中を通らなくても横の階段が入口になっている。
二階の受付には、ステラが暇そうに一人座っていた。
「あら、ウォルジェンガ。どうしたの?」
「少し話がある。時間はあるか?」
「ええ、いいわよ」
不穏な空気を察したのか、ステラは不機嫌そうに頷いた。
立ち話をするわけにもいかず、二人で宿の一室に入る。奇しくも、あの晩に少女が眠っていた部屋だった。二階の角部屋。
あまり長く話したくはない。単刀直入に言った。
「俺はこの店を辞めようと思う」
「……え?!」
ステラの眉が跳ね上がった。もちろん予想していたことだ。
「何言ってるの? どういうこと?」
「言葉通りだ」
にべもなく切り捨てると、みるみるステラの機嫌が悪くなる。
「別の店長は俺の方で見つけてこよう。それまではきちんと務めを果たす」
「何故? 何か不満でもあるの? 売り上げはいいはずでしょう? 忙しいのならバイトを増やしましょう」
ステラが矢継ぎ早に質問する。
「もっと広い店舗を確保した方がいいの? それとも……」
「いや、もう夜には働かない」
「仕事がきついのかしら? 宿の一つをあなたの宿泊専用にキープしましょうか?」
「違う。そんなことを望んでいるわけではない」
これ以上話すことはない。
部屋を出ようとすると、ステラが後ろから抱きついてきた。
「やめてくれ。何を言われても覆らない」
ぱっと振りほどくと、呆然となったステラが肩を震わせた。
「何故よ! 理由くらい言いなさいよ、ウォルジェンガ!」
すさまじい形相でにらみつけたステラは何か理由がないと引き下がらないだろう。
ひとつ、ため息をついた。
「……大切な人ができたからだ」
その瞬間セピア色の瞳が大きく見開かれた。
言葉を失ったステラをおいて、部屋を後にした。扉を閉めると、部屋の中で何かが壊れる音がした。
そのまま酒場の方に向かう。
ずいぶん自分に馴染んだ空気を吸い込んだ。ほんの数か月、春が終わって秋になるまでの短い期間だったがそれなりに楽しかった。
もし機会があるのなら今度は定食やでもやってみたい。リッドとグレイスがホールで働いてくれればいい。きっと繁盛するはずだ。この街のやさしい人々に包まれて。
そんなことを考えていると、表の扉が開いた。
「おはよう、店長!」
「早いなリッド」
そう言うとリッドはいつもと同じように笑った。
子犬のように真ん丸な栗色の瞳を見て話を切り出した。
「リッド、話があるんだが……」
「ここ辞めるんでしょう? 分かってるよ」
リッドは当たり前のように言った。
なぜ、と問う前に彼はえへへ、と笑う。
「グレイスのためでしょ。夜にこんなところで働いてたらほとんど一緒にいられないもんね」
「……」
何もかもお見通しというわけか。8つも年の違うこの少年にはどこか賢しいところがあるから。
「オレもすぐに辞めるよ。だってオレ、店長さんだからここで働いてたんだもん」
「リッド……」
「最初はさ、無表情で怖そうな人だなって思ったけど、全然違ってたね。店長さんはすごく優しい人だったよ。周りの人を誰一人傷つけないように気を配ってたよ。鋭そうなのにちょっと抜けてるところもあってさ」
にこり、と笑ったリッドはなぜか少し寂しそうだった。
「グレイスを幸せにしてあげて。もう二度と離れないように」
「リッド、お前グレイスのこと……」
「言わないでよ。オレ、二人とも……大好きなんだから」
まるで泣きそうな顔をして笑う少年に、心の片隅で謝罪する。
この優しい心を持つ少年にもきっと幸せな未来が待っていますように――心の底からそう願った。
幸せだった。
とても、幸せだった。
愛する者が隣にいて、戦いのない穏やかな時の流れの中でただお互いを慈しみ合い、優しい人々に囲まれて。
グレイスと共に暮らすようになるのに時間はかからなかった。冬になる頃には、狭い自分の家で二人身を寄せ合って生活するようになっていた。
店はとっくに辞めていた。ステラがあの後何も言ってこなかったのが少し怖い気もしたが、自ら寝た子を起こすこともないだろう。飲み屋街には近づかないようにしていた。
完成したクラウドの剣術道場でいくらか剣を振ることもあった。リッドはずっとその道場に通い詰めていて、いつしか道場内の少年の中ではずば抜けた技を持つようになっていた。
そして、冬を越した春。
街の中央広場で、優しい人々に祝福されながら祝言を挙げた。
仕立て屋のマリーが心をこめて縫い上げた新婦のドレス。純白のレースに彩られたグレイスは、この世のものとは思えないほど美しかった。
大工のローストさんが急ごしらえで作ってくれた階段を、手を取り合って上る。
壇上にいるのはクラウドとダイアナ。二人はすでに自分たちの親代わりだった。
「おめでとう、グレイス、ウォルジェンガ」
大粒の涙をぽろぽろとこぼしたダイアナがグレイスを抱く。
クラウドも珍しく翡翠を潤ませていた。
「これからはずっと一緒だね、ウォル」
漆黒の瞳が見上げてくる。
「これからも、の間違いだ」
微笑み返して抱き上げた。
集まった観衆から割れるような拍手がもたらされる。
「愛している……グレイス」
「わたしもだよ、ウォル」
花びらが舞う春、自分たちは幸せの絶頂にいた。グレイスの中にはすでに新たな命が宿っていたし、新しく店を開くことも決まっていた。
当たり前の幸せ。家庭を持ち、子を授かり、愛しい人と共に暮らす。
ただそれだけのことなのになぜこんなにも、泣きそうになるほどに嬉しいんだろう。
きっとそれは過去の自分が願い、求めて止まないものだったからだろう。それも、いくら手を伸ばしても届かない場所にあった。
その幸せがここにある。
この時自分は27歳、グレイスは21歳。
もう過去を振り返ることはなくなっていた。