SECT.6 共ニ生キヨウ
静かな部屋に残されたのは自分と、謎の少女。初めて出会った時からそうだった。いつだってこの漆黒の瞳に心乱される。
壊れそうに愛おしい、狂おしいほどに切ない。
今すぐにでも抱きしめたい――この感情はどこから湧き上がっているのか。
「ウォルジェンガさん……でいいかな」
「ああ、そうだ」
「でもそれ本名じゃないよね、きっと」
少女の言葉が胸に突き刺さった。
やはりこいつは自分の過去を知っているらしい。
「ああ、そうだろうな」
教えてほしい。自分の過去に潜む影。戦いの中で生き抜いてきたらしい自分が秘めた罪。
「だが本当の名は俺にもわからない」
その言葉は思いがけなかったようで、少女はきゅっと眉を寄せた。
「……え?」
「この街に来る前25年間の記憶はぼんやりとしか残っていない。まあ、その記憶もすべて幻想かもしれないが」
そう告げると、目を丸くした少女から笑みが零れた。
なぜ笑う?こっちは端から真剣だというのに!
苛立って思わず声を荒げた。
「何がおかしい? 俺を馬鹿にしているのか? お前は俺を知っていたはずだ。この街に来る前の俺を」
この傷の理由も、思い出せないわけも。
「そうでなくては、お前にこれほどまで心かき乱される理由がない!」
少女の漆黒の瞳がまっすぐに射抜いている。
何故だ。こんなにも胸が……痛い。
「教えろ! 俺はいったい……誰だ?」
ところが少女はさもおかしそうに笑った。
「……ははっ」
「まだ笑うか!」
思わず怒鳴っていた。
一瞬だけ部屋に沈黙が訪れた。
ところが、少女は泣きそうな顔になって首を振った。
「違うよ」
潤みそうになっている瞳にどきりとした。
「わたしも……同じなんだから」
同じ?いったい何が?
困惑して立ち竦むと、少女は淡々と述べていった。
「わたしもここに来るまでの記憶がすごく曖昧なんだ。すごく幸せにカトランジェって街で母さんと暮らしてた気がするんだけど……」
記憶が曖昧……?それではこいつも過去を知らないというのか。知らず、自分の感情をかき乱しているというのか?
返答できずに佇むと、少女は突然服を脱ぎ始めた。
「なっ、何をして……?!」
慌てて眼を逸らして背を向ける。
いったい何を考えている?!
「見て」
少女の言葉の意味が分からない。
「馬鹿か! お前は! 見られるか!」
「いいからこっち見て! 別に変な意味じゃないから!」
変な意味じゃないと言われても、こんな暗い部屋の中で男女が二人きり、という状況では妙な想像しかできない。
それでも、叫んだ少女の声は悲痛だった。
ゆっくりと、振り返る。
「とてもじゃないけど……平和の中にいたとは思えないよね」
下着姿の少女。滑らかな象牙色の肌に釘付けになった。
「お前……」
その姿は、とても幸せに暮らしてきた少女のものとは思えなかったからだ。
細い肩、そこから滑らかな背に向かって大きな逆十字の傷がある。首から腰に向かってくっきりとついた深い傷痕。それだけでなく、首筋にも同じ傷が刻まれ、さらに肩の少し下のあたりにも貫いたような引きつる傷跡がある。伸ばした左腕は肘のあたりで千切れた跡があるし、手の甲は赤黒い血管が浮いていた。
とても年頃の少女とは思えない凄惨な傷に息を呑んだ。
肩越しにふりがえった少女は泣きそうな顔をしていた。
「すごいよね。びっくりするよね。でも、覚えてないんだ。いつ受けたのかも、どうして誰につけられたのかも」
悲痛な響きに、自分とおなじ苦しみを感じる。
過去もなく傷だらけのままで突然平和な暮らしに放り込まれた。平和は、確かに有り難く幸せなものだが、それは過去の上に成り立つものだ。それがたとえどれほど悲惨なものであったとしても。
過去のない自分たちは、いくら安心した生活を与えられても何も考えず享受することなどできはしない。
「わたしには過去がないよ。戦争ですごく酷い目に逢ったのかも……記憶をなくすくらいに」
少女の肩が震えていた。
もういい。もう……いいんだ。
お前は自分自身を傷つけることなんていいんだ。
「でも、これだけは覚えてるんだ」
くるりと振り返った少女。
年頃の少女の艶めかしい肢体が露わになった。
「きっとずっとあなたを――探してた」
象牙色の頬を、雫が伝った。
もうやめてくれ。それ以上自分を傷つけるな。
思わず少女に近寄り、両肩に手を置いていた
大きな漆黒の瞳から大粒の涙が流れ降ちる。
「ウォルジェンガ……さん?」
「ウォル、でいい」
曖昧な記憶の中、唯一鮮明に記憶は、母の声だった。「ウォル」と呼ぶ優しい声。
その名を呼んでほしかった。
涙にぬれた頬に手を伸ばす。初めて出会ったあの時のように。
「俺は過去を持たない。いったいどんな人生だったのか……少なくとも、安寧とした暮らしをしていなかったことくらいしか分からない」
ゆっくりと自分の服に手をかけた。床に服が落ちる。
上半身に刻まれた無数の傷を見て、少女が息を呑んだのが分かった。
「俺もお前と同じだ。とても平和な場所にいたとは思えない」
そのまま少女の背に手をまわして抱き寄せた。
素肌のふれあう感触が心地よかった。
「もし、記憶のない過去、お前と出会っているのだとしたら――もしかすると、同じ戦場で肩を並べていたのかもしれない」
腕の中の少女は震えていた。
「俺は俺のことをよく知らないし、お前はお前のことをよく知らない。もちろん、互いのこともだ。でも、これから……これから、知っていくことはできないか?」
きっかけは失われた過去かもしれない。愛しいと思うのは自分ではなく既に失くしてしまった心かもしれない。
しかし、今現実に、この少女が愛しいと感じている。この手を放したくないと思っている。
「もし記憶をなくす前にこの平和を望んでいたとしたら」
この少女と静かに、穏やかに暮らしたい。
もしそう願っていたとしたら?誰かは分からないが、その望みを叶えてくれたとしたら、少しくらいその恩恵に預かってもいいだろうか。
「もし失くした過去が辛いものなら思い出さなくてもいい。ただ、今生きてここにいる。それだけでいい」
抱きしめる腕に力を込めた。
少女の肩の震えがいつの間にか止まっていた。
「俺もずっと……お前を、待っていた」
会いたかった。ずっと、会いたかった。
「ウォル……」
熱に浮かされたような声で、歓喜が全身を駆け巡る。
涙にぬれた頬を拭うように指を滑らせた。
これまで女性に興味がないわけが良く分かった。
俺は、こいつだけを待っていた。
「グレイス」
軽い肢体はふわりと浮いた。
小さな両手が頬を包み込んでくれた。
そのまま漆黒の瞳が近づいてくる。
ずっと望んでいた少女を、ようやく手に入れた。
誓いは、果たされた。