SECT.4 思イ得ヌ過去
どうしてあんなことをしてしまったんだ?
動揺、自問自答、自己嫌悪。
様々な後悔が一気に押し寄せてきた。
「どうしたんだい、ウォルジェンガ。眉間に皺が寄っているよ。いい男が台無しだ」
いつしか名を呼ぶようになったクラウド。その馴れ馴れしさは不快ではなく、むしろ心地よかった。
「いや……なんでもない」
「そんな風には見えないよ?」
そう言った彼は当たり前のように閉店作業を手伝ってくれた。
リッドは店の掃除、自分はクラウドと並んで奥で食器洗いや明日のための食品補充を行っていたのだが、どうにも手が進まない。原因はわかっている。分かりきっているのだが……悶々とするばかりで自分の中の感情に答えが出ない。
気がつけば洗い終わった食器をもう一度洗い直していた。
「店長! 本当に大丈夫ですか?!」
リッドの声ではっとする。
「最近ほんとに忙しいから……店長、ほとんど休んでませんよね? オレもがんばるけど、もし余裕あるならバイトもう一人くらい雇いません?」
「そうするといい、ウォルジェンガ。君は少しばかり働き過ぎだ」
クラウドも穏やかな声で同意した。
「ですよね、クラウドさん!」
リッドがオーバーリアクションで頷いて、栗色の瞳で見上げてきた。ちょうど目線が自分の肩の高さと同じくらい。この年頃の青年としては平均より少し大きいくらいだろう。自分の背が少しばかり高すぎただけだ。
「無理しないで下さいよ、店長! 働き過ぎで体壊すなんて旧時代的なことは頼むからやめてください。そんなの……何の価値もない。自分を犠牲にするなんて美徳でも何でもない!」
悲痛な色が映っている栗色の瞳は今にも泣きそうだった。胸元を掴んで必死な口調で訴えるリッドは真剣そのものだった。
意外なほど熱の籠った口調に、一瞬驚いたが、すぐに息をついて言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「新しいバイトの事は考えておく。落ち着けリッド。自分を犠牲になどと大袈裟な……確かに今日は少し寝不足だったが、明日にはもう回復する。とにかく、手を放せ」
するとリッドははっとしてすぐに手を解いた。
そのまま後ろを向いて早口で告げる。
「オ、オレ、店の掃除してきます!」
そのままたたっと駆けて行ってしまった。
クラウドもその様子を見送って楽しそうに笑った。
「いい子だね」
「……そうだな」
「彼の言うことをきちんと噛み砕いて刻むといい。それは君に最も必要なもののはずだ……ウォルジェンガ」
クラウドの言葉に思わず首を傾げた。リッドが先ほど口にしたのは、考えるほど難しい台詞ではなかったからだ。
「リッド君と言ったか、きっと彼も過去に苦労したんだろうね」
クラウドはそんなことお構いなしににこにこと言葉を続けた。
「無理にとは言わないが、次の休みには是非うちに遊びにおいで。リッド君もつれて。きっとダイアナも喜ぶ」
店の片づけをすべて終えて二階へ向かう。クラウドが先に部屋へ行ったはずだ。
二階の角部屋の扉を軽くノックすると、クラウドの声が返ってきた。
ベッドの上には黒髪の少女が起き上がっていた。まだ閉じそうな瞼でこちらを見ている。その視線に囚われそうになって慌てて眼を逸らした。
あの時の想いと感触が蘇りそうになって声が震えそうになる。
「起きたのか? 歩けそうならすぐに帰れ。宿の主に知られる前に……」
ステラに気づかれると面倒だ――どうして、いやな予感ばかりが当たってしまうんだろう。
「誰に知られる前に、ですって?」
背後から厭味ったらしい女性の声が響いた。一番聞きたくなかった声だ。
最悪だ。
「人の宿の部屋を勝手に使っておいて何て言い草かしらね、ウォルジェンガ。使う時はまず持ち主に尋ねるものでしょう?」
「すまない」
とりあえず素直に謝罪した。言い訳などすれば余計にステラの神経を逆なでするだけだ。
ステラはセピアの瞳でベッドの上の少女を睨みつけた。
「いったい誰なの?」
誰だ、と聞かれても……それは自分が聞きたいことだ。
「……隣の住人たちだ」
簡潔に説明したつもりだったのだが、ステラは全く納得しなかった。
「それがどうしてこの部屋で勝手に寝てるの?」
にしても機嫌が悪すぎる。普段のステラなら酔いつぶれて宿を使った女性客には嫌みの一つだけで宿代を請求し、さっさと追い返すのに……今日はなぜか口調も荒く、敵意をむき出しにしている。
何より少女に噛みつくような視線が気に食わなかった。
「気分が悪くなったから休ませていただけだ。もう店も閉めるし、すぐ帰らせる。勝手に使ったことは謝るが、これまでも何度か客をここに寝かせたことはあるはずだ。なぜそんなに声を荒げることがある」
言い返すと、ステラはさらに機嫌を悪くした。
一触即発の空気が部屋を満たす。
それを破ったのはクラウドのやさしいテノールだった。
「すみません、お邪魔しました。宿代は規定通りお支払いします……さあ、グレイス、帰ろうか」
そう言ってクラウドは少女に背を向けて跪く。
「乗って。家まで送るよ」
一瞬ためらった少女は、それでも安心したようにクラウドの背に体を預けて首に手をまわした。
それを確認して立ち上がったクラウドはこれまで見た中で一番優しい表情をしていた。幼く愛しい娘に向ける慈愛の微笑み。それはまぎれもなく父親のものだ。
背の少女も安心しきった表情を見せる。
ダイアナを促し、ステラに軽く会釈をしてクラウドは部屋を後にした。
「さっきの子、誰?」
「だから隣の家の人間だと言っている。あの夫婦もだ」
ステラの相手は非常に面倒だ。自分の一番苦手な人間像。どうしようもないほど自身中心で他人はみなステラ自身のためにいると思っている。少しばかり恵まれた容貌をしている、ただそれだけでほんの少し勘違いし、そのまま育ってしまったのだろう。
話しているとわけもなく苛々する。
明るい金髪とセピアの瞳が誰かを思い出させようとするからかもしれない。大きく胸元のあいた細身の黒いドレスも心を掻き立てる。
だが、違う。
何かが絶対的にズレている。そのズレが、苛立ちを加速させる。
「ただの隣人? そんな風には見えなかったわよ? あの夫婦はともかく、あの子……あんな小娘!」
ああ、苛々する。この曖昧さが気持ち悪い。
あの少女が何者か知りたいのは俺のほうだ。過去に会ったことあるのか?いつ、どこで?どんな風に出会っている……?
あの少女は最近までカトランジェという小さな街で暮らしていたという女性客の言葉を信じるなら、出会う機会はなかったはずだ。自分はずっと王都にいたのだから。
王都で親類たちのもと――親類?
そこまで考えて愕然とした。
「……何か言いなさいよ、ウォルジェンガ!」
ステラの声が遠い。
耳元で心臓の音が鳴り響いている。
自分の記憶と日常が崩壊する音を聞いた。
いったいどうやって家まで辿り着いたのか分からない。
気づけば家のベッドの上で横たわっていた。
何もかもが信じられなかった。自分の記憶さえも――
「俺は一体、誰だ?」
ウォルジェンガ=ロータス?本当にそんな名なのか?いったい何を信じたらいい?曖昧な記憶の中には、親族の顔はおろか構成していた人々も、住んでいた家も周囲の景色さえ記憶に残っていないのに……?
体に刻まれた無数の傷が疼いている。
思い出そうとする心と抑制をかける何かが自分の中でぶつかり合っている。
――俺は死なない。お前の傍からいなくならない
頭の中に響いた誓いの台詞はいったい誰のものだ?
「教えてくれ……!」
呻くような呟きは部屋の空気に霧散していく。
裂くような胸の痛みが、蠢くような傷の疼きが消えることはなかった。