SECT.3 クラウド=フォーレス
店内が騒然となる。
「どうした?! 何の騒ぎだ?!」
見ると、端の一番小さなテーブルに黒髪の少女が突っ伏し、ダイアナは蒼白な顔でその肩を揺すっているところだった。
「ラック!」
中央で女性に囲まれていたクラウドもそう叫んで立ち上がり、すぐに少女のもとへ向かった。うつ伏せになっていた少女を起こして具合を見る。
心臓がすごい速さで脈打っていた。
クラウドが叫んだ言葉――ラック。何故だろう、こんなにも心が反応している。が、いったいその名は何だ?あの少女はグレイスというのではなかったのか?
リッドがおろおろと騒ぎの輪の中心にいるのが分かった。
「大丈夫、眠っただけのようだ。どうやらこの子は素晴らしくアルコールに弱いみたいだね」
クラウドはよく響くテノールでそう言うと、こちらに向かってにこりと微笑んだ。
「どこか休ませる場所はないかな? 店長さん」
仕方がないので併設している宿の一室を貸すことにした。だがそちらは自分ではなくステラの管轄だ。勝手に使うと後で何を言われるかわからないが、意識の途切れた少女を店に転がしておくわけにもいかないだろう。
クラウドとダイアナが付き添って、無事少女をベッドに寝かせることが出来た。二階に上ってすぐ、一人一泊用の小さな角部屋。
扉を静かに閉めて階下の店に戻った。
降りてみると、客はいくらか減っていた。先ほどの騒ぎと、自分が席を外したことが原因だろう。悪い事をしてしまった。
ずっと一人で働いていたリッドがぱっと顔を向ける。
「あ、店長。あの子大丈夫だった?」
「ああ。心配ない。今彼らが付き添っている」
「よかった!」
リッドは心の底から安心した顔を見せた。
カウンターに残っていた女性たちもほっとした顔を見せた。それほどにあの少女は街の人間たちから愛されているらしい。とてもリッドに触ったの触らないので乱闘を起こした、もしくはすぐに口論となる女性たちと同一のものとは思えない。
子は鎹と世間一般で言うようだが、まさにあの少女は年上の女性たちの心を鷲掴みにしているようだった。
本当に不思議な奴だ。
そう思いながら定位置であるカウンターに収まった時、クラウドが店の奥にある階段を軽い音をたてて降りてきた。
「やあ、すまないね。グレイスが起きたらすぐに連れ帰ることにするよ」
「構わない。たまにあることだ」
朝方まで開いているこの店において飲みすぎで動けなくなる客は少なくない。これまでも何度か部屋を解放したことがあった。むろん宿屋の店主に知られれば叱られること必至なのだが。
クラウドは穏やかな笑みを湛えてカウンターに向かってきた。
改めて見るとこの人の人並み外れた美しさが際立っていた。こんな小さな街の片隅にある酒場にいるには勿体ない美貌だ。
「お詫びと言っては何だが、少し手伝おうか?」
「いや、いい。今ので人も減った。手は足りている」
「ふうん。しかし、君もリッドくんもずいぶん忙しそうに見えたよ? もう一人くらいバイトを雇う余裕はありそうだったが」
「……検討中だ」
カウンターにいた女性たちが避けて無条件でクラウドの席をつくる。ちょうど自分の真ん前に。
少し遠巻きに自分とクラウドのツーショットを眺めているのはすぐに分かったが、無視することにした。
「彼女……グレイシャー=グリフィスとはどういう関係なんだ?」
「お隣さんだよ。特にダイアナは妹のように可愛がっていてね、グレイスもよくうちに遊びに来るんだ。どうやら懐かれてしまったようだね」
「グレイス……さっきは別の名で呼ばなかったか?」
何だったろう。確か、『ラック』とか……。
「いや、呼んでいないよ。あの子の名はグレイスだ」
この笑顔で何かいろいろ誤魔化されている気がするが、まあいいだろう。少なくとも聞いて答えてくれる人間ではなさそうだ。
「ジンをひとつ頼めるかな」
頼まれた酒をグラスに注ぎ、目の前に置くとクラウドは優美な仕草でそれを口に含んだ。遠巻きの女性たちからため息が漏れる。
金髪に緑翠の美丈夫は伏し目がちにぽつりとつぶやいた。
「私もダイアナもあの子が可愛くて仕方がないんだ。いつでも幸せを願っている。普通の、何の変哲もない日常の中に生きて欲しいと思っている」
その言葉にどきりとした。自分が心のどこかで願っていたことをそのまま代弁されたかと思った。
「もしよければ……ああ、店があるから強要はしないが、君もうちに遊びに来るといい。店主さん、君とはまるでどこかで会ったことがあるような気がするよ」
妙になれなれしい口調。甘いテノール。女性なら一瞬で恋に落ちるようなシチュエーションだった。
それでも全く不快ではない。というのも、自分も同じことを思っていたからだ。
この人とは――もちろんグレイスという漆黒の瞳の少女もダイアナも含めて――全く初対面という感じがしなかった。まるで昔から知っていたかのような不思議な感覚に見舞われていた。
そのせいだろうか。思うより先に口から言葉が飛び出していた。
「ありがとう。是非……伺おう」
街に越してきてから安寧に浸かるだけで人に関わろうとは思っていなかった。
ところが、少しずつ変化は訪れていた。
店を開くようになり、街の人々と触れ合い、そして――この3人に出逢った。まるで見えない運命の糸が導いているようだ。
何かが始まる予感はあった
が、漠然とし過ぎているそれはすぐに忘れてしまった。
明け方近くなってほとんど客が引くまでずっとカウンターに居座っていたクラウドと様々な話をした。
自分の故郷のこと。親類の家に引き取られたこと、折り合いの悪さと望まぬ縁談。不自然なほどに次々話してしまっていた。これほど話したのはこの街に来てから初めてだった。
一通り話が途切れると、クラウドはにこりと笑った。
「すまないが、少しだけグレイスとダイアナの様子を見てきてくれないか?」
あまりに自然な言葉だったために、彼の笑顔に誤魔化される形で水の入ったコップを一つ手に持ち、リッドに店を任せて二階に上がった。
クラウド自身が行けばいい、などとは思いつかなかった。
もしかすると自分自身あの少女のことが気になっていたのかもしれない。
部屋をノックするとダイアナの返事があってすぐ扉が開いた。
「ああ、店長さん。お水? ありがとう」
そのまま水の入ったコップを渡して下に降りようとすると、ダイアナが引きとめた。
「ごめんなさい、少し代わりに見ててくれないかしら?」
この笑顔には逆らえない。その意味では似た者夫婦なのかもしれない。
ダイアナが部屋を出ていくのを見送ってベッドの中の少女を覗き込む。
酒のせいかかすかに上気した頬が色づいていた。かすかに開く桃色の唇からは規則正しい呼吸が感じられる。安らかに閉じられた瞼から苦痛の色は見られなかった。幼い子のように眠る姿は素直に愛らしいと思った。
初めてこの娘を目にした時、自分はいったい何を感じ取ったんだろう?
それをもう一度確認するようにじっと寝顔を見つめていた。
が、ダイアナはなかなか帰ってこない。仕方ない、今日は寝不足で疲れているし、休憩だと思ってもう少しここにいよう。
そう決めると、ふと思い立って額に手を当てる。熱はないようだ。すぐに回復するだろう――そう思った時だった。
長い睫がかすかに揺れた。
「……ぁ」
少女の唇が動く。
うっすらと漆黒の瞳が見えた。
「アレイ、さん……」
「?!」
心臓が鷲掴みにされた。
息が止まる。苦しい――狂おしいほどに切ない。ただ安らかに眠る少女が、どうしてこんなにも愛おしい?
もう一度目を閉じた少女の黒髪を撫でる。
ゆっくりとベッドの脇に跪いた。
「ラック」
自分の喉から無意識で漏れた名にも気付かないほどに。
吸い込まれるようにして少女の桃色の唇に口付けを一つ落としていた。