SECT.2 美貌ノ夫婦
訪問者が帰ってから、腑に落ちない感情を抱えたまま夢現の境を彷徨い、いつしか夕刻になっていた。カーテンの隙間から橙の光が差し込んでいる。
最悪だ。
寝不足の頭を抱えて店に出ると、すでにリッドが準備を始めていた。
「おはようございます、店長」
「ああ。早いな、リッド」
「今日は開店前に干し肉を補充しておこうと思って。あ、あと窓枠の修理はさっきやっておきました」
「ありがとう」
リッドは非常に有能な働き手だった。働き始めてほんの一か月だが、今では彼がいないと店を維持できないだろう。常に満席が当たり前となってしまった今、もう一人くらい雇う人間を増やすことも考えていた。
眠い頭で料理の下ごしらえをしながら昼間の二人を思い出す。
そうだ、思い出した。女性客たちが最近引っ越してきた夫婦のことを噂していた。二人とも目の覚めるような美男美女で、おそらく夫のほうに剣術の嗜みがあるのだろう、今現在は街はずれに剣術道場を作っている最中だとか。
できたら子供を通わせよう、と言っている者もいた。
夫はまだ見ていないが、妻の方はなるほど、噂に上るほどの美人だった。それもきつい印象はないどこか知性と教養を感じさせる穏やかな女性だ。もしかすると、戦争の影響で地位をなくした貴族なのかもしれない。
では、もう一人……あいつは何者だ?ダイアナと並んでも何ら遜色ない美貌を備えた漆黒の瞳の少女。思い出すだけで心乱される、あの娘は一体――
「店長、焦げてますよ!」
リッドの声ではっとした。
慌てて奥にあった竈に駆け寄るが、すでに遅く手元には焦げ付いた鍋が残った。
「珍しいですね、ぼんやりするなんて。何か悩み事ですか?」
「少し寝不足なだけだ」
「大丈夫ですか? お疲れでしたらオレがあとやっときますよ」
リッドは大きな栗色の瞳を心配そうに細めた。
「いや、大丈夫だ、ありがとう」
どうやって育てられるとこんな青年が出来上がるのだろう。目端が利いて人への気遣いも忘れず、笑顔も絶やさない。女性客が今も増え続けているのも頷ける。
王都を離れてよかった。心からそう思う。
自分はもう今年で26になる。もうとっくに落ち着いていてもいい年なのだが、全く女性には興味を持てなかった。そのせいで親類に嫌みを言われることも多かったし、無理な縁談を持ちかけられたこともあった。
息苦しく閉塞した暮らしに終わりをつげ、自由を手に入れた。
このまま穏やかな生活を送る一生もいい。この街の片隅でゆっくりとした時に流されながら、何をするでもなく休みたい……もっとも、店を開けている間は全くそんなこと考える余裕もないが。
開店と同時になだれ込んできた客たちを見て軽く苦笑が漏れる。
忙しければいい。そうすれば何も考えずに済む。
あの、強い意志を秘めた漆黒の瞳も――
今日も店は大繁盛だ。10席ほどしかないカウンターには談笑する女性たちであふれている。
女性に興味のない自分だからいいが、普通の男性はこれだけの人間に一度に話しかけられると気が狂ってしまうのではないだろうか?それともやはり嬉しいなどと思ったりするのだろうか……わからない。きっと自分には一生分からない気がする。
こうして何も考えずに作業している時間が一番好きだった。
向けられる質問に淡々と答え、リッドの通した注文をこなしながらぼんやりとそんなことを思う。
「店長、カシスが足りないんで倉庫からとってきます」
「ああ、わかった」
そう答えた時、店の扉が開いて新しい客が入ってきた。
いらっしゃいませ、と言いかけて思わず口を閉ざした。
珍しい男性客だったからという理由だけではない。たとえ同性であったとしても思わず見惚れるような美丈夫だったからだ。
作業ズボンにノースリーブ姿だが、そんなラフな服も彼の魅力を損なう理由には全くならない。その場の視線を一気に集約する柔らかくもどこか澄んでいる一種独特の空気を纏っており、光の加護を受けた明るい金髪と翡翠の瞳が目を惹いた。唇に湛えた柔らかな笑みは完璧なまでに整った顔立ちによって生じる近寄り難さを取り払っていた。
店中の客が硬直し、釘付けになった――次の瞬間、悲鳴のような歓声があがる。
さすがにその嬌声にびくりとした男性だったがすぐに笑顔に戻った。
客たちは我先にと男性を腕をとり、中央の一番大きいテーブルの中央に据えた。
そこへ丁度酒瓶を両手いっぱいに抱えたリッドが戻ってくる。
「ああ、あれが噂のクラウドさんですね。話に聞いた通りだ」
「クラウド?」
問い返すとリッドは酒瓶を棚に並べながら答えた。
「ほら、街はずれに美男美女の夫婦が引っ越してきたって噂、聞いたでしょう?」
ああ、なるほど。あれが昼間に訪れたダイアナの夫という人物か。噂などあてにはしていなかったが、話に違わぬ美丈夫だ。
だが、なぜ彼がこの店に?
と眉を寄せると開け放たれたままだった扉からさらに二人入ってきた。
昼間自分の家を訪れた二人だった。
なぜあの二人がここへ来るのか。
愕然と見つめる。
ダイアナは華奢な肢体を空色のワンピースに包み、上質なケープを羽織っていた。その姿はふわりと温かな空気を纏っていたがどこか凛として、気品があった。やはり彼女は元貴族なのかもしれない。確かに夫だと思われる先ほどの男性と並べば高名な画家の描いた絵のように完璧だろう。
そして、もう一人。少女は艶やかなストレートの黒髪を胸元で揺らして柔らかなベージュ色をしたひざ丈のワンピースを纏っているのだが、シンプルなそのデザインと足元の皮サンダルのためにどこか幼く見える。少女は恐る恐る店に足を踏み入れ、物珍しそうに辺りを見渡していた。
「いらっしゃいませ!」
リッドが明るい声で出迎える。
そして、こっそりとつぶやいた。
「きっとあの人がダイアナさんですよね。本当に美人だなあ!」
リッドらしい、素直な感想だ。おかげで肩の力が抜けた。
「でも、隣の子は誰でしょう? あの子もすっごい可愛い子ですね!」
「……さあな」
それは自分が知りたい事だ。
店の一番端席に着いた二人に注文を取りに行ったリッドを見送って、カウンター席の女性たちの会話に耳を傾けた。
「何でクラウドさんたちがここに?!」
「分からないわよ! 私に聞かないで!」
話題はどうもあの夫婦が中心だった。戦争で没落した貴族だろうというのが街の人たちの見解の一致のようだ。
ところがあの少女のことはほとんど話題に上らない。
「すまないが……」
思わず口を挟んでいた。
一瞬にして数十の目がこちらを向く。
後々遺恨とならないよう誰か一人でなく全体を見渡すように視線を分けて質問した――どうも最近こんな能力ばかりが卓越していく。
「あの、先ほど入ってきた女性と一緒にいる少女は何者だ?」
すると女性たちの目が一斉に煌めいた。
我先に、と口を開く。
「あの子はね、可哀想な子なのよ!」
「戦争で家族を失って、3か月ほど前に親類を頼ってこの街に来たらしいの!」
「その親戚自身ももう引っ越してしまっていてグレイス、あ、グレイスっていうのはあの子の名前ね! グレイスは一人街はずれで生活しているらしいのよ」
「少しばかり抜けてるんだけど本当にいい子でね」
「よくダイアナさんと一緒に買い物してるわよ」
3か月前――自分がこの街に越してきたのとそう変わらない時期だ。
「戦争中からこの辺りに越してくる人は多かったものね」
「私も戦争中にここに来た身だし」
「この辺に住む人は本当に増えたわよねえ」
ここにいるのは自分と同じくらいの年齢の女性たちだ。
きっと彼女たちそれぞれも様々な人生を送ってきたんだろう。苦楽を乗り越えて今この場にいるんだろう。そう、きっとあの漆黒の瞳をもつ少女も。
そう思って店内に目を移した時、劈くような女性の悲鳴が響き渡った。