SECT.1 グレイシャー=グリフィス
開店してから一か月、あまりに忙しいのでバイトを雇うことにした。小さな店とはいえ満席になると自分ひとりで注文から調理までを賄うのは不可能だった。
募集の張り紙でもしようか。
そう思って開店前の夕刻にペンを片手に紙に向かっていると、いつの間にか後ろからステラが覗き込んでいた。
顔が違い。ウェーブのかかった明るい金髪がかすかに触れてかゆい。
「なあに? バイト募集?」
「ああ。さすがに一人では手が回らないからな」
「待ちなさいよ、ウォルジェンガ。あなた無節操にそんな募集張り出す気?」
ステラが呆れたように言った。
何か問題があるだろうか?首をかしげると、彼女ははあ、と大きなため息をついて腰に手を当て、反対の手で人差し指を俺の鼻先に突きつけた。
「そんなことしてみなさい、あなたとお近づきになろうと思ってる女性が街中から殺到するでしょうね!」
「……そうか?」
「そうよ! もう少し自覚なさい!」
「だったらどうしろと言うんだ」
目の前に迫った指が不快だったので手で払いのけた。するとステラもさすがにむっとしたような表情をする。
が、すぐにまたセピアの瞳を近付ける。腕に胸が当たっているのもわざとだろう。
逃げたかったがかろうじて堪えた。
「私に任せなさい。すぐに捕まえてくるから」
捕まえる?
とてもバイトを雇う時に使う言葉とは思えなかったが、彼女のことだ、また街で歩いている人間をその辺でスカウトしてくるつもりなんだろう――自分をそうやってこの酒場の店主に置いたように。
ステラは言葉通り、次の日には年のころ二十歳前後の青年を捕まえてきた。有言実行とはよく言ったものだ。
また見目麗しさで選んできたんだろう、どこか犬を思わせる大きな目が年上の女性受けしそうな屈託のない笑みを見せた。そうすると八重歯がのぞいて幼く見える。背はそんなに低くないのだが童顔で人好きしそうな雰囲気をもった青年だった。
「リディアルド=ピーシスです。よろしくお願いします」
はきはきとした口調は好感を持てた。表情をよく映す大きな栗色の瞳は少し緊張しているようだった。
「リッド君よ。ここから少し北にある農場の次男坊でずっと家業を手伝っていたのだけれど、お兄さんが結婚して仕事が減ってしまったんですって。だからここで働いてもらうことにするわ」
ステラはにこりと笑った。
よくこんなうまく見つけてきたものだ。感心するしかない。
「俺は店長のウォルジェンガ=ロータス。早速だが、今晩から働けるか?」
「はい!」
満面の笑みを見せたリッドという青年は、大きく頷いた。
リッドが働くようになって、さらに客が増えた――まあ、予想はしていたのだが。開店から閉店まで休みなく働く毎日。常連も増え、客同士でも様々交流があるようだ。
何度か女性客同士がつかみ合いの喧嘩になったこともあった。
その原因が、ある女性客がリッドに触ったの何だのという理由なのだからもうどうしようもない。これからもこんな理由で乱闘が起きるかもしれない。リッド本人のためにもいろいろ対策を講じるべきだろう。
それ以外はさしたる問題もなく毎日を送っていた。
その日もいつものように明け方家に着き、カーテンを閉め切って眠りについていた。夕刻の準備まで起きないつもりだった。
ところが、突然ノックが聞こえた。
不覚にも偶然目を覚ましてしまう。普段なら扉を閉め切った寝室にいればノックの音で目覚めることなどないのに。
仕方がない。
簡単に服を着て入口へ向かう。
「どちら様ですか?」
そして、扉を開けた。
その向こうに立っていたのは二人の女性だった。
「初めまして、向こうに引っ越してきたダイアナ=フォーレスと言います。ご挨拶に伺ったのですが」
年上と思われる一方の女性が微笑んだ。
ステラなど歯牙にもかからない、極上の美人だ。それも冷たさを欠片も感じない温かい柔らかな空気を纏ったやさしい微笑みを持つ。自分と同じ色の瞳は紫水晶のようだし、肌は絹のようだ。軽く波打ったこげ茶の髪をアップにして結い上げてあった。
女性に興味がないとはいえ、ここまで完成された美に出会ったのは初めてだ。
ダイアナ、と名乗った女性の美しさに思わず息をのんだ。
「あ、ああ……ご丁寧にありがとうございます」
引っ越してきた、と言われて思い出す。そういえば一軒向こうにずっと家を建てていた気がする。きっと建築が終わって引っ越してきたのだろう。
では、もう一人は?
視線を移すと、もう一人の女性も――いや、少女と呼ぶか微妙な年頃だろう。漆黒の瞳が何かを求めるように自分を射抜いていた。
その瞬間、心臓が跳ね上がった。
見下ろす位置にある大きな漆黒の瞳は無垢で、一点の穢れもなかった。
なぜだろう、心のどこかがかき乱されている。
大きな目にバランスのとれた鼻と桃色の唇。絵に描いたような美少女だった。それも、大人との境界で危うい魅力を保っている絶世の美女だ。艶やかな漆黒の髪はまっすぐ胸のあたりまで落ち、象牙色の頬を彩っている。
震えそうなほどの強い感情があふれ出してきた。
これは……歓喜?
「何でかな」
少女が口を開いた。
その声に魂が揺さぶられる。
「あなたを見てると、すごく悲しい事を思い出しそうな気がするよ」
少女の漆黒の瞳が潤んでいった。その涙にどうしてこんなにも胸が痛むのだろう。どうしてこんなに――
少女の頬を美しい雫が伝う。
その瞬間、心の箍が外れた。
欲望のままに手を伸ばす。その滑らかな象牙色の肌に、涙にぬれた頬に。
どうしてこんなに感情が揺れ動いている?ステラに何を言われても反応しなかったこの心がどうしてこんなにも歓喜を叫ぶ?初対面のこの少女を今すぐに抱きしめたいと思うこの感情は一体何だ……?
温かい頬に伝う涙を指でぬぐった。次々にあふれ出る雫を止めるように何度も、何度も。
すると少女はその手に小さな手を重ねてきた。
触れたところからやさしい感情が伝わってくる。
会いたかった。ずっとずっと、会いたかった――ずっと、探していた。
そうしてしばらくただ涙を流す少女と見つめあっていた。
が、少女は唐突にはっとして手を振りほどいた。その瞬間、拒絶されたことに心が敏感に反応してナイフで抉られるような感覚を受けた。
なぜだ。先ほど初めて会った少女にどうしてこんなに感情が揺れ動く?
何とか心臓を落ち着けて、もう一度少女を見下ろした。
あと2・3年もすれば完全に花開くであろう美貌を持った少女。大きな漆黒の瞳には強い意志が秘められており、その強さにどきりとした。
とにかく動揺していた。
突然少女が泣き出したことにも、自分がこれほど感情を揺らしたことにも。
そのせいだろう、思わず不機嫌な声で言い返してしまった。
「お前……誰だ」
すると少女は慌てて腕で涙を拭って目を逸らした。
そして、呟くように早口で告げた。
「わたしはグレイシャー=グリフィス。この家の隣に住んでるんだ」
グレイシャー=グリフィス?
聞き覚えのない名前だ。
それにしても、怯えたのか全く目を合わせようとしない。なんとなくそれが気に食わなかった。
「挨拶する時は人の目を見ろと習わなかったのか?」
すると少女はその美しい容姿に不釣り合いな幼い表情を見せた。
愛らしい桃色の唇を尖らせて上目づかいに文句を言う。
「まだ名乗ってもないヒトに言われたくないよ」
ああ、そうか名乗っていなかったか。
それにしてもこの少女の態度は少しばかり生意気じゃないか?
「俺はウォルジェンガ=ロータス。街で酒場の店主をやっている。ついでに言うと朝帰りで寝ていたところを叩き起こされて非常に機嫌が悪いんだ。分かるか?」
正論だったのだが、どう見ても10代後半の少女はまるで幼い子供のように言い返してきた。
「だからってシツレイじゃない? わたしは何も悪い事してないのに!」
その言い草にまたいらいらする。
「じゃあ今度お前を夜中に叩き起こしてやるから覚悟しておけ」
半分本気でそういうと、少女の眉が跳ね上がった。
が、そこはもう一人の女性――ダイアナが留めた。
「まあまあグレイス、今日は私達が悪いわ。日を改めましょう」
さすがに落ち着いた雰囲気の彼女が丁寧に謝罪し、二人は帰って行った。
しかし、ベッドに戻った後もあの強い意志を反射した漆黒の瞳が瞼の裏から消えてくれなかった。