SECT.25 繋ガリ
地面に降り立ったところでハルファスの加護が消えた。
どうやら魔界に帰ったようだ。
ふと土のフィールドを見渡すと、ふらふらとよろけながら立っているくそガキの姿が目に入った。
「アレイ、さん」
俺の姿を見るなり地面に崩れ落ちる。
慌てて駆け寄り、膝をついて仰向けに支えてやる。安心したのかくそガキは背を支えた腕に体重を預けてきた。
見ると左足は真っ赤に染まっている。かなり出血したようだ。
「大丈夫か? 傷は……」
「平気。やられたのは足だけだよ」
ざっと見たところ、致命傷になるような他の傷は見当たらなかった。
ひとまず安心して大きく息をついた。
くそガキはぼんやりとした瞳で見上げてくる。
「ケテルはラースが倒したよ。ラファエルさんは?」
「……ハルファスが吸収した」
そう答えるとくそガキはにこりと笑った。
これで全員だ。
ケテルをグラシャ・ラボラスが、幻想はこいつが、ラファエルは自分とハルファスが……ホドの姿は見えないが、ラファエルを失ってしまったあの少年に何の術もないだろう。
腕の中の少女も心底安心したようだった。
その時、雨粒を落とす空から雫ではない何かが舞い落ちてきた。
はらはらと舞うそれは赤い羽根――幻想を形作っていたねえさんの残骸。
何かを伝えるようにして少女の胸元辺りに降ってきた羽を、コインの埋め込まれた手が受け取った。
その手はかすかに震えている。
「ねえちゃんが……」
声も震えていた。
思わず肩を抱く手に力を込めた。
「おれが壊したんだ。二つに切り裂いて、殺したんだ。偽物。一瞬だったよ……」
出来る限り無機質に言おうとするのが余計に痛々しい。
言わなくていい。わざわざおまえ自身を傷つけるようなこと。この世で一番大切な人を手にかけることがどれほど辛いか、想像に難くない。
とくにこの優しい心を持つ少女にとっては。
漆黒の瞳が潤む。
「どうしてこんなことになったのかな? おれは……ねえちゃんとずっと一緒にいたかったのに……。辛いね、アレイさん。大切なものがなくなるのは、すごくすごく悲しいね……!」
ああ、もうだめだ。
笑っていて欲しいと思っているのに、どうしてお前の泣き顔しか見られないんだろう。少しでも癒してやることは出来ないのか。この優しい心を持つ少女を少しでも笑わせてやる事はできないのか。
「こんなにつらいんだったら……もう『一つだけ』なんていらないよ……!」
少女は満身創痍だった。
世界の全てだったねえさんをなくした傷が癒えきる前に同じ姿をした敵に出会ってしまったのだから。そしてその敵を自らの手で滅ぼしたのだから――
俺は、代わりに少女の世界を支えられないだろうか。
傷ついてぼろぼろになった少女に残酷な感情を向けようとしていた。
ただただ涙を流す少女の頬にそっと手を伸ばす。
大きく潤んだ漆黒の瞳がこちらに向けられる。
「アレイさん」
そう、こちらを見て欲しい。
お前を見ているのは、見ていたのはねえさんだけではないと知って欲しい。
「ラック」
何もかもを失った少女に、その上自分の想いをぶつけるのか?重荷でしかないような言葉を、この時に晒してしまってもいいのか?
一瞬理性が過ぎった。
が、もう戻れなかった。
我慢の限界だった。
こっちを見ろ、ラック。ねえさんだけじゃなくて……俺を、見て欲しい。
「それなら……俺を『一つだけ』に選べ」
もう大切なものなど、『一つだけ』など要らないなんていわないでくれ。俺が全てをかけて守ろうと思っていたのはずっとお前なんだから。いつしか同じように『一つだけ』に選んで欲しいと思っていたのは――
驚いて目を見開いた少女を座らせ、両肩に手を置く。
言い聞かせるようにして思いの丈をぶつけていった。
「俺は死なない。お前の傍からいなくならない。そうやって悲しませる事なんて絶対にしない」
お前がいる限り生き続けよう。そしていつだって危険に飛び込んでいくお前の隣でずっと支えてやろう。
強くなりたいのなら剣を教えよう。知りたい事があるのなら出来る限りの知識を与えよう。もし辛い事があるのなら……隣で支えてやる。
あの舞踏の夜に誓った言葉だ。
今度こそ『うそつき』とは言わせない。
「俺はずっとお前だけ見ていた。どうやって何を学んできたか、苦しんでいた事だって悩んでいた事だって全部知っている。そのすべてが、愛しいと思う。だから……」
何を見て何を感じ、どうやって成長してきたか。それを知っているのはねえさんだけじゃない。
「すぐ決めなくていい。でも、覚えていてくれ」
さすがにここまできて一瞬躊躇ったのは仕方がない。
何しろ自分はずっとこの言葉を胸の奥で飲み込んできたのだから。
それでも。
この少女に知って欲しい。
「俺はお前を――愛している」
漆黒の瞳が大きく開かれた。
みるみる頬を雫が伝っていく。
とても長い時間だった。このまま時が止まったら、自分は心臓が破裂して死んでしまうかもしれないと思ったくらいに。
それでも知って欲しかった。自分がどれほど想ってきたかを。
受け入れてくれなくてもいい。俺はお前の隣にいると決めた。
それでも、もしお前が――
「アレイさん」
少女は答える代わりに首筋に手を回して抱きついてきた。
漆黒の髪が頬をくすぐる。
「ラック……?」
肩口にある漆黒の髪をゆっくりと撫でる。
愛しい、愛しい少女の体を抱きしめる。
すると耳元で、鈴が鳴るように小さな声が響いた。
「もうどこにもいかないで。お願い。おれアレイさんが、いちばん、好きだから」
信じられない言葉だった。
しかし、ずっとずっと欲していた言葉だった。
思わず腕を緩めて顔を覗き込む。
「本当に……?」
聞くと、少女は真剣な顔で頷いた。
「ほんとだよ。ずっと一緒にいたいよ。アレイさんに傍にいて欲しいって言われたかったよ」
戦場に到着した後の夜、サブノックと引き合わせた帰り道で、少女は同じ台詞を言った。
あの時の感情は勘違いではなかった。
胸が震えるような歓喜がこみ上げてくる。
「ラック」
頬に手を当てて顔を寄せた。
漆黒の瞳が近づく。
額へのキスは尊敬、頬へのキスは愛情、唇へのキスは――
触れたところから少しずつ温かくなっていく。
こんな戦場の真ん中で、冷たい雨が降る中でも何も気にならなかった。目の前にいる少女意外何も見えなくなった。
愛しい。誰より愛しい。
微笑んだ少女を抱きしめる。
これまで何度も何度も経てきた行為が、心が通じた今では少し特別なものに思えた。
「愛している。愛している……ラック」
今までいえなかった分を取り戻すかのように、何度も何度も声に出した。
腕の中の少女も小さな声で呟いた。
「傍にいて。今度こそ、もうどこにも行かないで」
切ないほどに狂おしくなる。
どうしようもなく、愛しい。
「安心しろ。嫌がっても……放さない」
もう二度と放したりしない。ずっとずっと、望んでいたのだから。
そして、少女がやっと望んでくれたのだから。
「いつまでも傍に……」
その瞬間、全身を冷やりとする感覚が貫いた。
よく知っているそれは、『殺気』だ。
まずい、もう逃れる時間はない。
せめて少女だけでも――
声が出なくなった。胸が焼けるように熱い。
体から力が抜ける。
「ひははあぁ! 死ね! レメゲトン!」
背後から狂った声がした。
これは……ケテル?倒し損ねていたか……
視界が暗い。声が出ない。体に力も入らない。
かろうじて残った聴覚が少女の震える声を捕らえた。
「アレイさん……?」
ああ、また俺は約束を破るのか。
最悪だ。
最期に後悔するのは、グリモワール国のことでもゼデキヤ王のことでもない、目の前で泣く少女の事だった。
「愛してる……」
最期に鼓膜を揺らした少女の言葉は、その後悔全てを吹き飛ばしてしまった。
もう、十分だ。
これほど満ち足りた気持ちなら――
きっとねえさんは怒るだろうな。
少女に気を取られて油断し、命を落とす自分のことを。グリモワール国のことより少女を優先する自分のことを。
それでもなお満ち足りてしまい、後悔なく死地へ向かう自分のことを。
――愛してる
お前がそう言ってくれたから。
心が通じ、この腕に抱いてこれ以上何を求める?
痛みも恐怖を感じなかった。傍に少女がいたから。
ただ、少女が泣いてはいないか。最後までそれだけが心配だった。