SECT.22 ラファエル
震えそうな声を必死に保っているのが分かる。
それでも闘気は収束していない。あの幻想に対する敵意が復活している。
「ねえちゃんの『偽物』なんて、おれが許さない!」
フラウロスの蒼炎に似た怒りの感情が少女から燃え上がった。
ああ、そうか。この少女は怒っているんだ。自分の大好きだった人の偽物など許せるはずがない。それは何よりしてはいけない事だったのだ。
ねえさんの死を乗り越えたばかりのくそガキにねえさんの幻想を見せるなど――
「フラウロスさんはケテルをお願い。倒さなくていい、こっちに介入できないように足止めして」
怒りに満ちたグリフィスの末裔は灼熱の獣に命じた。
そして自分の方を見た。
「あいつはおれがやる。アレイさんは、ホド本体をお願い」
そのはっきりとした口調に、何故か逆らえなかった。この場に存在するものの力を完全に把握し、指示を出したとしか思えなかったからだ。
灼熱の豹フラウロスは大きく空に向かって吼えた後、ケテルに向かって突進していった。
その速度は半端ではない。一瞬見失った、と思ったらもう鋭い爪をケテルに向けていた。
「!」
驚いているうちに蒼炎が辺りを包み、ケテルと獣の姿はその中に消失した。
凄まじい火柱の熱風に思わず目を細める。
そして背後の少女からは信じられない固有名詞が飛び出した。
「ラース!」
それは滅びの悪魔の名。つい先日少女が召還し、トロメオをほぼ粉砕した原因となった最凶の名を冠す悪魔。
背後から凄まじい殺気が放たれる。
最凶の悪魔を配下にした少女は二本のショートソードを抜き放って自分に並んだ。
暴走の気配はない。
ただ感じ取れるのは静かに秘めた怒りのみ。
「……無理だけはするなよ」
「ありがとう」
全身から立ち上る殺気は紛れもないグラシャ・ラボラスのものだ。が、意識ははっきりしているし絶望に心を明け渡す事もなかった。
その様子を見て思う――こいつはまた一つ強くなった。
逃げる事を知った。しかし、辛い事に正面から向き合う事を学習した。
辛い事を知らないわけではない。無理する事を我慢するのを知らないわけでもない。逃げる弱さを認めないなんてありえない。
それでも、その全てを乗り越えて力に変えてしまった。それは最凶と呼ばれた悪魔から加護を受けるほどに。
挫折を知った魂は、本当の意味で肩を並べて戦える。
「行くぞ!」
叫んでからもう一度長剣を握りなおした。
「うん!」
少女の返答を待たず、幻想の本体――ホドに向かって鋭い刃を向けた。
ホドは翼を広げて飛び立った。
どうやらこの場を破壊人形に任せて逃げる気らしい。
「させるかっ!」
強く地を蹴ってホドに剣を振り下ろす。
するとホドの背後に現れたラファエルが真紅の剣で受け止めた。栄光の天使ラファエルはそのまま全身を現した。
体にぴったりとした黒のシャツをボタン一つ留めただけで上から羽織り、それと細身の黒いパンツに編み上げの丈夫なブーツを履いている。他にも銀や金の装飾品をじゃらじゃらと音がしそうなほど身につけており、とても天使とは思えない様相の、しかし背に3対6枚の翼を湛えた姿だった。
手にした真紅の刃を一振りし、ホドを守るように立ちはだかった。
「ひははは! ラファエル! 出てきたな!」
一旦距離を置く。
ラファエルの属性は『風』だと以前ハルファスが漏らした事がある。天使や悪魔に属性があるというのは初耳だったが、本人が言うのだから間違いない。きっとラファエルも風遣いだ。
サブノックの加護を受けた剣を真直ぐに突きつけると、ラファエルは口を開いた。
天使自身の声を聞くのは、メタトロンに続いて二回目だ。
「未だ懲りないの? ハルファス」
思った以上に若く少年のような澄んだ声に、ハルファスの甲高い声が答える。
「当たり前だ!」
「マルファスを吸収した僕に敵うとでも?」
「ひひ!」
もういい加減天使と悪魔の会話で驚く事はないと思っていた。
残念ながら今現在自分はハルファスからもっと多くの情報を引き出しておけばよかったと後悔している。
マルファス、というのは第38番目ハルファスと対にされる戦の悪魔で第39番目のコインで召還できる。ハルファスと同じく風を使い長剣を操ると言われているが……まさか、栄光の天使ラファエルの片割れだったとは。
それもすでにラファエルに吸収されてしまったという。
「じゃあ お前も吸収して欲しいわけ?」
「そんなわけあるか! ばーか! マルファスを返せ!」
「相変わらず お前は馬鹿だね」
切れ長の眼、容姿はハルファスよりクローセルによく似た美しい栄光の天使ラファエルはあきれたようにため息をつき、濃い藍色の髪を揺らした。
それにつられて思わずため息をついてしまった。
フラウロスとカマエルが互いに互いを滅ぼしあったように、ラファエルとハルファスも二つに別たれた片割れ同士らしい。
そういうことはもっと早く言って欲しかった。
聞いたところで何も出来はしなかったが。
「ひひ! 今日は一人じゃないからな!」
自分の背後に浮いていたハルファスが飛び出して、羽根の生えた両手をかざしてふわりと地面に降り立った。その手には既に長剣が握られており、ハルファス自身も戦う気のようだ。
ラファエルはそんなハルファスに冷たい視線を向ける。
「そんな姿になってまで 逆らうの? 意味分からない」
「ひゃははは!」
ハルファスが甲高く笑う。
このどこまでも幼い狂戦士の過去はよく知らない。ラファエルとの確執も、未だによく理解できない天使と悪魔の片割れの話も。
しかし、こいつはずっと自分に力を貸してくれた。少しくらい返してもいい頃だ。
何より――目の前にいるラファエルを退けない限りグリモワールに未来はない。
自分の腰ほどまでしかないハルファスの隣に立ち、サブノックの加護を受けた剣をラファエルに突きつけた。
「ラファエル、グリモワールから退いてもらおう。いったいお前たち天使と悪魔にどんな理由があるか知らんが、これ以上領土を荒らすのは許さん」
「お前は マルコシアスの子だよね 理由も何も 魔界が滅びるのは 世の理だよ もう少し勉強してから言って欲しいね」
黒ずくめの衣装と完全に少年の域を脱した顔には不釣合いな幼い口調で、ラファエルは言い放つ。
どこか馬鹿にされているようで大人気なく苛立った。
「まあいいや お前に興味はあったし ハルファスは欲しい」
ラファエルは真紅の剣を構えた。
「隠れてて ホド メタトロンとフラウロスの方もかなり危ないし 怪我しないように下がって」
6枚の大きな翼を眼鏡の少年を隠すように広げる。
ハルファスも羽根からのぞく鉤爪で長剣を固定した。
ラファエルが先に地を蹴ったのを契機に、3本の剣がぶつかり合う音が響いた。