SECT.20 シア
ハルファスの加護を受け、サブノックの剣を振りかざして軍の中央に突っ込んだ。
空からの襲撃はセフィロト国の特権ではない。
慌てふためく兵たちを尻目に、適当な場所を見つけて地面に降り立った。
白い神官服を纏った天界の長に剣を突きつける。
「久しぶりだな、ケテル」
隣にはすでに背に羽根を湛えた眼鏡少年ホドの姿がある。幻想は連れていないようだったが、前回は破壊人形の元となる真っ赤な硝子球を召還していた。油断は出来ない。
ケテルは狡猾な笑みを見せる。ねえさんの命を奪ったその笑みに殺意を覚えてしまうのは仕方のないことだろう。
煮えたぎる感情を抑え、必死で平静を保とうとする。
「来ましたね、クロウリー伯爵。しかし何の策もなく突っ込んでくるとは……思った以上に動揺してらっしゃるのですか?」
その問いには答えず、果敢にも飛び掛ってきた兵士をサブノックの剣で吹き飛ばす。加護を受けた自分に生身で戦いを挑むなど自殺行為であることを分かっているのだろうか。
「ハルファス、力を貸してくれ」
「ひひ! いいぞ! いちいち聞くな!」
許可を得ずとも悪魔の力を使えるのは分かっている。
それでも、これは一種の儀式だった。今から使う強大な力は自分の力ではないことを確認し、言い聞かせるために毎回口にする言葉なのだ。
この儀式だけが自分を悪魔と人間の境目ぎりぎりで保っていてくれるような気がしていた。
今なら使えるかもしれない。
「狂風鳥……!」
初めて使った時は制御できず、数百名の命を一瞬で奪ってしまった豪風を今なら使えるかもしれない。
周囲の大気が、一瞬にして制御下に落ちた。
その豪風を使って兵を馬ごと吹き飛ばしていく。
落下の衝撃で死なないように地面に叩きつけられる前に風で受け止め、地面に降ろす。
「一体何を……?!」
驚いたケテルから反撃が来る前に、ケテルとホドに向かってかまいたちを飛ばす。
彼らがそれを打ち落としている間に掃除は完了していた。
狂風鳥のとけたその場所には、ぽっかりとした空間が残っていた。中央に馬上のケテルとホドのみを残し、他の兵たちは半径数十メートルの土肌の向こうに折り重なって転がっている。
この間ねえさんを手にかけたケテルが用意した闘技場のように。
「ありがと、ウォル先輩!」
上から少年の声が降ってきた。
同時に紅髪の騎士が自分の隣に着地して地面に両手をつき、高らかに悪魔の名を叫んだ。
「レラージュ!」
それと共に周囲で爆音が上がった。
「?!」
周囲の地面が土煙を上げている。セフィラ二人と自分たち二人を取り巻く大地を円形に取り囲むようにして地面が崩れる。トロメオを取り囲んでいた堀のように深く削られたその溝は、自分たちを完全に取り巻いて円になった。
「……逃がさないつもりですか?」
「飛べるお前たちに意味はないだろう。兵を巻き込まないためだ」
立ち上がったライディーンがケテルに向かって言う。
「おや、新しいレメゲトンですか。漆黒星騎士団出身らしいですね、つい先日戦場に着たばかりとお聞きしましたよ」
ケテルの言葉にライディーンは驚いた顔をした。
つい最近レメゲトンになったライディーンの存在は、軍以外でグリモワールでも一般市民にはほとんど知られていない。出生も素性も年齢も、もちろん使う悪魔の名も。
それなのに、情報が敵方に漏れている。
「まあ、なりたてのレメゲトンにどれほどの事ができるかは知りませんが」
細いフレームの眼鏡をくぃ、と直し神官服をはたはたと叩いた。
「仕方ありませんね。ついこの間完膚なきまでにやられたのを忘れましたか? あの女性のレメゲトンの命も」
ケテルの言葉に頭にかっと血が上った。
思うより先にかまいたちが飛んでいた。
ケテルの頬に赤い筋が浮かぶ。
「黙れ」
思うより先に喉が震える。
この男がねえさんの命を奪ったんだ。あの光の矢で貫いて。
――許サナイ
胸の中に熱い感情が煮え滾る。
ホドはまたも空中でぱちん、と指を鳴らした。
真っ赤な羽根が詰まった硝子球が召還される。
ところが全員が戦闘態勢に入る前に、この場に乱入してくる影があった。
おそらくセフィラの増援だろう。予測していた事ではあったが緊張が張り詰めた。
空から飛来したその人物は、まるでメタトロンのような翼の金冠を背に負っている。初参戦したセフィラであるのは一目瞭然だった。折れそうに細い肢体と白髪には見覚えがある気がした。白い神官服は纏っていないが、動きやすそうな漆黒の騎士服を身につけている。少年とも少女ともつかぬ儚い顔立ちに感情は見られない。
ところがケテルはその影に気づいて驚いた表情を見せた。
「マルクト、どうしたんですか」
あれが第10番目王冠の天使サンダルフォンを使役するマルクト?!
その上ケテルはマルクトの登場に驚いたようだ。呼んだわけではないらしい。
しかもマルクトと呼ばれた人物の服はあちこち焼け焦げており、すでにどこかで戦闘してきたのは一目瞭然だった。
息を切らしたマルクトはケテルに向かって不機嫌そうに叫んだ。
「バレた、失敗だ。ティファレトもやられた」
「……そうですか。ではリュシフェルも無事なのですね?」
「ああ」
今、マルクトは何と言った?
リュシフェル、とそう言わなかったか?
さっと顔から血の気が引く。
「残念ですね。またやり直しですか」
「あいつに……ラックに手を出したのか?!」
思わず叫んだ。
ケテルの隣のマルクトがちらりとこちらを見た。白髪に隠された赤目が病的なほど白い肌に浮いている。あの、感情を灯さない瞳には見覚えがあった。
「……シア」
隣のライディーンがポツリと呟く。その顔は蒼白だ。
シア、という名を思い出す。あの白髪と感情のない赤い瞳は一度見たら忘れられるものではない。
それは、あのくそガキとトロメオを発った漆黒星騎士団 鷺部隊の少女の名だった。
血が逆流する感覚が全身を駆け巡った。
あのくそガキの元にマルクトが……?リュシフェルは無事だ、ということはあのくそガキも無事なのか?ティファレトがやられたということはグリフィス家の末裔はミカエルを倒したというのか?
何より、あいつはリュシフェルを召還したのか?
分からない事が多すぎる。
「シア! お前シアだろ?!」
ライディーンが叫ぶ。
「旧友がお呼びですよ、シンシア=ハウンド」
「それはオレの名ではない。オレはセフィラ第10番目マルクトだ」
「そんな! ずっと……騙してたっていうのか?! 俺もクラウド団長も! リーダーも! ラックも!」
ライディーンの声が響き渡る。
マルクトは視線をこちらに向けることなくぼろぼろになった黒いマントを剥ぎ取った。少年にしては細すぎる体が姿を現す――オレ、と言っているがこれは女性だ。おそらくあのくそガキと同じくらいの年頃の。
「答えろよ、シアっ!」
悲痛な叫びはただ周囲の戦の喧騒に飲み込まれた。
人が乗り越えるには深すぎる溝がここを囲んでいるから兵は入ってはこないが、周囲では今もグリモワールとセフィロトのぶつかり合いが起きている。
あのマルクトがずっと漆黒星騎士団に入り込んでいたというのか?王都の足元に駐在する騎士団の、それもあのグリフィスの末裔のすぐ傍に!
マルクトはケテルと二言三言話した後、また飛び立った。
「待て! シア!」
続いてライディーンが飛び立つ。
止めようとした時、上空からさらに人影が降ってきた。
漆黒の髪が風に靡いた。漆黒のマントがふわりと地に下りた。
「ん? どこだ? ここ」
間抜けな声。思わず崩れ落ちそうになる。
何故、お前がここにいる?
「……ラック」
呟いた声に少女は振り向く。
少しはにかんだような笑顔で。
「ただいま、アレイさん」