SECT.14 離脱
後を追って屋敷の裏手の庭園に駆け込んだ。
少し時間が経っているが、追いつけるか?
と、ハーブ園の中央付近に黒髪を見つけて駆け寄る。
「……ラック」
声をかけると漆黒の瞳がこちらを貫いた。
助けて、とその目が叫んでいる。
苦しい、寂しいと全身で助けを求めている。
全身全霊の救難信号をすべて救い上げるように手を差し出すと、少女はすがりつくようにその手をとった。爪が皮膚に食い込むほど強く腕を掴み、このまま壊れてしまうんじゃないかと思うほどがたがたと震えた。
苦しさが伝わってきてなんとも言えない感情が渦を巻く。
吐くほど辛い思いを味わってまでこいつが戦場にいなくてはいけない理由は何なんだろう?
「もう、いい」
お前は強い。未来を見据えて前に進む力を持っている。
でも、それは傷つかないことと同義じゃないんだ。
「もういいんだ……」
今ならミュレク殿下の感情が分かる。
殿下はこの優しい心を戦に晒すことを拒み、こいつが望まずとも戦地から遠ざけようとした。きっとこうなってしまう事を恐れて。
嗚咽はだんだんと大きくなり、ついに少女は大声を上げて泣き出した。
庭園全体の大気を震わすような慟哭が響き渡った。
すべての苦しみとすべての絶望を込めたその叫びは、空も大地も何もかもを悲哀に染めていく。もちろんそれは自分も例外ではない。
悲痛な棘を持った悲鳴は自分の心を切り裂いていった。
どうすることも出来ない己の無力さを噛み締める。
自分だけではではグリモワール国どころか、この少女一人救えやしない。
ねえさん、やっぱり俺では駄目なんだ。あなたがいないと――
泣きじゃくる少女を胸に抱いて、自分も一滴だけ涙を流した。逝ってしまった強い瞳の女性を思い、もう二度と聞く事のないメゾソプラノを思い出しながら。
王都から、新たにレメゲトンに就任したライディーン=シンと漆黒星騎士団の半分を派遣する、という連絡が届いた。
ゼデキヤ王の耳にもねえさんが殉職した事が入っているはずだ。
あの心優しき王はきっと胸を痛めていることだろう。人知れず涙したかもしれない。
レメゲトンと騎士団長の会議場で、書簡を手にしたフェルメイが王からの詳しい指示内容を告げる。
「騎士団長のクラウド=フォーチュン卿は王都に残留し新設王族警護隊の隊長を兼任されます。従って騎士団の代表権は鷹部隊長ライガ=アンタレス氏、その元に鷹部隊と鷲部隊、それと鷺部隊の一部を派遣されるそうです。総勢201名、到着予定は……」
義兄上は王族の警護のため王都に残留するらしい。
鷹部隊長のライガ=アンタレスは自分より一年遅れて騎士団試験に合格した出生不明の騎士だ。型破りな剣を使うマルチファイターだと聞くが、実際手合わせした事はなかった。
何より、このくそガキにとって慣れた漆黒星騎士団の人達と共に戦うことでほんの少しでも安心感を得られるだろう。
相変わらず暗い顔で俯いている隣のガキをちらりと見る。
膝に乗せた拳が震えている。
本当なら今すぐにでも逃がしてやりたい。
こんな悲惨な場所から――
「……グリフィス女爵に王都への帰還命令が出ています。漆黒星騎士団 鷺部隊2名、鷹部隊1名と共に騎士団到着次第帰還せよ、との事です」
書簡を読み上げるフェルメイの言葉に耳を疑った。
「王都帰還……?」
ガキがぽかりと口を開けてフェルメイを見た。
信じられない、といった顔だ。
「後日到着されるレメゲトンのライディーン=シン氏と交代で、王族警護部隊への配属命令が出ています。到着はおそらく2日後になるでしょうから、すぐに出立準備をして王都へ向かってください」
それを聞いて、心の中でゼデキヤ王に深く感謝する。
ねえさんの殉職――それがこのくそガキにとってどれほどの痛手かゼデキヤ王には分かっているのだ。これからの戦闘に支障をきたすだろう事も見越しての判断だろう。
自分の力ではぼろぼろになったくそガキを戦地から遠ざける事などできはしないから。
ありがとうございます。
ねえさんの分もこいつの分も、自分が埋めて見せるから。
会議が終わってなお呆然としているくそガキの頭にぽん、と手を置くとひどく複雑そうな顔で見上げてきた。
「おれ……ここを離れるの? だって、セフィラはいっぱい残ってるよ……?」
「大丈夫だ。お前の代わりに新しいレメゲトンが来るのだろう? 俺は会った事などないが、ゼデキヤ王が任命されるくらいだ、きっと強いんだろう」
「うん、強いよ。ライディーンは強い」
何の迷いもなく肯定したくそガキを見て、その信頼を得た新しいレメゲトンに大人気なく軽い嫉妬の心を抱く。
騎士団に入ったばかりの15の少年が破壊の悪魔レラージュと契約したのだ。いったい、どんな人間なんだろう?
見下ろした漆黒の瞳は以前と変わらず美しく澄み切っていた。
「でも……でも、おれがいなくなってもアレイさんはまた危険な目に遭うんでしょ……?」
そのまなざしに釘付けになる。
舞い上がるような感覚と苦しくなる気持ちが同居して言葉に詰まった。
「ねえちゃん、みたいに……」
震える声で必死に紡いだその言葉は、自身を傷つける刃だ。
この上まだ自らを傷つけようというのか。
切ないほど、狂おしいほどにこみ上げる感情が爆発しそうになる。
が、それを押さえてゆっくりと漆黒の髪を撫でた。
「大丈夫、俺は強い。お前の前からいなくなったりはしない。絶対に、だ」
死なない。こいつがいる限り。この少女を絶対に悲しませたくないから。
強く決意して微笑むと、漆黒の瞳が泣きそうに歪んだ。
悲しませたくないのに、どうして自分はいつもこの少女の泣き顔ばかり見ているんだろう。笑顔が見たいのにどうして笑わせてやる事が出来ないんだろう。
自分の無力さを噛みしめながらも少女を戦地から見送る決意をした。
2日後、騎士団の到着と入れ替えにくそガキは王都へと旅立った。
セフィロトに侵入させた密偵からそろそろトロメオの陥落準備が整いつつあるという情報が入っている。こちらも早急に戦闘準備を整えねばならない。
ずっと稽古を共にしていたという女性騎士二人と鷹部隊の騎士を一人、計3名の護衛を連れたくそガキは、荷物も少なく王都に向かうことになる。
女性騎士のうちオレンジの髪のほうが、くそガキの話に再三出てきたヴィッキーという女性らしい。ヴィクトリア=クラーク、年はくそガキと同じくらいですらりと背が高く正義感の強いしっかりした人柄が伝わってきた。
もう一人は白髪に赤目という容姿の、一見少年騎士にも見える女性だった。シンシア=ハウンド、全く感情の映し出されない紅の瞳に一瞬どきりとした。表情もなく言葉少ない。その姿はどこか幻想兵に近いものを感じさせて背筋がぞわりとした。
鷹部隊の騎士は部隊のリーダーを務めるという精悍な印象の壮年騎士だった。おそらく護衛はこの騎士一人で、残りの二人はくそガキと仲が良かったために王が気を回して付き添いにしてくれたんだろう。壮年騎士は青いバンダナのライガ=アンタレス部隊長といくらか打ち合わせをしている。
これから戦場を離れるくそガキはいくらか安心した顔をしていた。やはり、戦の空気はあいつの傷ついた心には厳しいものだったんだろう。
戦場を離れる事で少しでも心の傷を癒してくれたら。
「それでは私たちは王都に向かいます」
「団長によろしくお願いしますよ、キャストさん」
軽く手を上げたライガ部隊長はどこかフォルス団長と同じ空気を感じる。騎士の様相に似合わぬ真っ青なバンダナで表情は分かりにくいが、飄々とした人物だということだけは十分にわかった。
くそガキは馬上から自分に向かって手を伸ばす。
求められるまま寄ると、くそガキは両腕を首に回した。ふわりと優しく包まれて、耳元で小さな声がした。
「死なないで。絶対。死なないで……」
別れ際にどこか聞き覚えのある言葉を残して、グリフィス家の末裔は戦場を離れた。