SECT.13 誤解
目が覚めると、ふと手に温かい感触を覚えた。
なんだろう?
首を回してみると、艶やかな漆黒の髪がシーツの上に広がっている。
「……くそガキ」
自分の手をしっかりと握ったまま眠りについた少女がそこにはいた。
意識を失う前に見た姿と変わらない。
服が焼けて背の大きな逆十字傷があらわになっているし、髪や頬には乾いた血がこびりついており、重ねられた手は土に汚れている。
ベッドにもたれるようにして座り込んだ足元に皺になった毛布が落ちていた。
いったいどれだけここにいたんだろう。
心配してくれたのだろうか。心のどこかに明かりが灯る。
意外にも体が軽い。
肩の骨が砕けたはずだったが、痛みがない。動かしてみると何の滞りもなく上下に稼動した。
安らかに眠るくそガキを起こさないようにゆっくりと起き上がってみた。シーツを剥ぐと、服を着ておらず包帯があちこちに巻かれていた。
包帯を全てほどいてみたが、少なくとも上半身に急を要するような怪我は見当たらない。ただ、肩口に引きつるような傷跡が残っていた。
もちろん全身に傷跡が残っていたが、痛む傷はなかった。
完全に治っている。
いったいどれだけの時間が経っているのだろう。傷が癒えているということはまさか何ヶ月も眠っていたのではあるまいか。
いや、それでは隣にいた少女が気絶する前と同じ服だった事の説明が付かない。
「何故だ……?」
思わず呟くと、それに反応してくそガキが身じろぎした。
握られた手に力が篭る。
ゆっくりと顔を上げたくそガキは、ぼんやりとした目でこちらを見た。目が腫れている。ずいぶんと泣いたのは一目でわかった。
「……あぁ」
くそガキの口から心から安堵のため息が漏れた。
漆黒の瞳がみるみる潤んでいく。
その雫が頬を伝う前に。
くそガキが胸に飛び込んできた。
突然すぎて抵抗できず、そのまま仰向けでベッドに倒れこんだ。
「よ……かったぁ……」
胸に顔を埋めた少女から嗚咽が漏れる。
その様子を見て胸が締め付けられた。きっとずいぶん心配をかけたんだろう。
世界の全てだったねえさんを失って滅びの悪魔を暴走させたこいつを止めるため、自分は全てをかけて闇の空間に飛び込んだ。
何とか救出できたものの重傷を負っていたはずだ。
ねえさんを失ったこいつの傍から自分までいなくなってしまったら。
こいつの世界は今度こそ崩壊してしまうに違いない。
きっとねえさんを思って死ぬほど泣いたんだろう。もう会えないのだという現実を受け入れるまで何度も何度も絶望に飲み込まれそうになったはずだ。
その上まだ泣くのか。
魔界の王リュシフェル、貴方はこの少女にどれだけ試練を与えれば気が済むのか。どれほど傷をつければ満足するのか。
しかし――こいつもまた、無事でよかった。ゲブラとの戦いを越え、滅びの悪魔に乗っ取られた体を取り返した。
震える肩を抱いて、背を撫でた。
が、その手に素肌の感触を受けて我に返る。
考えてみれば自分も一糸纏わぬ姿なのだ。
何だかこのままではいろいろまずい気がする。
もしこんなところ誰かに見られたら……!
ガキの肩を抱いたまま手をついて起き上がると、必然的にくそガキが自分の腰の上に座り込んだ状態になる。
額をつき合わせるようにベッドの上で、不思議そうにきょとんと見上げてきた漆黒の瞳は真っ赤になっていた。
その両肩に手を置いて、遠ざける。
「頼む。離れてくれ」
よく見るとくそガキの短衣はぼろぼろで、肩と胸の辺りにかろうじて布が残っている程度でほとんど焼けるか裂けるか、なくなっていた。胸から腹にかけて巻いてあるサラシも見え隠れしている。
眼のやり場に困って目を逸らすと、ガキは首を傾げた。
そうだ。こいつは人前で着替え出すほどに無頓着な奴だった。アガレスとの契約の時を思い出して思わずため息をついた。
「何で?」
くそガキの顔が泣きそうに歪む。
ああ、もう泣くな!
潤んだ瞳が近づいて、アップになる。
心臓が跳ね上がった。
「もしかしてまだどこか痛い? ブエルさんが全部治したと思うんだけど……」
「いや、平気だ。体は全く問題ない」
そうか、癒しの悪魔ブエルを召還したのか。
ではなく。
この状況をいったいどうしたらいいんだ!
世界中で一番大切な少女が、肌もあらわに自分の上に乗っている。それも大きな瞳を潤ませて額が触れそうなほど近い距離で。
本当に襲ってやろうか?
泣きそうな少女を前に困り果て顔を引きつらせて硬直していると……どうして嫌な予感ばかりが当たってしまうんだろうか。
コンコン、とノックの音がして部屋のドアが開いた。
「失礼します。ミス・グリフィス? ウォル先輩の具合は……」
部屋に入ろうとしたフェルメイは、ベッドの上を見て硬直した。
ほとんど裸の男の上にこれまた露出度の高い服を着た、というか布を纏った少女が乗っているのだ。
フェルメイはひくりと笑顔を引きつらせると、それでも礼儀を忘れずに軽く頭を下げて退出した。
「待っ……フェルメ……イ……」
既視感。
再び大きくため息をついて頭を抱えた。
これはいったい誰にどういう弁解をしたらいいんだろう?
「アレイさん?」
首をかしげたくそガキを見て力が抜ける。
これだけ何も気にしなくていいというのは全く羨ましい限りだ。
「俺はもう元気だ……着替えるから出て行け。それからお前も着替えて来い!」
部屋から出るドアを指してそう叫ぶと、くそガキはひょい、と飛び上がってベッドから降りた。
その瞬間に背中の逆十字傷が視界に入ってどきりとした。
「じゃあすぐ戻るよ! 待ってて! どこにも行っちゃダメだよ?」
何度も念を押して部屋を出て行ったのを確認してからシーツを纏って床に足を下ろした。
部屋を見渡して、どこか見覚えがあることに気づく。
そうだ、ここはトロメオのシェフィールド公爵家だ。
と、いうことはグリモワール軍がトロメオ奪還に成功したという事だ――レメゲトンの長という大きな犠牲を払って。
記憶を頼りにクローゼットを引っ掻き回し、なんとか着られそうな服を見繕った。
どうやらここはシェフィールド公爵の息子の部屋だったらしい。少しばかりサイズが小さいが、男性用の服を見つけて身にまとった。
細身のパンツにラフな灰色のシャツ。革靴も見つけた。十分だ。
服を着ようと大きな立ち鏡の前に立つと、自分の姿が嫌でも目に入った。
「……」
腰まであったはずの髪が肩の辺りでばっさりと切れていた。
おそらくあの闇の空間でくそガキの右手を取った直後、『滅び』によりマントと共に消失したのだろう。自分の体が残っていただけでも奇跡だ。まるで願をかけて伸ばしていた髪が自分の身代わりに滅びの力を受けてくれたかのようだった。
後でアリギエリ女爵にでも切りそろえてもらう事にしよう。
自分が起きたのはどうやらトロメオ奪還の次の日らしかった。太陽はまだ頂点付近にある。それほど時間は経っていないのだろう。
アリギエリ女爵からねえさんの葬送が行われる旨を聞いた。
シェフィールド屋敷の中庭を解放し、棺を王都へ送るという。
集まった人々は悲しみにくれていた。グリモワール軍内で凄まじい人気を誇っていたねえさんだ。涙する者は数え切れず、トロメオは沈鬱な空気に包まれていた。
棺の中眠るねえさんはいつもと変わらないように見えた。アリギエリ女爵の心遣いか体についていた血は綺麗に洗い流され、レメゲトンの正装を纏っている。今にも起き上がって動き出しそうだ。
最前列に並んだ自分たちレメゲトンが順に別れの辞を述べる。
形式にのっとった辞詞だが、くそガキの声が震えている。
ちらりと横を見ると、ひどく青ざめて今にも崩れ落ちそうな顔をしていた。
我慢していたんだろう、辞詞が終わった直後に口元を押さえて葬送の儀から抜け出していった。
レメゲトンがそんな事をすれば当然周囲にも動揺が伝わる。
追いかけよう、と思った瞬間 輝光石騎士団長ヴァルディス卿の鋭い視線を浴びて思いとどまった。自分まで抜けてしまうわけには……
「ウォル先輩、行ってください。この場は何とかしますから、ミス・グリフィスを」
背後からフェルメイの声がした。
「彼女には先輩が必要でしょう?……実は、ずいぶん前からそうじゃないかと思ってました」
「いや、あれは……」
否定しようと思ったが、フェルメイはにっこり笑った。
「すごく、お似合いだと思います。だから早く行ってあげてください。ミス・グリフィスもきっと待っているはずです」
「……すまない」
もう誤解云々は後回しだ。
あのくそガキの後を追って葬送の儀から離脱した。