SECT.12 懺悔
ばきばき、と鈍い音がした。
鎖骨が砕けたかもしれない。
あまりの痛みに気が遠くなりそうだった。
それでもなんとか少女の手を放してしまうことだけは免れた。が、サブノックの剣は自分の手を離れ落下していった。
「ひひ! やめろよ! 人間は脆いんだぞ!」
「おマエもダ ハルファス」
目を血走らせた悪魔は自分の肩口から顔を上げて自分の頭上に浮かぶハルファスを睨みつけた。
口元が真っ赤に染まっている。
もしこの距離で滅びの力を使われたら逃れる術はなかったが、それでも少女の右手を放すつもりはなかった。放してしまったら二度と……戻ってこない気がした。
痛みを通り越して焼けるように熱い左肩が体力を奪っている。
少女の姿をした殺戮の悪魔は、にやりと笑って口元の血を腕で拭った。
残酷なその笑みはあの少女のものではない。
「半端モノ お前ノ血 嫌いジャない」
舌で唇の血を舐めとり唇の端をあげる様は完全に血を好む殺戮者のものだ。
おぞましい悪魔の姿に背筋が凍った。少女が左手を喰われたときの光景を思い出す。今も胸に突き刺さる悲鳴も――
この悪魔は躊躇いなく傷つける。世界も、人間も、契約者さえも……
放せない。放してしまったらきっとまたこの少女が傷つくことになる。もうぼろぼろなのに。世界の全てだったねえさんを失って、絶望の淵に叩き落されて。
もうこれ以上傷つかなくていい。
帰ってこい。
俺がお前を癒すとは言わないけれど、今度こそずっと傍にいてやるから。
どれだけ泣こうとも、どれだけ絶望に染まろうとも。
絶対に隣を離れやしないから。
すると、突如悪魔の顔が歪んだ。
一瞬だけ苦悶の表情を浮かべた後、ばちん、と大きな破裂音がした。
「?!」
一体何が起きた?!
途端、くそガキの全身から黒い霧が噴出した。
「なんダ ルーク 起きチャッタのカ」
悪魔の声が少女の口以外の場所から聞こえた。黒い霧は徐々に収束し黒い毛並みの大きな狼に姿を変えていった。
その姿からは確かに闇の威圧を感じたが、先ほどまでメタトロンを相手にしていた悪魔とは別人のように殺気が消え去っていた。
少女の隣に現れた悪魔は、幼い声で鼻を鳴らした。
「あーア つまんナイ ぐずグズしてる間ニ メタとろんも 消えたシネ」
「ひひ! 追い出されてやんの!」
ハルファスが笑う。
そうか。
悪魔の加護を受けるのはあくまで契約者側の意思だ。
このくそガキが意識をはっきりと保ち、拒絶さえすればグラシャ・ラボラスは体を支配する事などできない。
「五月蝿いヨ ハルファス」
自分の頭上に浮かぶハルファスを威嚇した殺戮者は、最後にため息をつくようにこう言った。
「マ いいヤ 楽しカッタし また呼ンデ」
闇の空間が薄れていく。
ほとんど破壊されたトロメオの外壁と門が姿を現した。
直下の地面は抉れて、そこだけ大きな穴を作っている。爆発と違い、滅びで消えた大地は不自然なほどに落ち窪んでいた。
好きなように暴れた殺戮者が消えた瞬間、少女は加護を失って落下した。
間一髪落下する体を右腕だけで支えた。必然的に抱き寄せるような形になる。触れられた左肩がずきりと痛んだ。
それでも目の前にある漆黒の瞳はもう一度光を取り戻していた。
よかった。
この心を失わなくてよかった。
夢から覚めたばかりのようにぼんやりとした表情のくそガキの唇からかすかな声が漏れる。
「……アレイ、さん」
なんでそんな間抜けそうな声を出すんだ。
どれだけ心配したと思っているんだ。
「この馬鹿が……!」
左腕を動かそうとすると凄まじい痛みが襲った。
かろうじて大きな血管を破られることは避けたが、殺戮の悪魔の牙は確実に自分の肩を砕いていた。気の遠くなりそうな痛みに自然と息が荒くなる。
血が止まらない。
左肩だけでなく、グラシャ・ラボラスとメタトロンの戦いに突っ込んだ代償は全身に残っていた。
五体満足なのが不思議なくらいだ。
ハルファスがいなかったら自分は命を落とすどころか存在さえ消滅していたに違いない。
でも何を失ってもよかった。この少女が無事に帰ってくるならば。
じっと見つめた漆黒の瞳からつう、と透明な雫が伝う。
「……ごめんなさい」
精一杯搾り出した言葉は消え入りそうに震えていた。
破壊の限りを尽くした少女は、ぼろぼろと大粒の涙を流しながらただ懺悔していた。
「ごめんなさい……ごめん……なさ、い……」
その懺悔に答える術を自分は持たない。
ねえさんを失くした。その痛みは計り知れない。しかし、世界を破壊していい理由にはならない。滅ぼす動機としてはならない。
その点ではまだこいつは子供だった。
心の痛みを内に秘める方法を知らなかった。思うまま、その感情のままに破壊の化身を召還してしまった。
その結果としてトロメオを破壊し、双方の軍を巻き込み、大地を消した。
この数刻で被った被害は計り知れない。
どういう形になるかは分からないが、きっとこいつはこれからその償いをせねばならない。
そして、何より今度こそきちんとねえさんの死と向かい合わなくてはならなくなるだろう。
「戻る、ぞ」
とにかく戻らねば。
何があったのかを報告せねば。
「ねえさんもすでに……フェルメイが……」
体は既に軍に戻っているはずだった。軍がどこまで退いたのか、最後までトロメオ近くにいたフェルメイたちは無事なのかも確認する必要がある。
そして出来る事ならセフィロト軍がトロメオから離れているこの隙に城塞都市を押さえて……せねばならないことは多い。
大変なのはこれからだ。
ケテルは無事だ。おそらくホドも無事だろう。しかしこちらはねえさんを失ってしまった。
どうやってその穴を埋めるか。
失ったものは大きすぎた。
レメゲトンの長だったねえさんの代わりを務められるものなど存在しない。
一体どうしたらいいんだろう……
そんな風に一度に多くの事を考えすぎたんだろうか。
落下するように、意識が一気に暗いところへ墜ちていった。