SECT.11 闇カラノ救出
すでにこちら側にも滅びの影響が出始めている。
一刻の猶予もない。
「争っている場合ではない! 早く退け!」
続けてもう一度戦場に向かって叫ぶ。
門に続いて外壁が突如として崩れ去った――それは人々の恐怖心に火をつけていた。
一人、また一人と武器を捨てていく。
「レメゲトンの指示に従え! すぐにトロメオから離脱する!」
いち早く叫んだ声の主は前線で『覚醒』のメンバーに混じって戦うフォルス騎士団長だった。
その声を契機にしていっせいに兵が引き始めた。
安堵のため息をついてから戦場にフェルメイの姿を探す。
真紅の鎧から目当ての人物を見つけ出して、退軍に巻き込まれないように慎重にフェルメイの元へと舞い降りた。
「ウォル先輩!」
フェルメイが馬をとめる。
そして、自分の腕の中にいる人物に目を移してはっとした。
「トロメオの門は破壊できたが突入は危険だ。安全なところまでねえさんを頼む」
「ファウスト女伯爵……グリフィス女爵は?」
「あのくそガキは今メタトロンと戦っている。俺もすぐにそちらへ行く」
既に冷たくなってしまったねえさんの体をフェルメイに渡すと、彼は泣きそうな顔で唇をかんだ。それでも強い瞳を真直ぐこちらに向けた。
いつも優しく笑っている面影はなく、その表情は真剣そのものだった。
「お帰りをお待ちしています。先輩もグリフィス女爵も……ご無事をお祈りします」
「ありがとう」
最後に微笑んでから、ハルファスの風を纏って再び上空に向かう。
兵はトロメオから離れ始めていた。
が、滅びの力も相当量が漏れ出している。
音もなく地面が抉り取られ、堀の壁が消え、時に逃げ遅れた兵を巻き込んで消滅していく。
止めなくては。
もういいんだ。
トロメオの門は消滅した。外壁も崩れ、堀は破られ、城塞都市としてはほとんど機能しないだろう。もう十分だ。
「ひひ! またあそこに行くのか? 死ぬ気か?」
「当たり前だ。このままでは……」
「あいつは俺たちの中で一番だぞ? メタトロンと同じくらいに戦うのはあいつくらいだ!」
「それでも止めるんだ」
残してきた少女が心配だった。
グラシャ・ラボラスを召還しメタトロン相手に戦う――どれほど無茶な事かはわかっている。前回の相手はミカエルだったが、それでも左腕を失ったのだ。
滅びの力を使う二つの力がぶつかり合う戦いに巻き込まれて無事で済むはずがない。
サブノックの剣を振り上げた。
もう一度、今度はあの少女を止めるために。
「斬り裂け」
祈りを込めて剣を振り下ろす。
剣先が空間を切り裂いた。
その向こうに――滅びの空間が姿を現した。
闇の空間に金の煌きを放つメタトロンが浮かんでいた。
それに相対するように闇を纏った少女が笑っている。いつも彼女を包み込んでいた温かな微笑みがない。破壊を楽しみ、滅びに喜びを求める絶望の塊だった。
空間に満たされた闇と同じ色をしたオーラに包まれてそのまま闇に溶けてしまいそうで不安になった。
と、次の瞬間ハルファスの風で吹き飛ばされる。
何とか体勢を立て直したが、予想しない力を受けて頭がくらくらした。
「危ないぞ! ひゃはは!」
既にぼろぼろになっていたマントの端がまた消滅していた。
光の矢とは全く性質が違う。自分の感覚では全く感知できない。
ハルファスがいなかったら、と考えて思わずゾクリとした。
「俺に滅びの力は分からん……頼む、力を貸してくれハルファス」
「ひひ! いいぞ! 無理やり吹き飛ばすけどな!」
「ありがとう」
滅びの力は感知できない。光の矢は避けられる。
それ以外の攻撃はまったく分からないが、グラシャ・ラボラスとの戦いに集中している今こちらにまで力を削ぐとは考えにくい。
とにかく隙を突いてあのくそガキの近くまで寄れればいい。
ねえさんがいなくなり、その絶望で悪魔を暴走させたあいつを止められる可能性があるとすればこの場では同じレメゲトンの自分しかいなかった。
こうなってしまった今、あいつに自分の声が届く保証はない。
それでも信じるしかなかった。
グラシャ・ラボラスに左手を食われて心をなくしかけたあいつを呼び戻せたように。
フラッシュバックに飲まれた時に現実に立ち返らせたように。
ほんの一度だけでも、傍にいたいと願ってくれたのは嘘ではないと信じたい。
「ひひ! 飛び込むんなら消える事を覚悟しろ! あいつ強いぞ!」
「分かっている」
「ひひ! お前仕方ないやつだな! シンジューしてやるよ!」
シンジューというと心中のことだろうか。
自分が飛び込もうとしているのは、ハルファスとサブノックの加護をもってしても命の保障などない戦闘の真っ只中なのだろう。いつも楽しそうにしているハルファスが心中と言うほどに。
それはそうだろう。
目の前で戦いを繰り広げているのは、天界の長と最凶の悪魔なのだ。
本当なら人間である自分が同じ空間にいることだっておかしいはずだった。
人知を超えた強大なエネルギーが空間に充満している。
震えそうな体に力を入れた。
悪魔と天使の戦いに巻き込まれてしまった少女を救い出さねばならない。絶望に打ちひしがれ、心を失いかけている少女を現実に繋ぎ止めねばならない。
絶対に失いたくない。
「行くぞ、ハルファス!」
そう叫ぶと、サブノックの剣を抜いて真直ぐに少女の下へ向かった。
近づくにつれて双方が放つ攻撃の余波が響いてくる。
時にサブノックの剣で光を、闇を弾きながらグラシャ・ラボラスが憑依した少女の元へ向かう。
ハルファスの風防壁が周囲を覆っていたが、ほとんど効果はなかった。
凄まじいエネルギーを秘めた光と闇は自分の体を簡単に切り裂いていく。
「ひひ! 遠いな!」
本当に、遠い。
すぐそこにいるのに。
地を駆けている時ならば一瞬で届きそうな距離なのに。
ハルファスの乱暴な風を受けながら、視線だけは少女から離さない。
背に大きな逆十字傷を負った少女はマルコシアスが名づけたとおり、空を鋭く舞い、天界の長を翻弄している。
その瞳に光はなく、動きも普段のくそガキからは考えられないほどに俊敏で力強い。
殺戮を目的としてきた者だけが持つ野生の動きだった。
手加減なしで吹き飛ばすハルファスの風に頭が揺さぶられ視界が一瞬かすむ。
しかし、そうでもしなければ滅びの攻撃は避けられないのだろう。
「くそ……!」
血を流しすぎたか。
だんだんと意識が薄らいできた。
それでも。
瞼の裏に少女の笑顔が浮かぶ。
頼むから。
戻ってきてくれ。
「……ラック」
ポツリと呟いた声は周囲の技の破裂音にまぎれて消えていったはずだ。
それなのに、少女の姿をした悪魔はほんの一瞬だけ動きを止めた。
その瞬間だけ少女へと続く道が現れた。
ハルファスはその一瞬を見逃さなかった。
凄まじい風に押し出されて吹き飛ばされる。
正確なその豪風は、自分を少女の前まで運んでいった。
逃すまいと右手を少女に向かって伸ばす。
「ラック……!」
漆黒の瞳がかすかに揺れる。
少女の右手を掴んだ次の瞬間、再びハルファスの風でその場から吹き飛ばされた。
これまでで最も強い風に、脳が揺さぶられる――しかし、自分の背に舞ったマントがほとんど消失したのがわかった。
間一髪だ。
メタトロンがはるか後方まで遠ざかっていた。
「邪魔をスルな 半端モノ」
少女の口から悪魔の声が漏れ、肩口に鋭い痛みを感じる。
殺戮の悪魔の鋭い牙が自分の肩口に食い込んでいた。