SECT.9 グラシャ・ラボラス
上から落下してきたくそガキは、地面に着地するなり自分の腕の中にいるねえさんを覗き込みんで蒼白な顔で叫んだ。
すでに瞳が潤んでいる。
「ねえちゃん!」
くそガキの声にねえさんがうっすらと目を開けた。
「ラック……ゲブラは?」
「カマエルさんが消滅したよ。あとは門を破るだけだ」
「そう。よくやったわ、えらいわ……」
カマエルの消滅は確かだった。これでゲブラを退けたというのに!
ねえさんの声が小さくなっていく。
息が荒く、顔も蒼白だった。
腹部から流れ出す血が止まらない。このままではもう幾許も――
くそガキがねえさんの頬に触れた。
その瞬間、危険な気配を感じ取ってハルファスの風を呼ぶ。
「危ないっ!」
抱えたねえさんと目の前で泣きそうな顔をしたくそガキをまとめて風で吹き飛ばした。
もちろんメタトロンの光の矢を避けるためだ。
ハルファスの強い風の障壁が周囲を包む。
ねえさんは苦しい息の下で5つのコインをくそガキに差し出した。
「ラック、これを……」
くそガキは受け取ろうとしなかった。
そんな様子を見取ったのか、それとも見えていないのか。
ねえさんは切れ切れに言葉を紡ぐ。
「アレイ、お願いよ。お願いだから……」
皆まで言わずとも言いたいことは分かっていた。
これまで散々ねえさんがかけてきた保険だ。保険を使うつもりなどなかったというのに。保険は保険のままでよかったのに。
ずっと知っていたのだろうか。セフィラとの戦闘で命を落とす事を。だとしたらなぜ――
「そんなこと言わないでくれねえさん」
脳が現実を拒否していた。ねえさんの命が消えようとしている、そんな事実を受け入れるには突然すぎた。
そしてどこかに残っていた理性、冷静な自分が警鐘を鳴らす。
まだここには二人のセフィラが控えているのだ。
守らねば。
この二人を。
サブノックの剣を抜いてメタトロンの前に立ちはだかった。
「死ぬぞ! お前!」
「あの二人だけは逃がすんだ」
「ひひ! 一人死ぬけどな!」
「言うな!」
ハルファスを怒鳴りつけ、サブノックの加護を纏った剣を振り上げた。
飛んできた光球を勘だけで叩き落す。
轟音と共に光球が炸裂し、足元の地面が抉れた。
間髪いれず地を蹴り、メタトロンに切りかかる。ハルファスの加護がこれまでにないくらい自分の中に満たされている。
芽生えた絶望と怒りに反応してハルファスの力が増大していくのが分かる。
「悪魔の子 貴方も滅しなさい」
メタトロンの掌がこちらに向いた。
滅びの力だ。
「ひゃは!」
ハルファスの豪風で強引に吹き飛ばされる。
同時にマントの端が滅びに巻き込まれて消滅するのを見た。
「乱暴だな」
「ひひ! 感謝しろよ!」
「……ああ、助かった」
滅びは免れたが、転がるようにして地面に着地した。立ち上がるとすぐ光球が迫っている。連続で幾つも飛ばされる光球をサブノックの剣で弾いていく。
が、数が多すぎる!
どうする?!
空中に飛び上がるが、危機感は消えない。
とにかく飛び回り、目に見えない光球から逃れた。
「逃げるだけですか」
メタトロンの言葉に返せない。
逃げるのだって精一杯だ。
時にサブノックの剣を盾にしながらフィールド内を空中地上関係なく駆け回った。
怒涛のような攻撃がいったん止んだときには、すでに息が切れていた。
「諦めなさい 慈悲を与えます」
メタトロンの慈悲とは滅びの事だ。
後に何も残さない、次に繋がらない滅びの何が慈悲なのか。消す事に何の意味があるというのか。
そんなものに屈したくはない!
荒い息のまま剣を構えたとき、背後に恐ろしい気配が出現した。
この感覚は知っている。
あの時、銀髪のセフィラがミカエルを召還したときと同じ――世界が闇に包まれた。
刻の悪魔メフィストフェレスが支配した空間とは全く違う。
光の存在しない世界に取り残されていた。
絶対の闇の中でも金のオーラを放っている目の前のメタトロン、何が起きたかとあたりを見渡すホド、そして……
「待ってタよ ルーク」
闇の毛並みと炎妖玉の瞳。狂気の牙を閃かす殺戮者が闇の中に光臨した。
ざわり、と背筋に冷たいものが這う。
グラシャ・ラボラスの隣に佇む少女の瞳は光を失っていた。
「君の心ガ 絶望ニ染マる コのとキガ 待ち遠シかったヨ」
闇の化身は光を失くした少女の左手に埋まるコインを真っ赤な舌で舐めあげた。
少女はほとんど表情を変えずにその大きな黒い狼の喉に手を当てた。殺戮者はその感触を楽しむがごとく、嬉しそうに目を細める。
少女は無機質な声で言った。
「お前なら出来るんだろ? ラース」
「ルーク キミの望ミヲ口に出しテ そシタら僕ハ 実行するカラ」
大きな犬歯が引っかかるのか、グラシャ・ラボラスの口調はたどたどしく、声の幼さも手伝ってまるで幼い子供のようだった。
それなのに放たれる殺気は子供のものからは程遠い。
全く動けなかった。
足が凍りついたように動かない。
あの少女が背後に守る既に動かなくなった女性の体が目に入った。総毛立つのがわかった。煮えたぎるような怒りと深い絶望が同時に襲ってくる。
まさか。
まさかねえさんが……
たった今まで対峙していた天界の長の姿も忘れた。
動かない女性の隣に佇む表情のない少女の桃色の唇に釘付けになる。
少女はその口から信じられない願いを零した。
「壊して。全部」
「いいヨ」
軽い口調で請け負った殺戮と滅びの悪魔は本気だった。
心を破壊された少女の望みをかなえるために世界の全てを滅ぼすことも厭わないだろう――一番大切だった、ねえさんがいなくなってしまったこの世界を。
「ハルファス どいてテヨ メタトロンは僕ガ貰う」
「ひひ! 久しぶりだってのに我侭な奴だな!」
「お前も 消されタイのカ?」
ぎろりと睨んだグラシャ・ラボラスの殺気に心臓が凍りついた。
体が震えるのが止められない。
圧倒的な力の差を感じた。
「仕方ないな! 譲ってやるよ!」
相変わらず楽しそうなハルファスは、グラシャ・ラボラスとそれなりに仲がいいのだろうか。
そういえば、レラージュやハルファスとも交流があるといったことを聞いた気がする。
「それがイイ 僕ニ 逆らうナ」
殺戮と滅びの悪魔は光をなくした少女の左手に吸い込まれるようにして消えた。
最凶の名を冠す悪魔の加護を受けた少女は、ゆっくりとメタトロンに向かって歩を進めた。
あの少女は自分の知る少女ではない。
最も大切なものをなくし、世界に絶望し、我を忘れた破壊者だ。
――止めなくては
理性の欠片がそう告げたが、足は全く動きそうにない。
そんな自分の眼前を、悪魔に支配された少女が通り過ぎていく。
すれ違う瞬間にその悪魔はこちらを向いた。
「お前トモ いずれ 決着ヲつけテやる 悪魔デモ天使デも人間でもなイ 半端モノ」
一瞬、ほんの一瞬だけ右手首のコインが熱くなったのがわかった。
マルコシアス?
褐色の肌を持つ戦士が胸を焦がしたのだ。
なぜ?
少女の姿をした最凶の悪魔は重力を無視してふわりと宙に浮く。その背は先刻の戦いのためか大きく焼けており、短衣が焼け落ちて肌があらわになっていた。
のぞく肩甲骨の辺りから腰にかけて、大きな傷が見える。3年前の古傷だろうか、背全体にかかる大きな逆十字傷だった。
滑らかな肌に似つかわしくないあまりに悲惨な傷に、思わず眉をしかめた。
滅びの悪魔は左手をメタトロンの背後に向けた。
よく見ると、闇の空間のはるか向こう、かすむようにしてトロメオの門が浮かんでいる。
そう、あの少女はきっとねえさんの最後の願いを忠実に聞き入れようとしているのだ。
「消 え ロ」
メタトロンの使った滅びとは全く比にならない大きな力が膨れ上がるのを理屈ではなく肌で感じた。
恐怖で動けなかった。
目を見開いたまま、トロメオの門が灰燼に帰すのを見た。