SECT.8 破壊人形(メフィア・ドール)
ねえさんの判断は早かった。
「退くわよ、アレイ!」
今の自分たちに勝てる相手ではない。
最高位の悪魔メフィストフェレスでさえ防ぐ事はできないと言い切ったのだ。これ以上この場に留まっても勝てる確率は限りなくゼロに近い。
もう一度作戦を練る必要がある。
それこそあのくそガキの滅びの悪魔を使うくらいに思い切った作戦が必要だ。
「ハルファス!」
「逃げんのか? ひひ! それがいいだろうな! 俺も消えたくないからな!」
強い風が自分の周囲を包む。
サブノックが乗り移った剣と共に堅固な障壁と成った。
ねえさんも黒い霧を纏って飛び上がる。
メタトロンの声が追ってくる。
「世界の存続を叫ぶ幻想は打ち払う」
その言葉をねえさんがはっきりと否定した。
「幻想なんかじゃない」
これまで何度も何度も自分の迷いを打ち払ってくれた迷いのない声だ。
「この国を滅ぼさせはしないわ。私の大切なものがたくさんあるの。傷つけて欲しくない人がたくさんいるの」
あのくそガキが言いそうな子供じみた理由だった。
しかし、自分たちの戦う理由などそれだけでよかったのだ。ここでこうして命を懸けて天界の長と対峙するには十分すぎる動機だった。
すべては自分たちが生きる世界の存続のため。
大切な人が生きる世界を守るため。
「もし貴方たちの侵略に抵抗できる最後の希望が私たちなのだとしたら、この場は逃げるのが最良」
そうだ。
自分たちレメゲトンがやられたら、もうグリモワール国に手は残されていない。『覚醒』の面々ではホドを、ましてやケテルを押し留める事など不可能だ。
圧倒的な力を持つセフィラたちを相手になす術なく国を明け渡す事になってしまうだろう。
最も避けるべき事態。
勝つためでなく、負けないための戦い。
それは最初に誓ったとおりだ。
それを聞いた天界の長、セフィラ第一番目王冠の天使メタトロンは感情のない声で言った。
「メフィストフェレス 揺ぎ無い心に 入れ込みましたね」
「ほほ 貴方には分かりませんか 人が願う心の強さを」
「しかし その思想は危険です」
ぴぃん、と空気が張り詰める。
その時だった。
トロメオから少し離れた場所で、凄まじい爆発音がした。
はっと振り向くと、見たこともないような炎柱が天高く上っている。地獄の業火と天界の輝炎が絡み合うようにして初夏の青空を貫いていた。
フラウロスとカマエルの炎が真っ向からぶつかり合っている。
あのくそガキが戦っている。
どきりとした。
ホドも、メタトロンすらその炎のぶつかり合いに目を奪われていた。
人知を超えた炎はトロメオの上空まで暴れまわり、いくらか軍を巻き添えにし、最終的に大気と大地を震撼させる轟音を上げて爆発した。
「……!」
息を呑んでその様子を見守った。
地獄の業火が輝炎を飲み込んでいく。
二色の炎が交わりあった場所は紅蓮を越えた蒼淡色にみるみる変化していった。
灼熱を超えた温度の炎になった証拠だ。
「カマエル」
メタトロンの声ではっと現実に舞い戻る。
地獄の業火が天界の輝炎を飲み込んだ。これは、あのくそガキの勝利を確信していいのか?
ねえさんも同じことを思ったのだろうか。
金の瞳と視線が合う。ねえさんは風の障壁を纏う自分の隣に立ち、にこりと微笑んだ。
「消滅など ありえません」
メタトロンの声にはやはり抑揚がなかった。
それでも少し焦りが感じられたと思うのは自分の気のせいだろうか。
その瞬間、フィールドをまばゆい光が覆った。
「……なっ?!」
一瞬目がくらむ。
同時にハルファスの容赦ない風でその場から吹き飛ばされた。
すぐ傍を光の矢が通り抜けていった感覚があった。次に飛んできた光球を勘だけで叩き落す。
ねえさんを庇うように立ちはだかりながらサブノックの加護を受けた剣で光球を次々叩き落していった。
メタトロンはその様子を見て、後ろに控えていたホドに命令する。
「ラファエル 捕らえてください」
「仕方ないな」
メタトロン相手にも敬語を使うことのないホドは、ぱちん、と指を鳴らした。
すると何もなかった空間に真っ赤な球体が現れた。真紅の羽根がぎっしりと詰まった硝子の球だ。
なぜかどこかで見た覚えがあった。
どこで見た?
「オレの最高傑作だ」
ホドはその硝子を砕いた。
ぴぃんと耳につく音がしてはじけとんだ硝子球から無数の羽根が舞い散る。
その羽根は徐々に形作っていった。
――信じられない姿がそこにはあった
「う……そ……」
普段あまり呆ける事などないねえさんが呆然となるほどに。
腰まであるストレートブロンド。猫のような金の眼。カトランジェの街中の男を虜にした女性らしい曲線を描く体。
いま、自分の隣にいる女性と瓜二つだった。
死霊遣い(ネクロマンサー)ホドが初めて笑った。さも嬉しそうに。
「破壊人形……もしかすると、本体より強いかもな」
そうだ、あれは以前ねえさんを束縛した血の制約。大きな十字架に括られたねえさんの姿が目の前に想起した。
驚いて目を見開いたねえさんは、時を止めようと手を伸ばす。
が、破壊人形と呼ばれた幻想は全く動じなかった。
「無駄だ。何しろこれはお前自身だからな」
血で人間を認識する悪魔にとって、ねえさんの血で作り出した幻想に危害を加えられないのはある意味道理とも言えた。
何と言うことだろう。
悪魔の力が効かないと知ったねえさんは太股に括っていたナイフを抜く。
が。
「だめだねえさん! 幻想に物理攻撃は……!」
ハルファスの作った風の障壁を解除してねえさんのもとへ飛ぶ。
自分の姿を映し出され、メフィストフェレスの力も効かず、思った以上に動揺していたらしい。効くか効かないか分からない無茶な攻撃をするなどいつものねえさんならありえないことだった。
間に合うか?!
一瞬遅く、自分の剣が届くより早くねえさんが短剣で幻想に斬りつけてしまった。
無論その攻撃は幻想に効かず、むしろ攻撃した彼女の方が吹き飛ばされる。
自分は遅れて追尾する幻想をサブノックの剣で牽制し、ねえさんを後ろに庇う。さらに追撃を加えるべく剣を振り上げた。
そして狡猾なメタトロンはその時を地上から狙っていた。
ねえさんが吹っ飛ばされて完全に防御できなくなる瞬間を。自分が攻撃に向かい、フォローできないその一瞬の隙を。
「V-A-L-E」
別れの言葉を呟いたメタトロンがねえさんに指を向けた。
それが最後だった。
「――!」
目の前で、ねえさんが光の矢に貫かれるのを見た。
その瞬間だけ妙にスローモーションで覚えている。
ねえさんの姿をした幻想がホドの元に帰し、赤い羽根の塊に戻った。
その間にも真紅の液体を撒きながら落下するねえさんをなんとか地上すれすれで捕まえ、跪くようにして抱きかかえて傷を確認する。
「……っ!」
誰が見ても一目で分かる。
致命傷だ。
ちょうどメフィストフェレスの加護印があった腹部を、照準を絞った光の矢が貫通していた。
瞼は硬く閉じられ、傷からは真紅の液体が止め処なく流れ落ちている。
そこへ最悪の声が響いた。
「ねえちゃん!」
上空から落下してきたのは、ねえさんを誰より慕うグリフィス家の末裔だった。