SECT.6 戦闘開始
大きな地鳴りを立てて両軍が攻めていく。
黒い旗印のグリモワール軍、そして白い旗印のセフィロト軍。
数はほぼ同じだろう、ホドの幻想兵もケテルの参入もない、小細工一切なしの総力戦だった。この戦は一つの局面を迎えていた。
ここは絶対に退くわけにいかない。
なんとしてでもトロメオを取り戻さねばならない。
初めて戦場の空気に触れたくそガキは、肩を抱くようにして硬直していた。
無理もない。
あの黒い点の一つ一つが人間で、それらがみな殺し合いをしているなど、自分だって今なお信じられないことなのだから。
「行くぞ」
軽く肩に触れると、光を湛えた漆黒の瞳が見上げてきた。
すなおにこくりと頷いたガキの表情は凛としたガラス細工のようだった。
強くて、脆い。しかし一点のにごりもない純粋な願い。
そんなお前に、帰ってきたら必ず伝えよう。
お前の傍にいたいと。お前には傍にいて欲しいのだと。
そして――
トロメオの門を破壊しようとすれば確実にセフィラが出てくるはずだ。どこにいるのかは密偵調査でも突き止められなかったが、見ていることは確かだ。
そう踏んで全軍の衝突帯を避け、空から真直ぐに門へと向かった。
門が目視できる距離で停止し、両手を城門へと向ける。
「下がれ」
隣に浮かんだくそガキとねえさんに一応忠告する。巻き添えを食うことはまずないと思うが、ケテルの光の矢が応戦してくる可能性はあった。
ひとつ、深呼吸する。
そして今や戦友と化した戦の悪魔の名を高らかに叫んだ。
「ハルファス!」
「ひひ! あれ壊していいんだな!」
聞きなれた甲高い声と同時に、周囲の空気が一変したのが分かった。
風がハルファスの支配下に落ちる。
凄まじい勢いのかまいたちが城門へと向かって飛ばされた。
さあ、出て来い!
城門にあたる寸前のかまいたちは、横方向から飛んできた炎の塊によって相殺された。
「来たわね」
こんなことができるのはセフィラの中でも一人しかいまい。
「まずはおれからだ!」
くそガキは迷うことなく両腰のショートソードを抜いて手品師に飛び掛っていった。
空を飛ぶことを覚えたくそガキは、めきめきとその力を伸ばしていた。
二本のショートソードを巧みに使ったヒット・アンド・アウェイの戦法で、それこそ駆け抜ける旋風のようにして敵を翻弄する。
鳥のように空を舞い、剣を振るうその姿を見たマルコシアスはこう言った――「燕だな 空を裂き 舞う 鋭い風」
そうして、あのくそガキが空を舞う姿に名をつけた。
鋭く空を裂いて飛ぶくそガキの姿に、ねえさんが感嘆の声を漏らす。
「あの子、いつの間にあんなに強くなったのかしら」
「……マルコシアスが『風燕』と名づけた。素早さと、悪魔の加護を持つあいつ独特の剣型だ」
「風燕? ふふ、いい名ね。あの子にぴったりだわ」
追撃を加えながら門から遠ざかっていくくそガキと手品師の姿を、胸が裂かれんばかりの気持ちで見送る。
その後姿に心から無事を祈った。
無事に帰って来い。絶対だ。傷つくことも許さない。
もう決めたのだから。
「さあ、私たちはこっちよ」
ねえさんの声にふと視線を門に戻すと、兵たちが少し引いてぽっかりと広場のようになった門前に二人の神官が立っていた。
が、次の瞬間にはねえさんを抱いてその場を飛び退っていた。
同時に叫ぶ。
「サブノック!」
飛び出した青白いオーラを纏う武器の悪魔は振り下ろされたステッキを軽く受け止めた。
その隙に、ねえさんを抱えたまま門前に着地する。
ここが闘技場というわけか。
あからさまにセフィロトの兵がこの場所を開けている。これまでの戦闘により石畳で舗装されていた道も周囲に生えていた草木も根こそぎなくなってしまった土の大地こそ、自分たちのために用意されたフィールドだった。
ケテルとホドが自分たちを挑発しているのは明らかだ。
ここでセフィラとレメゲトンの決着をつけようというのだ。
「レメゲトンが一人増えたようですね……ゲブラがこの場を離れてしまうのは誤算でした」
色素の淡い茶の髪を風に揺らしながら、ケテルは冷徹な声で言い放った。
サブノックがそれを遮るように眼前に降り立つ。
つられるようにして、幻想のゲブラがゆっくりと地面に降りてきた。
背後に轟く戦の怒号は相変わらずびりびりと大気を震わせているというのに、まるでこの場所だけぽっかりと穴が開いたようだった。この場にいる誰かがほんの少しでも動けば、加護を持たない人間など介入する事もできない戦いが勃発するだろう。
息遣いにすら気を使うような空間を最初に打ち破ったのはハルファスの甲高い声だった。
「ひゃはは! 俺はメタトロンな! お前はその傀儡で十分だ!」
サブノックの後姿に向かって放ったその言葉が沈黙を破壊した。
「戦争幻想、サブノックを消せ」
死霊遣い(ネクロマンサー)ホドの呼びかけで、幻想の手品師がステッキを振り上げる。
ケテルは見たところなんら武器を持たず、ただ細いフレームの眼鏡をくい、と指で押し上げた。王冠の天使メタトロンの力に絶対的な自信があるのだろう。
隣のねえさんがバシンを召還したのを契機に、全員が弾かれるように戦闘を開始した。
魔界の長リュシフェルと並び称される天界の長メタトロンを相手に小細工は通用しない。
真っ向勝負だ。
自分の経験から培った戦闘的勘だけを頼りに持てる力の全てをぶつけるしかない。これまでずっと共に戦ってきたハルファスの加護を受け、軸足で強く地を蹴る。
この戦の前日マルコシアスから渡された白い羽根がコインに並べて右手首に括りつけてあった。
サブノック、マルコシアス、ハルファス。
力を与えてくれたすべての悪魔を信じて、自分のこれまでの鍛錬を信じて。
ケテルにたどり着く前に横っ飛びに地を蹴る。
「よく避けましたね、見えるはずはないのですが」
目が光を感知したときにはすでにその攻撃が自分のところまで届いている。文字通り光の矢は目に見えぬ速さで襲ってくる破壊の光線だった。
ケテルの様子と勘だけを頼りに避けるしかない。
逆に言えば、その光線さえ浴びなければケテル自身にそれほど高い攻撃力はないはずだ。
細いフレームの奥の狡猾な目を睨みつけながら攻撃のタイミングをはかった。
「ひひひ! 気をつけろよ! あれ食らったら痛いじゃすまないぞ!」
「そんな事分かっている」
叫び返しながらも、メタトロンの放つあの絶対的な黄金のオーラを浴びてもなお怯まないハルファスが今は頼もしく思えた。
「ハルファス、あれを弾く事はできないか?」
「ひひ! 俺には無理だ! お前の剣でもな!」
近寄るごとに光の矢を放たれたのでは、いつまでたっても間合いに入れない。
どうする?
受けるのを覚悟で突っ込むか?
「あいつの剣ならできるかもな! ひゃは!」
ハルファスが指したのは闘気をまとった武器の悪魔の姿。
そうか、傷口を腐らせるというサブノックの剣は通常の武器ではない。あの剣を使う事が出来れば、あるいは……
幻想ゲブラと対峙した壮年の剣士はこちらに気づいたようだが、この状況で相手から意識をはずす事はありえなかった。
仕方がない、サブノックが幻想に負けるとは思えない。
少しの間逃げ回ろうか?
そう思ったとき、鋭いメゾソプラノが響き渡った。
「メフィストフェレス!」
刻の悪魔の召還だった。