SECT.5 平穏ヲ願ウ
とうとうその日がやってきた。
トロメオ奪還計画実行当日――あのくそガキに初めて会ったのはちょうどこのくらいの季節だっただろう。暖かな風と鮮やかな草木に一筋の懐かしさを見出した。
柔らかい初夏の風と共に駆け抜けた少女の笑顔に釘付けになったのは一年前の今頃だ。
早いものだ。
馬術を完全にマスターし、隣で一人馬に乗るくそガキを見て驚きとほんの少しの寂しさを感じていた。
何も知らず、何もできずにいたあの頃とは違う凛々しい横顔はグリフィス家の末裔に相応しいものだった。成熟する一歩手前の少女は溢れんばかりの魅力を振りまいていた。
レメゲトンの正装ではなくいつものラフな服装に着替え、両腰にはショートソードを携えている。ずいぶん伸びた髪をポニーテールのように高い位置で括っていた。丈夫な皮の篭手にはマルコシアスとクローセルの羽根が縫い付けてあるはずだった。
髪を上げたことで首筋に刻まれたセフィラの印が露になっている。
くそガキはセフィラの標的となった証を隠すつもりはないようだった――ねえさんがメフィストフェレスの印を全面に押し出すように、逃げるつもりのないところを示しているのかもしれない。
このくそガキを見るといつもその強さにはっとさせられる。
育て親のねえさんの持つ絶対に揺るがない精神は、このくそガキにも受け継がれているようだ。
遠目に改めて見るトロメオは堅固な要塞だった。
高い城壁と周囲を取り囲む堀が外的の侵入を阻んでいる。小高い位置にあるシェフィールド公爵家から見下ろされているようで不快だった。
何ヶ月も篭っていた城塞都市トロメオの地理は完全に頭に入っている。扉を破壊して侵入してしまえばあとはなし崩しに制圧できる計画が整えられていた。
かろうじて入っている密偵の報告から、トロメオ陥落の時に逃げ後れ捕虜になった兵の位置や軍の大体の位置は把握できている。
やはり最も需要になるのは門を破る事になるだろう。
ケテルによって一度吹き飛ばされたその鉄の城門は簡単に修復されている。
あれさえ破れば。
それが自分たちの仕事だった。
もっとも、最強のケテルを相手にする自分は足止めが精一杯だろう。それはゲブラを相手にするこのくそガキにも言えることだ。
おそらく門を破るのはねえさんの役目になるだろうことは容易に予想がついた。
「どうしたの、ラック」
ねえさんの心配そうな声ではっとした。
見るとくそガキが泣きそうな顔をしてトロメオを見つめている。
「ううん、だいじょうぶだよ」
慌てて首を振ったが、その顔から不安な色は消せていない。
城内にいる人間たちのことを考えて胸を痛めているんだろうか。それともゲブラを相手にする不安で顔がこわばっているのだろうか。
どうして、ここから逃げていいと言えないんだろう。逃がしてやりたいと思う気持ちがないわけではないのに。
強くもろい心を持つグリフィスの少女が傷つくところは見たくない。
しかし――
国を守りたい。この少女を傷つけたくない。逃がしてやりたい。見守りたい。隣で戦ってやりたい。代わりに自分が傷つけばいい。
たくさんの感情が混ざり合ってどんな言葉もかけられなかった。
自分の願望すべてを叶えることはできない。だから「一つだけ」を選べといったのは他でもない自分だったのに。
いま、自分は「一つだけ」に選んだはずの少女が戦場に出て行こうとするのを止められない。
グリフィス家の末裔、レメゲトンの力は強大だ。
その戦力を遠ざける手はなかった。
どうしてこいつはこんな力を持っているんだ。コインを持たず、悪魔耐性や親和性がこれほどまでに高くなければこんな事態には……
いや、分かっているはずだ。そんな仮定は無意味だと。
現に力を磨いて戦場に降り立ったレメゲトンであるのだから逃げるなどという道はない。グリフィスの血筋に生まれ、ねえさんに拾われ、レメゲトンに就任した事もすべてがこのくそガキを形作っているのだ。
それでも、もし二人ともこんな力を持たずに出会っていたら、とは思わずにいられなかった。
心の片隅で願う平穏。
いつかそんな世界がくると祈る事くらいは許してくれるだろうか……
ねえさんは背に黒い翼を広げ、同じようにくそガキの背にもデカラビアの加護を与えた。
「ハルファス」
もう呼びなれた名を口にすると、耳元がむず痒くなる。
その途端下から手が伸びてきた。
もちろん触らせるわけがない。ひょい、と軽く逃げるとその手の先にはむすっとした顔のくそガキの姿があった。背に黒い翼を湛えている。
誰が触らせるか!
一歩距離を置くと、くそガキは頬を膨らませた。
くそガキがマントを脱いで『覚醒』唯一の女性騎士アズに渡している間、先に上空へ向かう。
久しぶりにトロメオを上空から見下ろしたが、街並みがかなり破壊されているのがすぐ分かった。
丸くこげたような跡はケテルの光の矢によるものだ。
多くの兵の命を奪い、たった一人でトロメオを陥落するに至った原因。
「アレイ」
隣に来たねえさんが真剣な声で告げる。
「絶対に無理だけはしちゃ駄目よ。死ぬまで戦う必要はない、私たちの役目は今でも足止めだけなのよ。ヴァルディス卿の無茶を真に受けてたらとても体が持たないわ」
黄金の煌きが真直ぐに見つめた。
「死んじゃだめよ、アレイ。あなたは生きてあの子を守って」
「……だから、そんな言い方をするとねえさんが死ぬみたいじゃないか。やめてくれ」
言い返したが、ねえさんはにこりと微笑んだだけだった。
その微笑から視線を外して、ポツリと呟いた。
「だが……もう決めた。迷わない。この戦闘から帰ったら、ちゃんとあいつに言う」
それはこの数日で決心した事だった。
あの夜のくそガキの態度が、勘違いでないならばきっと――
「よかった。これで一安心ね」
ねえさんがもう一度にこりと微笑んだところでくそガキが空に上がってきた。
背にデカラビアの加護を受け、漆黒の翼をはためかせて。
トロメオ奪還は砦の確保以外にも、逃げ遅れて捕虜となってしまった多くの兵や備蓄していた食糧、武器を手に入れるためにも早急に必要だった。
今後の戦局には今日の勝敗が大きくかかわってくる事だろう。
さすがに緊張したのか、くそガキが珍しく眉間に皺を寄せてトロメオを睨んでいた。
「ラック。大丈夫よ、あなたは強い子だわ。きっと大切なものを自分の手で守る力を持っている」
ねえさんは母のように優しく微笑んで黒髪を撫でた。
ポニーテールが微かに揺れる。
「でも、忘れないで。私はあなたをずっと近くで守る。辛いときは言いなさい。あなたが望む限りずっと助けるわ」
その笑顔と言葉に一抹の不安がよぎる。
ねえさんがまるで今生の別れをしているようにも感じられた。
「心配しないで。ここには私もアレイもいるのよ」
何だろう、この不安は。
まるで死を覚悟しているかのような言動に、胸のうちがざわめく。
「行きましょう。グリモワール王国の、未来のために」
それでも、そういってトロメオを指差したねえさんはいつものようにレメゲトンの長としての威厳を放っていた。
「デカラビアはフラウロスと共存できないかもしれないわ。フラウロスを召還するときは気をつけて」
ねえさんの緊張を含んだメゾソプラノが消え入らないうちに、セフィロト軍から鬨の声が上がった。




