幽霊の少女は“初恋の人に会いたい”――俺にしか触れられない彼女と記憶を探す話
なぜ、俺は女子高生に抱きつかれているのか。
「どうしたんだ?道の真ん中で……幽霊にでもあったような顔してるぞ?」
通りすがりの、同僚が不思議そうに声をかけてくる。
ガラス張りのビルに目をやると、映っているのは俺と同僚だけだった。
「……幽霊ってお前信じるか?」
思わず、そんな言葉が漏れる。
「何言ってんだ?俺は先に行くぞ」
「あ、待って――」
情けない声で引き止めて、一歩踏み出そうとした瞬間。
背中を、引かれた。
振り返る。
――女子高生の姿をした何かが、たしかに俺にしがみついていた。
会社に出勤できず、近くの公園のベンチに腰掛ける。
隣にはこちらにしがみついたままの女子高生の幽霊。
「えっとそれで……君は何がしたいのかな?」
幽霊に話しかけるとか、我ながらどうかしている。
ただ、このままにしておくというわけにもいかない。
「……つだって」
「えっ?」
かすれるような少女の小さい声が聞こえた。
「手伝ってって言ったの……」
「手伝う?何を?」
聞き返せば少女は耳まで真っ赤に染まった。
「は、初恋の人を探すのを手伝ってほしいの!」
「……」
…… …… …… は?
「初恋の人?君の?」
「……」
耳どころか首まで真っ赤にしながら少女は小さくうなずいた。
「えぇ、なんで俺が……」
「だ、だっておじさんしか私のことに気付ける人がいないんだもん!」
「なるほど……?」
この幽霊は俺にしか見えず、聞こえず、触れないのであれば……
通り過ぎる人が生暖かい目で、ちらりとこちらを見てそそくさと立ち去っていく。
ですよね……
「それで?初恋の人の名前は?」
「分かんない」
「は?じゃ君の名前は?」
「分かんない」
「いやいやいや、自分の名前が分かんないってことは無いだろ……いや、ないよな?」
「ごめんなさい。本当に自分の名前とか知り合いの名前とか覚えてない」
「記憶喪失の幽霊なんて……うそだろ?」
……
「このたびは人探しのご依頼を頂き、誠にありがとうございま――」
「断る気満々なの!?」
「手がかりゼロの人探しなんかできるか!こっちはただの会社員だぞ?
こんな依頼、興信所でも匙を投げるわ!
ついでに言うなら、こちとら彼女いない歴=年齢の拗らせ男だぞ?
何が悲しくて他人の恋路を、それも、幽霊の初恋探しを手伝うなんて……」
自分で言っていて悲しくなってきた……
「はぁ、仕事しよ……」
「あ!まってよ!」
立ち上がり、しがみつく少女を振り払い、その場を後にして会社へと出社した。
「えぇと、相沢君……君は、その……大丈夫かね?」
業務をしていると、課長が心配そうな声で話しかけてくる。
「うっ……くっ、だ、大丈夫です……」
涙と鼻水を垂れ流しまくった顔で、問題ないと返事をする。
泣きながら仕事をする社員など問題以外の何物でもない。
「相沢、今日は休め、働きすぎたんだな。うん」
半ば強制的に帰らされた。
「病院行くならいい病院紹介するぞ?」
精神病院の地図をお土産に渡された……
強制退勤させられては、他にやることもないのでアパートへと戻る。
「……パトラッシュ僕はもうつかれたよ」
「やめろぉぉぉ!」
延々と泣ける系の昔ばなしを朗読してくる幽霊の少女を涙目で睨みつける。
「さっきっから延々と……うぅ……涙が止まらないじゃないか……」
「私は、おじ……お兄さんが、手伝うというまで、朗読を、止めない!」
「ドヤ顔で言うことではないだろうが……」
「私を無視したのが悪い」
逆恨みにも程がある。
しかも、俺の泣きポイントを狙いすましたようなチョイスばかりしやがって……
「……なあ」
腕に絡みついたまま離れないそれに、ため息をつく。
「初恋の相手を探すまでつきまとう、とか……やめてくれ?」
「……」
ふくれっ面でこちらにしがみついている。
当然、離れる気配はない。
――勘弁してくれ。
このまま見えてるのもきついし、無視し続けるのも無理だ。
だったら――
「……分かったよ。無理のない範囲でなら、手伝う」
「ほんと?!やったー!」
言った瞬間、腕に回る力が少しだけ強くなり、ぱっと表情が明るくなる。
――さっきまで幽霊だったことを、忘れそうになるくらいに。
「無理のない範囲だからな?俺にも生活があるんだ、手伝うのは仕事の時間以外。
定時過ぎか、土日にしてくれ」
「うん分かった、お仕事の邪魔はしないよ」
聞き分けの良い幽霊で助かったというべきか、いや、もう邪魔はされているんだよな……
「あぁ、そうだ、一つだけいいか?」
そう言えば、「なぁに?」と顔を覗き込まれる。
近い近い。
「君に名前をつけていいか?」
「名前?」
「協力すると約束はしたし、ずっと『幽霊』呼びって言うのも……なんか嫌だ」
「なるほど……じゃあ、可愛いのをつけてね!」
無邪気にほほ笑む少女の笑顔を見ながら、少し考えて――口に出す。
「……レイ」
言葉にした途端、不思議と引っかかりがなかった。
初めて呼ぶはずなのに、どこか馴染んでいる。
――前にも、呼んだことがあるみたいに。
「レイ……私の呼び名……」
そう呼ばれた幽霊――レイは、名前を抱きしめるみたいに胸元に手を当てた。
「いいね! 気に入った!」
「気に入ったなら良かった」
ユウレイのレイからとったとか言えない。それにユウだと……
「それからもう一つ、おじさんよびはやめてくれ、まだ24なんだ」
「そうなの?疲れた顔しているからてっきり……。
それで?おじ……お兄さんの名前は?」
「勇太だけど……」
ユウだと俺の名前とかぶるんだよな……
「ユウタ、ユウタ……じゃウタちゃんって呼ぶね」
そう呼ばれてドキッとした。
「ちゃんはやめろよ」
「じゃあウタ」
「呼び捨てかよ……まぁいいけど」
……ウタか。
久しぶりに呼ばれた、小学生の頃の俺のあだ名。
知ってか知らずか、そんな名前を選ぶなんて――
ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。
懐かしさと、言葉にできない何かが、混ざる。
それから、俺と幽霊の奇妙な共同生活が始まった。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
笑顔で見送る彼女の姿に、その言葉が、思ったよりも自然に出た。
(いってらっしゃい……か、久しぶりだな)
少し不思議な感じがした。
「あ!おかえり~」
「……ただいま」
帰ってきてからもレイは同じ調子だった。
長らく一人暮らしだった俺にとっては、少し不思議で……少しだけ嬉しかった。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「あ、そうそう、一つ思いついたんだけど、私の制服から通ってた学校見つけられないかなって」
レイが指でつまんで制服を見せる。
くるりとまわってポーズまで決めているが、それはいま必要なことだろうか?
「……まぁ、確かに行ったことある場所に行けば、記憶が戻るかもしれないな」
「そういうこと!」
「明日休みだし探してみるか……の前に……」
スマホをレイへ向ける。
「なぁに?私と思い出を残したいの?」
可愛らしくポーズをとって見せるレイだったが、スマホは空の部屋を写すだけだった。
「制服を写真検索できればと思ったんだけど、ダメだった……」
「んもぅ、そこは冗談でも、思い出作りだって言ってくれなきゃ」
「やだよ、俺は心霊写真をスマホに残しておく気はない」
「言ったな!?ほれほれ、幽霊だぞぉ~~」
少し怒った様子で抱き着いてくる。
彼女が俺に触れる感触は確かにある。
なのにカメラや鏡に映らない……
「……冗談だ、悪かったな」
「わ、わかればいいわよ」
あたまをぽふぽふしてやれば、首まで真っ赤になって大人しくなった。
翌朝、レイの学校を探そうにもノーヒント状態で打つ手はない。
「その制服、見覚えはあるんだけどどこだったかなぁ……」
ネットで地元の制服一覧を見てみたが、該当する制服はない。
「私、ウタの学校見てみたい」
「俺の?なんでまた」
「とりあえず私の学校じゃなくても、雰囲気で思い出すかなって」
「……なるほど、一理ある」
俺の地元は元々この地域だ。
アパートから徒歩圏内に通っていた小中学校がある。
約十年ぶりに訪れる学び舎。
見れば記憶がよみがえってくる。
「懐かしいな……」
「本当にね」
ポツリとこぼした言葉にレイが同意した。
「……おまえ、ここ出身なのか?」
「いや、覚えてないけど、空気感を懐かしく感じて」
「なるほど?」
「ねぇ、ウタはここにどんな思い出があるの?」
「思い出か……色々あるな、数は多くなかったけど友達もそれなりにいたな。
一緒に遊んで、一緒に笑って、時に喧嘩もしたり……まぁよくある話さ」
本当にどこにでもあるような話だ、大きなドラマはないけれど、思い出せば胸が温まる懐かしい思い出。
「初恋の思い出……とかも?」
少し遠慮がちにレイが聞いてくる。
「恥ずかしいこと聞くなよ」
「聞かせて、ほら、私の記憶が戻るきっかけになるかもしれないし」
「……はぁ……それ持ち出されるとなぁ」
記憶を戻すというよりも、単なる興味本位で聞いてきているようにしか見えないが……
「あったよ、初恋も」
「へぇどんな子だったの?」
「小中学校でほとんど同じクラスだったな。
大人しい子だった、一緒に図書委員会をしたりして、たまに会話して。
二人並んで無言で本を読んでるときも妙に居心地が良かったんだよな」
美化された思い出かもしれない。
「かわいい子だったの?」
「……十年も前だぜ?顔も思い出せないし、会っても気がつかないかも……」
ふと、レイをみれば目をキラキラ輝かせてこっちを見ている。
「お前に似てるかもな」
「ほんと?」
「髪の長さだけは」
「それは似てるうちに入らないじゃない!」
「いてっ」
ぺちっと肩を叩かれる。
「……ウタは、その……初恋の子に思いを伝えたりしなかったの?」
「そんな勇気があったらよかったんだけどな……
高校進学で別の学校になっちまってそれっきりだ。
たまに駅で見かけることはあったけど……いつからか見かけなくなってね。
それが大体、六年、いや七年ぐらい前か……」
ふと、思い出す……
あの子の着ていた制服……
「なぁに?じっと見て」
顔を赤くしてもじもじするレイ。
「いや、そういうのじゃないから……似ている?」
「似てる?」
スマホで、あの子が通っていた学校の制服を見る。
一目で別の制服と分かるデザインだ。
「勘違いか……思い出はアテにならないもんだな」
「まぁまぁ、元気出そう。はぁ、外歩いたら私疲れちゃったそろそろ帰ろう?」
「幽霊に疲れるって概念あるんだな……」
母校を見に行って記憶を取り戻すことは出来なかった。
その週末はいくつか学校を見て回ったが、記憶を取り戻すことは出来なかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい!」
「ただいま」
「おかえり」
いつしか当たり前になっていた。
平日は仕事に精を出し、週末になればレイの記憶を探して、地域の学校や通学路なんかを散歩がてらに散策する。
そんな生活が一ヵ月は経過していた。
「……なんか、ただいまが言える相手がいるのって良いな」
「やだ、私のこと好きになった?」
「犬猫レベルでは好きだぞ」
「ペット扱い!?」
軽口をするのもいつものやり取りになっていた。
「……あれ?レイって、そんなに透けてたっけ?」
彼女越しの景色がいつもよりはっきり見えた気がした。
「え?」
レイが自分の体を見回して、首をかしげる。
「こんなもんじゃない?」
「そうか?……レイが言うならそうなのか」
本人が気にしてないなら気のせいか……
「なぁに?ウタって意外と、女の子が前髪切ったの気付ける系なの?」
「どういう意味だ」
「言葉通りの意味よ、ふふふ」
「こいつ」
「いたっ」
ぺしん、デコピンをする。
額を押さえて涙目のレイ。
「やったなー!えい!」
「おっとストップストップ、俺が悪かった。あははは」
「最近ウタは、よく笑うようになったね」
「これは、ひひひ、お前がははは。くすぐるからギブギブ!俺の負けだ……ぜぇぜぇ」
息できなくて三途の川が見えるかと思った……
くっそ、的確に弱い所を攻めてきやがって。
「気のせいじゃなくてよく笑うようになったわよ。
出会ったころは、幽霊よりも幽霊みたいで、こーんな顔してたもの」
「なんだそりゃ……ふふふ」
レイはそう言いながら変顔をしていた。
(よく笑うようになった……か)
そう言えば、後輩にも「最近先輩は調子良さそうですね~」なんて言われたな。
確かに、笑うことは増えたかもしれない。
「良いんじゃない?しかめっ面よりも笑いながら生活してる方が楽しいじゃん」
「幽霊が言うセリフかよ」
「たしかに、あははは」
笑う……という意味ではレイも最近よく笑うようになった気がする。
最初に会った時のどこかあった悲壮感はなりを潜めている。
楽しい……そう思うようになっている。
そしてこの日常が続いてほしいと思っている自分がいる。
彼女の願いが叶えば終わりが来ると知っているのに……
だが、願いが叶う前に終わりが来るなんて、この時の俺は全く想像していなかった。
それからさらに一ヵ月たった。
この頃は、土日になっても家の中で過ごすことが多くなった。
「ウタ、ごめんね……なんか力はいらなくて」
「いいんだ、無理するな」
「ベッドも占領しちゃってるし……」
「気にするなと言っている」
へへへ、と力なく笑うベッドに横たわるレイをみて心が締め付けられる。
あの時、透けていると感じたのは気のせいでは無かった。
最初の頃はっきり見えていたのに、今となっては明らかにレイの姿が……その存在が希薄になっている。
「今日はベッドでゆっくりしてろ、俺がお前の初恋を絶対探してやるから」
「……ふふふ、ありがとう。おねがいね」
レイをアパートにおいて図書館へと向かう。
「この棚か」
地域で発行されている資料が保管されている棚
その中に学校行事の資料についても保管されていた。
一冊の本を取り出しページをめくる。
「あった……どおりで探しても見つからないはずだ……」
文化祭だろうか?飾り付けられた校舎が映る写真があった。
楽しそうに笑う生徒たちの姿、その制服は。
レイの着ている制服と同じデザインだ。
日付を見る、五年前の写真――
四、五年前にこの辺りでは、少子化に伴う地域学校の統廃合が行われた。
制服も変わり、レイが着ていたのは古い制服、そりゃ調べても出てこない訳だ。
つまり、レイは五年以上前の幽霊。
「過去から来た思い出ってか……」
そんなことを呟きながら、図書館中のパソコンへと向かう。
地元の歴史がデータ化され保存されている。
調べるのは、彼女が関係すると思われる事故か事件……
1件、それらしい検索結果が見つかった。
「日付は……七年前」
背筋に冷たいものが流れる。
震える手でリンクを開く。
帰宅途中の女子高生に、飲酒運転の車が衝突。
女子高生は意識不明の重体。
見覚えがある。
……忘れていたはずの、顔だった。
被害者の名は 雪屋 美玲
「……ミレイ」
口に出した瞬間に、繋がった。
「レイちゃん……」
口に馴染む、呼び慣れた名がそこにあった。
どうやって帰ったかは覚えていない。
家に帰るとベッドで眠る彼女の姿。
その夜はベッドの側から離れられなかった。
翌朝
「行ってきます」
返事はない。彼女の寝息だけが聞こえていた。
俺は一体どんな顔で仕事をしていたやら……
上司や、後輩に心配されながら業務をこなし、定時に上がる。
会社を出た所で、後ろから衝撃を受ける。
下を向けば見知った顔が笑顔で出迎える。
初めて会った時の様に、はっきりとした姿で彼女は俺に抱き着いていた。
「ただいま」
「……おかえり、ウタ」
「レイ、家で待ってなくてよかったのか?体の調子は?」
「待っていたらさみしくなっちゃって。ねぇ、今日はこのままデートしよう?」
「デート?今からか?」
「うん、今から。私遊園地に行きたい」
夜の遊園地。
コーヒーカップにメリーゴーランド。はしゃぐ彼女の姿を見て温かい気持ちが沸く。
それと同時に、さみしさが胸を締め付けた。
「ねぇ、私あれ撮りたい!」
レイが指を指したもの。
「プリクラ?でもレイは――」
映らないという言葉を寸での所で飲み込んだ。
「……いいよ取ろう。思い出残さないとだな」
「お、成長してるじゃ~ん。うりうり~」
「やめろよ、くすぐったい」
わき腹をつつかれながら、プリクラの機械に入り画面を見る。
俺の姿と、レイの姿が映っていた。
「レイ、お前?」
「なぁに?」
「……いや、何でもない」
楽しそうにフレームを決めて。
ポーズをするレイ。
『ポーズをしてね!3,2……』
「隙あり、ぎゅー!」
「うわっ!」
急に抱き着いてくるレイ、モニタには驚いて間抜けな顔をした俺と、満面の笑顔のレイがいる。
「あははは、これにしよう!ウタの顔とっても面白い!」
「お前な……」
『デコレーションタイムだよ!制限時間内でいっぱいデコろう!』
「相合傘書いちゃお。ウタ、はーと、よし!ほらウタも書いて書いて」
レイはなぜか俺の名前を書いた。
「何で自分の名前じゃないんだ」
「ふふふ、おまじないよ。ほらウタも私の名前を早く書いて」
「そういうもんなの?……レイ、これでいいか?」
「うん、バッチリ……ありがと」
写真の隅に、お互いの名前を書いた相合傘が残る。
出てきたプリクラを取り出し、レイに渡す。
彼女の手がすけてプリクラがすり抜ける。
「あ、あはは、手が滑っちゃったかな……」
ごまかすように彼女が言う。
雑にプリクラを拾い上げポケットに突っ込み、レイの手を強く握りしめる。
「ねぇ、ウタ……私、最後に、観覧車に乗りたい」
「……最後なんて言うなよ」
「お願い……」
レイのお願いで、観覧車に乗る。
ゆっくりとのぼっていく観覧車。
「……気づいたんだよね?」
こちらを見ずにどこかごまかす様に彼女は言った。
「あぁ、全部な……レイちゃん。いままで気づけなくてすまなかった」
「レイでいいよ。それに、私も思い出したことを内緒にしてたしね」
こちらを向きはにかむ彼女はいつもの調子に戻っていた。
「レイはいつ思い出したんだ?」
「名前を付けてくれたとき……だね」
「一番最初じゃないか……」
「あの時は本当に自分の名前だけを思い出したの。
そこから少しずつ、学校に行った時、町を歩いた時、家でお話している時。
ふと思い出がよみがえってくるように、少しずつ、本当に少しずつ思い出したんだ」
「なんで思い出した時に言ってくれなかったんだ……」
「だって、恥ずかしいじゃない?……初恋の相手を探してください!って、お願いした相手が本人だったなんて……あっ」
レイが恥ずかしそうに顔を覆う。
その手を掴む。
しばらくそうしていると、顔を覆う手から力が抜ける。
手を開かせれば、耳まで真っ赤になった彼女の顔が、少しだけ涙にぬれた彼女の瞳が俺を写す。
観覧車が頂上に近づく。
上にのぼるにつれ、彼女の姿がどんどんと希薄になっていく。
「待てよ……行くなって」
自分でも驚くくらい、声が荒れていた。
「今さら消えるとか、せっかく、ふざけんなよ……」
何を言ってるのか分からないまま、言葉だけが先に出る。
「オレ……お前のこと――」
そこで、詰まった。
ずっと前から知ってたはずの言葉なのに、うまく形にならない。
「……好きなんだよ」
やっと出たそれは、ひどく不格好だった。
「子供の頃から……たぶん、ずっと」
レイを抱き寄せる。
「今のレイだって――」
続けようとして、
言葉が、途切れた。
言い切ったはずの言葉が、やけに軽く聞こえた。
レイは、すぐには何も言わなかった。
ただ、少しだけ困ったように笑って――
その輪郭が、わずかに揺らいだ気がした。
「……レイ?」
名前を呼ぶ。
返事は、半拍遅れて返ってきた。
「ねえ、ウタ」
いつもと同じ声のはずなのに、どこか遠い。
抱きしめる手が、ほんの少しだけ空を切る。
触れているはずの距離なのに、触れていないみたいだった。
――やめろ。
目を逸らしたら、もう見えなくなる気がして、逸らせなかった。
「初恋ってさ、叶わないって言うじゃない?」
レイは、変わらない笑顔でそう言って、
ほんの少しだけ、寂しそうに目を細めた。
「……でも、違ったみたい」
一歩、近づいたはずなのに。
距離は、さっきより遠い。
「ありがとう、ウタ。私の初恋――終われた」
その瞬間。
レイの輪郭が、空気に溶けるみたいに薄くなる。
そして、音もなく、ほどけた。
そこにいたはずの姿が、最初からなかったみたいに消えて。
――何かを、言おうとした。
喉が動かない。
空気だけが、やけに冷たく流れ込んでくる。
遅れて、胸の奥が焼けるみたいに痛んだ。
「……レイ」
呼んでも、もう返事はなかった。
抱きしめていた手が、行き場をなくしたまま宙に残る。
触れていたはずの距離が、やけに遠い。
――今のレイだって。
言いかけた言葉が、喉の奥で引っかかったまま、ほどけない。
カサリ
プリクラが落ちる。
写っているのは俺の間抜けな顔、
そこにいるはずの”誰かの余白”、
二人で書いた互いの名前。
観覧車が何事もないように降りていく。
世界だけが先に進んでいく。
その中に、レイはいない。
それだけが、やけに現実だった。
「ただいま」
習慣づいた言葉を投げても帰ってくる言葉はない。
心にぽっかりと穴が開いている。
「……終わらせないと、終わらないんだな」
余白の大きいプリクラを握りしめる。
「俺も……」
--------------------
まぶたが、重い。
光が、滲んでいる。
壁も天井も白い、病院だろうか。
ずいぶん長い夢を見ていた気がする、とても幸せな夢を。
でも最後、彼に悲しい顔をさせてしまった。
「あんな顔を、させるつもりじゃなかったんだけどな……」
「……じゃあ、どんな顔をさせるつもりだったんだ?」
ぼやけた視界の中で、誰かの輪郭が揺れた。
近くにいる。
ずっと、そこにいたのだろうか。
「……よぅ、目が覚めたか?」
聞き慣れないはずの声なのに、
どうしてか、知っている気がした。
焦点が、ゆっくりと合っていく。
声を出そうとして、涙があふれた。
彼と目があえば微笑を浮かべ――
「……おはよう、レイ」




