表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『北のバラに消えた寝台特急』タイ・トラベルミステリー・シリーズ  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/7

第7話 蜘蛛の微笑(最終話)

1.復讐の旋律


 ニーナの足が止まった。


 坂本も、リサも動きを止める。


 甘いバラの匂いが重苦しく、不気味に漂っていた。


 坂本は胸元のホルスターに指をかけ、いつでも抜けられるように身構える。


「ようやく来たか……待ちくたびれたぞ」


 タナチャイ警部の嘲るような低い声がロビーに響いた。


 背後に立つレッドが小銃を構え、銃口は迷いなくニーナたちに向けられている。


 その時、二階の踊り場から葉巻を咥えた影がゆっくりと降りてきた。


  ――プラサート将軍。


 白の軍用スーツに迷彩の縫い目、胸元には金色の徽章、肩章には重厚な飾り。

 

 裏社会を牛耳る“闇の将軍”としての威圧を纏っていた。


 冷徹な笑みが浮かぶ。


 大理石の床に響く靴音が、重苦しく空間を満たしていく。


 将軍は両手を大きく広げ、葉巻を燻らせた。


「久しぶりだな、ニーナ。いい女になったな……」


 将軍の視線がまっすぐ彼女に突き刺さる。


 ニーナはゆっくり顔を上げた。


 首筋には、髪に隠れて蜘蛛の刺青が呼応するように姿を現した。


「おやおや、ひょっとして俺を殺すつもりでここまで来たのか?  勇敢だな……いや、無謀と言うべきか」


 プラサート将軍は続けた。


「まず、村瀬から奪ったUSBを渡してもらおう。お前には意味のないものだ」


 将軍はタナチャイ警部へ目で指図した。


 タナチャイはニーナの前に一歩詰め寄り、手を伸ばす。

 

「USBはどこだ? さぁ、早く出せ!」


 ニーナの声は冷たく、挑発的だった。


「私がUSBを取引に使うとでも? 村瀬のようなクズと一緒にしないで」


 タナチャイの口元が歪む。


「お前が村瀬を毒殺し、USBを奪ったことは分かっている。殺人犯で逮捕もできるが……お前次第だ。さぁ、USBを渡せ」


 ニーナは唇を緩め、冷笑を浮かべた。


「ふふふ、あんたたち馬鹿ね。USBのデータはもうインターポールに送ったわ。あんたたちの悪事はすべて暴かれるのよ。残念ね」


「嘘をつくな! あのデータは暗号コードがなければ開けない仕組みだ!」


 タナチャイが声を荒げる。


 坂本が低く笑い、将軍とタナチャイの間に言葉を投げた。


「ほう、よく知ってるな、欲に塗れた警部さんよ。だが残念だったな、暗号コードはソムバットがデータと一緒にインターポールへ既に送ってある…!」


 その言葉に将軍の薄笑いが崩れ、タナチャイの目が怒りに燃える。


「ニーナ……裏切ったな。お前もあの世で惨めな両親に会うがいい。レッド、殺れ!」


 タナチャイが命じると、レッドの銃口が火を噴いた。


「ニーナ!」


 しわがれた叫びと共に、ニーナの前に飛び出した影があった。


――タオ爺だった。


 弾丸が老体の胸に突き刺さり、ニーナに抱かれるように倒れ込んだ。


 胸からは血が溢れ、呼吸は途切れ途切れになった。


 皺だらけの手がニーナの頬を撫でる。


「ニーナよ……わしはずっと待っておった。お前がいつかここに戻ってくることを…」


 過去と現在が重なるように、彼はうわ言のように続けた。


「私の可愛い孫娘よ……お前は母親にそっくりだ。許してくれ、お前の両親を守ってやれなかった」


 タオ爺の体温が腕の中で急速に冷えていく。

 

「タオ爺……あなたが……? 私のお爺ちゃんだったの?」


 苦痛に顔を歪めながらも、タオ爺は笑みを浮かべ、耳元で囁いた。


「これで将軍の部下どもはしばらく動けん……わしがしてやれるのはこれくらいじゃ」


 震える手が腰の鍵束に触れる。


 ニーナはジャケットに忍ばせた拳銃のグリップを掴んだ。


 ――タオ爺は秘密の通路に入る直前、地下に繋がる鉄扉を一つ一つ閉め、将軍の部下たちを閉じ込めていたのだ。


 まるでこの日を予想していたかのように、身分を隠し、将軍の下で庭師として働いていたのだ。


 プラサート将軍が冷たく吐き捨てる。


「日本の刑事さんとやらも、ついでに死んでもらおう」


 タナチャイ警部が坂本に向けて引き金を引いた。


 火薬の匂いが空気を切り裂く。


 だが先に発射されたニーナの弾丸が、タナチャイの右肩を撃ち抜いていた。


 身体がよろめき、呻き声が漏れる。


「ニーナ、撃つな! タナチャイ警部、銃を捨てろ!」


 坂本は咄嗟に銃を構え、鋭く叫んだ。


「うぅ……」


 震える右手から銃が弧を描いて放り投げられ、床に鈍く転がる。


 タナチャイは右肩を押さえ、膝をついて呻いていた。


 すると、プラサート将軍が胸元から拳銃を取り出し、冷ややかにニーナへ銃口を向ける。


 指が引き金にかかろうとした、そのとき――。


  ――パァン! 大理石の床に衝撃音が走る。


 将軍の拳銃が吹き飛び、床を転がって火花を散らした。


 視線が一斉にその音へ吸い寄せられる。


「リサ! お前……」


 坂本の声が途切れる。 リサは床に膝をついて正確に的を狙っていた。


「これでも刑事よ。忘れないで!」


 その声にいつもの剽軽さはなく、表情は鋭く引き締まっていた。


 リサは素早く銃口をレッドへ向け、冷静な声で命じる。


「レッド、今度はあんたの心臓に一発ぶち込むよ。さぁ、銃を捨てなさい!」


 レッドは一瞬ためらったが、やがて銃を床に置いた。


 リサは白いカウボーイブーツのシャフトに拳銃を差し込んで立ち上がった。



2.支配の崩落


 プラサート将軍に向けたニーナの銃口は一寸たりとも揺れなかった。


 ――その時、将軍が叫んだ。


「誰か! 早く来い! こいつらを片付けろ!」


 だが豪邸の奥からは何の足音も響かない。


 本来なら命令一つで武装した部下たちが駆けつけるはずだった。


 廊下の奥から鈍い音が響く。


 扉を叩く音、必死の叫び声。


「将軍! 扉に鍵が……!」


 重い閂が落とされ、鍵はすり替えられていた。


 通路には仕掛けが施され、部下たちは地下の兵舎に閉じ込められていたのだ。


 坂本が目を見開く。 リサも銃を構えたまま耳を澄ます。


「……タオ爺だ」


 ニーナの胸に確信が走る。


 屋敷に入る前、彼は既に廊下や扉に細工を施していた。


 孫娘を守るため、タオ爺が命を賭けた仕事だった。


 将軍の叫びは虚しく反響するだけだった。


「なぜだ……なぜ誰も来ない!」


 地下の兵舎からは誰一人駈けつけてこない。


 ニーナは一歩ずつプラサート将軍に近づいていく。


 ヒールの足音だけが冷たい大理石に響いた。


 プラサート将軍の支配は、ここで完全に孤立した。


 床に横たわり、血まみれの右手を押さえる将軍の顔色は土気色に変わり、かつての冷徹な笑みは完全に消え失せていた。


「ニーナ……いいか、よく聞け! 俺の下で暮らすがよい、権力も金もいくらでも与える。だから、ああ、撃たないでくれ……」


 かつて支配者として君臨した男の威厳は、血と恐怖に塗り潰されていた。


 彼は這いずるように言葉を続ける。


「お前なら望むものすべてを手にできる。さぁ、あの刑事を撃て――」


 プラサートの足掻きに呼応するように、ニーナの首元の蜘蛛の刺青が微かに脈打った。   


 血の匂いとバラの甘さが混ざり合い、豪奢な空間は腐敗した花園へと変わっていく。


 その光景が、彼女の決意をさらに硬く締め付けた。


 ニーナの瞳が冷たく光り、内側で葛藤を押し潰すように何かが固まる音がした。


 揺らぎは消え、残ったのは復讐の炎だけだった。


「どうだ……? 欲しいものは何でも与えよう、どうだ、満足だろう?」


 ニーナの銃口は、将軍の額を真っ直ぐに捉えた。


 過去の屈辱、奪われた日々、祖父タオ爺の犠牲――すべてが血のように脈打ち、怒りは最高潮に達する。


 将軍の顔から色が引き、タナチャイの動きが硬直する。


 ニーナの指が引き金に触れる。


「撃たないでくれ……私はただ……」


 権力の象徴であった男が、ただの哀れな人間へと変わり果てる瞬間だった。


「ニーナ……! お前の復讐は終わった! そこまでだ、銃を下ろせ!」


 坂本が叫ぶ。


「あんたの時代は終わった、プラサート」


 雷鳴のような轟音がロビーに走った。 ――弾丸は彼の背後へ飛んだ。


 豪奢な広間の中央に鎮座していた黄金の像が砕け散る。


 権力の象徴は粉々になり、床に転がった破片が冷たい音を響かせた。


 ニーナは銃を床に投げ捨て、タオ爺のもとへ駆け寄った。


 血に濡れた手で銃を拾い上げたプラサート将軍が、狂気の目で彼女を狙う。


「裏切り者め……」


 引き金が絞られる寸前――鋭い銃声が広間を切り裂いた。


 坂本の銃が火を噴き、将軍の右腕を撃ち抜いた。


 体は大きくのけぞり、崩れ落ちる。


 その手から銃が滑り落ち、乾いた音を立てて床に転がった。


 ニーナは振り返り、坂本の姿を見た。


「プラサート将軍、おとなしくしろ!」


 坂本の声が広間に響いた。


 復讐の物語を終わらせたのは、刑事としての責務を果たした坂本の決断だった。



3.エピローグ : 微笑みの記憶


 邸宅の外にはサイレンが重なり合い、パトカーが列をなし、武装警官が次々と突入していった。


 地下に閉じ込められていた将軍の部下たちは制圧され、手錠の音が響く。


 タナチャイ警部とレッドも国家反逆罪で逮捕され、報道陣のカメラに囲まれながら連行されていった。


 邸宅の門前には外国メディアのレポーターが集まり、数か国語で現地レポートが飛び交う。


「闇の犯罪組織の支配者が倒れた瞬間だ…」


「腐敗の象徴の終焉か…」


「人身売買組織の闇が暴かれた瞬間だ…」


 ――その言葉は世界へ拡散され、事件は国際的なニュースとなった。


 ニーナの黒い影が野次馬の群れへと消えていくのを、坂本とリサは黙って見送った。


「ニーナ……これからどこへ行くのかしら」


 リサが小さく呟き、坂本の顔を見上げる。


「さぁな……」


 坂本は短く答えた。


 ―チェンマイ駅前のカオソーイで有名なレストラン。


 店内の壁に掛けられたテレビ画面には、事件のニュースが流れていた。


「でも、これは氷山の一角かもしれないな……」


 坂本は画面の中のニュースキャスターの険しい表情を見つめながら、ぽつりと言った。


「じゃあ、そろそろ私、行きますね。お母さんからのメッセージが止まらないの…。ほんとに、子離れできない母親なんだから…」


 坂本は、リサの愛らしい表情に、妹のような親しみを感じながら、 大げさに麺を頬張った。


「やっぱりチェンマイ、本場のカオソーイは最高だなぁ、次は旅行で来るぞ!」


 駅の構内の列車案内が響いてくる。


 坂本が乗る昼行特急――スプリンター8列車の乗車案内だ。


「そろそろ出発の時間だ、 バンコクまでゆっくりと昼間の景色を眺めながら帰るよ」


 リサは唇に笑みを浮かべ、両手を胸の前で合わせて、静かにお辞儀をした。


「はい、これ、忘れるとこでした!」


 リサがポシェットの中からUSBを取り出して、坂本の手に渡した。


「ああ、これか? もうお役御免ってとこだけどな…」


 坂本は無造作にズボンのポケットにしまいこんだ。


 その時、駅前の国道を赤いベンツが猛スピードで走り抜けた。


 赤色灯を回転させた警察車両が数台、甲高いサイレンを響かせながら追跡していく。


 ―あの赤いスポーツカーを運転しているのは、ニーナかもしれない。


 坂本とリサは顔を見合わせ、互いに小さく手を振った。


 列車に乗り込んだ坂本は、リクライニングのシートに身を沈めると、列車がゆっくりと動き出した。


 窓の外でチェンマイの街が後ろへ流れていく。


 サイレンの余韻も、銃声の記憶も、列車の揺れに溶けて遠ざかっていった。


 坂本はリサから受け取ったUSBをラップトップに差し込んで中身を確認した。


 画像ファイルがいくつも収められた内のファイルの一つをクリックした。


 そこに映っていたのは――


 ソムバットとニーナの兄妹が写った、チェンマイ旅行の写真や動画だった。


 ファイルには、サンカムペーンの間欠泉で温泉玉子を作りながら笑う二人や、 ドイステープ寺院の黄金の仏塔を背に肩を寄せ合う姿が収められていた。


 さらにスクロールすると、ナイトバザールの屋台を山岳民族の衣装を着て歩くニーナ、 エレファントキャンプで象に水をかけられるソムバット、二人の楽しそうな動画が続く。


 最後のファイルには、夕暮れのピン川沿いのカフェで並んで座り、 夕焼けを静かに見つめる二人の姿が映っていた。


 坂本は画面を見つめたまま、静かに息を吐いた。


 あの事件の裏に、こんな日々があったのか。


 写真の中の二人は、ごくありふれた仲睦まじい兄妹の姿だった。


 写真の中の二人の微笑みに、坂本の表情が緩む。


 列車の車輪のリズムが滑らかな鼓動のように響き、 彼の意識はゆっくりと眠りの底へ沈んでいった。


(完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ