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『北のバラに消えた寝台特急』タイ・トラベルミステリー・シリーズ  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


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第6話 悪夢の赤いバラ

1.赤土の逃走劇(デッドヒート)


 ソムバットを失った直後の車内は、静まり返っていた。


 フロントガラスに叩きつける雨音が、ニーナの胸の鼓動に合わせる。


 ニーナは無言のままハンドルを握り、地図に載っていない林道へSUVを滑り込ませる。


 ぬかるんだ赤土が、泥の手のようにタイヤを掴み、深みに引きずり込もうとする。


「一体どこへ向かってるんだ?」 ――坂本が問う。


 ニーナは短く答えた。


「私の故郷……そして奴らの墓場」


 ――その頃。


 タナチャイ警部のSUVは、ニーナの車を追跡しながら国道を疾走していた。


 検問所の前では、銃を構えた警官と軍人が一般車両を一台ずつ制止し、トランクを開けさせて厳しく検査している。


 レッドが眉をひそめた。


「奴ら、ここを通ったのでしょうか?」


 タナチャイ警部は少し顎を上げた。


「いや、ここは通ってないだろう、林道を行け、奴らの行く先は一つだ……先回りするぞ」


 赤と青の警告灯を点灯させたSUVは検問所を抜けて、国道から急ハンドルを切り、赤土の林道へ進入した。


「近道だ、気をつけろ、路肩に落ちれば終わりだ」


 雨霧に包まれ、谷底へと吸い込まれそうな崖沿いの細い林道。


 くねくねと曲がる坂道を抜けると、小さな三叉路がひっそりと姿を見せた。


 タナチャイ警部が前方を指差す。


「レッド、来たぞ……進路を塞ぐんだ!」


 ニーナは前方の三叉路の陰に潜む黒い車を見つけ、舌打ちした。


「しつこい奴らね……」


 ――待ち伏せだ。


 ブレーキを踏んだ瞬間、林の奥から巨大な影が現れる。


 坂本が叫んだ――「お、おい……象だ!? まさか野生の象か?」


 雨に濡れた灰黒色の巨体が、興奮気味に長い鼻を高く振り上げ、ニーナの車へ突進してくる。


「きゃぁ、象さん! 可愛いけど、怖いぃ!!」


 リサが剽軽な声を上げた。


「バカ、可愛いとか言ってる場合か! 踏み殺されるぞ!」


 坂本はリサを叱るも、顔が引きつったままだ。


 ただ、ニーナは冷静にギアをRに入れ、アクセルを一気に踏み込む。


 赤土が爆ぜ、泥土が上がる。


 車体は後退しながら象との距離を稼いだ。


「うわぁ‥‥来ないでよ……! 今日はおやつ持って来てないし!」


 リサが間の抜けた涙声で叫ぶ。


 象は鼻を振り回し、大地を揺らす速度で迫ってくる。


 ニーナは狭いスペースで車体を横滑りさせ、ハンドルを切ってUターンし、獣道のような薄暗い森の支道へと飛び込んだ。


 象は足を止め、しばらく威嚇するように頭を振った後、森の影へと消えていった。


「……助かったのか?」


 坂本が息をつく。


「まだよ…」


 ニーナの声は震えていなかった。


 ルームミラーにタナチャイ警部の車が映し出される。


 レッドはアクセルを蹴り込むように踏んだ。


「タイヤを狙う、横につけろ!」


 枝がフロントガラスを打ち、タイヤが石を跳ね飛ばす。


 次の瞬間――パァン!


 タナチャイ警部が放った、一発の乾いた銃声が森全体を震わせ、周りの山にこだました。


 弾丸が車体後部のバンパーに突き刺さり、鈍い悲鳴を上げる。


 リサが肩をすくめ、思わず坂本の腕を掴んだ。


「やばいよ!右から回り込んでくる!」


 リサが振り向きざま叫ぶ。


 二台のSUVのデッドヒートは、まるで森の中を駆ける野獣が、獲物を奪い合うかのような激しいバトルになっていく。


 エンジンの咆哮ほうこうが、雨に煙る薄暗い森に轟く。


 ハイビームが互いに鋭い刃のように交錯し、濡れた木々は黒い壁となり進路を狭める。


 車体が横滑りし、左右にドリフトさせながら互いに進路を奪い合う。


「クソッ……! しつこい女狐が!」 ――レッドが唸る。


 背後からタナチャイのSUVが、徐々に距離を詰め、まるでバンパーに噛みつくように迫る。


 ――パァン! パァン! 再び銃声が轟く。


 弾丸がリアウィンドウを突き抜け、フロントガラスを貫いた。


 リサは頭を抱えてうずくまり、今度は本気の悲鳴を上げた。


「リサ! 頭を下げていろ!!」


 坂本はリサの頭を押さえ、バッグの中から遂に拳銃を取り出し、ホルスターを肩に固定する。


「まさか、こんなところで拳銃を抜くことになるとはな……ったく」


 その目は冗談を許さぬほど真剣だった。


 彼は後部座席から身をひねり、迫り来るSUVのエンジン部を狙って引き金を引く。


 弾丸はラジエーターを貫き、白い煙が勢いよく噴き出した。


 タイヤが悲鳴を上げて横滑りする。


 ニーナは急カーブの下りを泥水を巻き上げて、増水した激流へ突っ込んだ。


 水しぶきがフロントガラスを叩き、視界を奪う。


 だが彼女はアクセルを緩めない。


 白煙を吹き出しながらも、レッドが執拗に猛進してくる。


 しかし濁流の中央で、レッドの車は急に失速し、車体が大きく傾いた。


「畜生! くそっ!」


 必死にハンドルを切るが激流に押し流され、車体は白煙を吐きながら下流へと流されていく。


 坂本が後ろを振り返る。


「振り切ったか?」


 ニーナはワイパー越しの前方を見つめ、わずかに唇を噛んだ。


「奴らはまだ諦めてない。次に会う時が奴らの最期の場所になるわ…」


 ニーナ、坂本、リサを乗せたSUVは、霧雨に煙る谷間の、赤い絨毯のような道へと静かに吸い込まれていった。



2.谷に咲く赤いバラ


「……私の故郷よ」


 ニーナはアクセルを緩め、足を静かにブレーキへ移した。


 谷間を渡る風が、仄かな花弁の匂いを車内に運んできた。


 鼻先をかすめた香りは、ニーナの深い記憶を呼び覚ますかのようだった。


 視界が徐々に開けると、真紅の野バラが一面に咲き誇っていた。


 燃えるような赤が谷を覆い尽くしている。


 坂本は思わず息を呑む。


「……バラ? ここが “北方のバラ” の由縁なのか?」


 ニーナは小さくうなずいた。  


 それは彼女の悪夢の記憶そのものだった。


 ニーナは錆びた鉄条網の柵の前でエンジンを切った。


 坂本とリサも車を降り、周囲を見渡す。


 鉄は年月に蝕まれ、ところどころ崩れ落ちていた。


 鉄柵の向こうには赤い野バラの絨毯が広がり、その奥に白壁の剥がれ落ちた建物が影を落としていた。


「……ここに、私たちは連れて来られたの」


 しかし、朽ちた廃墟の奥に、少女の影はもうない。


 そこに積み上がっていたのは、麻薬、武器、資金洗浄で得た金塊…


 闇の取引が生み出した“価値”の塊だけだった。


 ――時代は移り変わった。


 かつて生身の悲劇が絶えなかった場所は、より巨大で、より冷徹な闇が静かに支配していた。


 ニーナの首筋の蜘蛛の刺青に過去の記憶が絡みつく。


 “過去は消えない。でも、今も同じ闇がここにある”


「坂本。あんたたち警察が目を逸らす限り、人の悲しみは終わらないのよ」


 その一言が坂本の胸を深々と刺した。


「……わかった。警視庁にすべて報告する。必ずだ」


「それで終わると思う?」


「ニーナ……まさか、お前——」


 ―沈黙。


「君は手を出すな。いいか、ここからは俺たち警察に任せろ」


「警察は助けてくれなかった……」


 ニーナが冷たく視線を逸らす。


「でも、ニーナ。あなたにはこれ以上罪を犯してほしくないの!」


 リサは慎重に言葉を探し、諭すようにニーナに言った。


「いいえ、私のやり方で終わらせる…」

 

 ニーナは低く呟き、手に取ったバラの花びらをフッと吹き飛ばし歩き出した。


 ニーナ、坂本とリサの三人が、廃墟のような建物の前に立つと、カビ臭い湿った匂いが壁を伝い漂ってきた。


 不穏な深紅の罠が、その背を追う坂本の胸にじわりと絡みつくかのように。


 その時、痩せた手で鍬を握り、赤いバラを摘んでいた一人の老人がゆっくり顔を上げた。



3.老人とバラの記憶


「ああ……」


 老人は腰に付けたタオルで額の汗を拭った。


「‥‥‥いつかは来ると思っていたよ、ニーナ」


 その微笑みには、深い哀しみが滲んでいた。


「タオ爺さん?……私のこと、覚えているの?」


「もちろん、覚えてるさ。お前さんは……泣きながら、他の少女たちを守ろうとした子だ」


 ニーナの肩が震える。


「タオ爺さん……」


「子どもたちを守るため、何度も部屋を開けようとしたが……わしは弱かった。すまんな……お前も、お前の両親も助けられんかった」


 坂本とリサは互いに目を合わせる。


 老人の背後には、錆びた檻の扉がいくつも並び、過去の悲しい影を浮かべていた。


 タオ爺は立ち上がり、腰に下げた錆びた鍵束に手を添えて話し出した。


「わしはいまもこの地で庭師として雇われておる。ここを離れることはできん。バラの世話をするたび、あの頃の少女たちの悲痛な声が、今なお耳にこびりついて離れんのだ…」


 彼は摘んだ真紅のバラを指先で撫で、低い声で続けた。


「プラサート将軍は、この収容棟を使って少女たちを売り飛ばした。貧しい山の村から連れて来られた子らは、泣き叫んでも誰も助けてはくれなかった。将軍は金と権力のために、子どもたちを商品にしたんだよ」


 老人の目が赤く濁り、怒りと悔恨が交錯する。


「やがて時代は移り変わり、人身売買は姿を消した。しかし、この場所は今もなお闇の倉庫だ。薬物や武器、資金洗浄で手に入れた金塊……将軍の裏社会の力はまだ衰えていない」


 蜘蛛の刺青が汗に濡れてニーナの首筋に浮かび上がる。


「……ここがすべての始まりだったのよ」


 タオ爺は静かに頷き、ニーナの耳元で囁いた。

 

「将軍は邸宅にいる…だが、命は無駄にしちゃいかん」



4.坂本とリサの覚悟


 坂本がノートを取り出して改めて確認を始めた。


「ニーナ、つまり、あのUSBに記録されているのは……」


 坂本はニーナの一言一句を漏らさずに、メモに書き留めていく。

 

「村瀬から奪ったUSBの記録には、将軍と警察の闇社会の犯罪の証拠がすべて詰まってるわ。売られた少女たちの名簿、政府役人や警察幹部との取引の記録、そして麻薬、武器や金塊の流通経路まで……」


 それは村瀬が秘密裏に抜き取っていた、日本とタイの犯罪組織の極秘情報だった。


 坂本は首を傾げ、


「ところで、そのUSBは、ニーナ、君が持っているのか?」


 ニーナは顎でリサを指して、


「あんたの可愛いパートナーのポシェットの中よ…」


 リサの肩が大きく震えた。


「え……? わ、私の……?」


 慌ててポシェットを抱きしめ、恐る恐る中を探る。


 指先が硬い感触をつかんだ。


 取り出したのは黒い小さなUSBメモリ。


 ニーナは視線を逸らさずに言う。


「それよ…兄が死ぬ直前、あなた達に託したのよ」


 リサの目が見開かれる。


「ソムバットさんが……?」


「そうよ、兄は坂本を車内へ案内したとき、村瀬を追っている日本の刑事だと知ったの、それであなた達は信用できると言ったの…」


 タオ爺がバラの茂みの奥を指差し、重い声で言葉を挟んだ。


「警察も将軍と深く結びついている。奴らがその証拠を握りつぶせば、闇はさらに深くなる」


「……あの男の屋敷へ続く道が、この奥にある。だがな‥‥‥」


 老人は摘んだ赤いバラを静かに地面へ落とした。


「……生きて帰れる保証はない、ってことね」


 リサが応えると、坂本は持っていた野バラの棘を一つちぎり取った。


 “組織の頂点が誰なのか……この目で確かめたい”


「リサ、君は物陰に隠れて動画を撮り続けろ。これは国際犯罪の証拠になる」


 リサは慌ててUSBをポシェットにしまい、返事をした。


「わ、わかったわ……任せてよ」


 坂本は続けた。


「ニーナ、君は手を出すな。俺たち奴らの罪を暴く。奴らを法律で裁くんだ…」


 ニーナの首筋の蜘蛛の刺青に汗が浮かぶ。


「法律? そんなの通じない相手なのよ」


 坂本は一歩踏み出し、声を強めた。


「ダメだ、無茶をするな。俺たちは君を守りたい!」


「……好きにすれば」


 悪夢の記憶が蘇る――売られた夜、閉ざされた鉄扉、届かなかった声。

 

 ニーナの声は氷のように澄んでいた。



 赤いバラの絨毯の奥には、冷たい鉄とコンクリートの匂いが漂っていた。


 赤茶けた鉄の扉の前に立ち、タオ爺は低く問う。


「本当に行くんだな‥‥‥?」


 タオ爺の掠れた声が薄暗く湿った通路に響き、三人の胸に重く響いた。


 坂本は顎を引き、リサは唇を固く結び、ニーナはわずかに息を整える。


 誰も言葉を返さず、ただ、同じ緊張の糸に結ばれたように、三人は同時に頷いた。


 タオ爺は腰に下げた合鍵を差し込み、錆びた鉄の塊を押し開ける。


 ――ギィイイイイ。


 鉄扉の軋む音が、全員の心臓の鼓動に被る。


 その先に現れたのは、瀟洒な大理石の階段だった。


 白亜の豪邸へと続く階段に、冷たく鈍く響く靴音。


 ニーナは、革ジャンの内ポケットから小さな拳銃を取り出した。


 女性の手に収まるほどの軽い銃身が、冷たく指先に馴染む。


 坂本は肩のホルスターに納めた拳銃を確かめる。

 

 重みのあるリボルバーの感触が、彼の覚悟を静かに支えていた。


 大理石の階段を一段ずつ踏みしめるごとに、張り詰めた緊張感が増していく。


 階段を上りきると、豪奢なロビーの天井にはシャンデリアが燦然と輝き、磨き上げられた大理石の床は鏡のように彼らの姿を映し出していた。


 その中心に、待ち受ける影が二つ。


 タナチャイ警部。


 ―鋭い眼差しを光らせ、腕を組んで立つ男。


 その背後には、無言で睨みを利かせる部下のレッド。


 空気が凍りつく。


 眼前に現れたのは過去の亡霊ではなく、現実に立ちはだかる敵の影だった……。


 (第7話に続く)

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