第5話 追跡
1.桟橋の対峙
坂本とリサを乗せたトゥクトゥクが、橋に差しかかった。
リサが息を呑み、橋の対岸を指差して叫んだ。
「坂本さん……! あそこよ!」
風を切る三輪の、軽いエンジン音の中、坂本の視線が川沿いへ落ちる。
橋の下に小さな木造の桟橋が見えた。
チェンマイ中心街を囲む堀の外、ピン川に沿う「花市場」の対岸。
土手の木々の陰に“ルア・ハンヤーウ”(*)が一隻係留されている。
(*)ロングテール・ボート: 紐を引いてかける小型エンジン付き。運河ツアーや水上マーケットでよく使われる。スリムな船体で狭い水路を走る 庶民の足として、また、観光客の川クルーズでも使う。
ニーナの乗ったバイクが、砂を巻き上げながら、桟橋前に滑り込んで止まった。
彼女は跳ねるように飛び降り、落ち着かない様子で周囲を確かめている。
「ここで止めてくれ!」
坂本がドライバーの肩を叩くと、トゥクトゥクはきしむ音を立てて急停止した。
二人は欄干を跨ぎ、そのまま土手へ飛び降りる。
川沿いのゲストハウスのベランダ脇を駆け抜け、砂利を爆ぜながら斜面を滑り降りた。
朝霧に煙る、チェンマイ北部の山並みが遠くに連なっている。
ゆったりとした川面には、濃い水の匂いだけが漂っていた。
朽ちかけた杭に繋がれた一隻の舟が、まるで息を潜めるように佇んでいる。
乾いた草の隙間から、坂本はニーナの動きを見つめた。
彼女は落ち着かず、何度もスマホを見ては顔を上げる。
「誰かと合流するのか、そんな動きだな」
坂本が低く呟くと、リサが訊いた。
「でも……誰と?」
答えは次の瞬間、砂煙とともに現れた。
黒いSUVが船着き場へ乱暴に止まり、ドアが弾けるように開く。
降り立ったのはタナチャイ警部、続いてレッド。
そして、顔にあざを作ったソムバットが引きずり出された。
レッドの銃口が彼の腹に押し付けられている。
「……どうして? あれは、車掌のソムバットじゃ……?」
リサが押し殺した声を漏らした。
ソムバットは、草の間から見つめる坂本の方へ微かに目を向け、唇を震わせる。
「ニーナ……すまない。兄さんは……」
だがその言葉を遮るように、タナチャイ警部の怒声が桟橋に響き渡った。
「ニーナ! USBを渡せ。お前の兄の命と引き換えだ。それとも——村瀬殺しの容疑で、この場で逮捕してもいいんだが。さぁ、USBを渡せ!」
ニーナが一歩、後ずさった。背後には一隻のボートが繋がれている。
「なんのことよ……私は村瀬が死んだこととは関係ないわ‥‥‥」
落ち着いた声でニーナは答え、また一歩後ずさった。
レッドが無言のまま前に出で、腰のホルスターに軽く触れた。
そのわずかな仕草—— 坂本は草むらの陰からその一瞬を捉えた。
(なんだ、奴ら、警察じゃなかったのか‥‥‥)
タナチャイ警部の声が続いた。
「村瀬が死ぬ前に、お前と会っていたのは分かっている」
レッドの拳銃がソムバットの腹に押し当てられる。
「USBを出せ。さもないと——お前の兄貴の腹に穴が開くぞ」
リサの肩が震えた。
「え……兄貴? ソムバットはニーナの兄さんなの……? 坂本さん、どうするの、あなた刑事でしょ……!」
坂本は短く息を吸い、視線は一ミリも動かさない。
「くそ、奴らやっぱり裏の組織と繋がってたんだ……警察の仮面をつけた悪党が!」
言葉を終えるより早く、坂本の身体が草むらから躍り出た。
斜面を踏みしめ、船着き場へ向かって一直線に駆け下りる。
「坂本さん!」
リサの叫びは、川風にあっけなくさらわれた。
タナチャイ警部がこちらを見て目を見開く。
「来るな、坂本! これはお前の案件じゃない!」
レッドの指先がホルスターに掛かる。
銃を抜く直前——
その隙を裂くように、ソムバットがレッドを突き飛ばした。
弾ける砂利、揺れる桟橋。
レッドの体勢が崩れた一瞬、ソムバットはニーナへ駆け寄る。
「逃げるぞ、ニーナ!」
彼は彼女の腕をつかみ、背後の舟へと飛び降りた。
「畜生ッ!」
バランスを取り戻したレッドが銃を抜き、
——パァン!
弾丸が杭を砕き、木片が川に散った。
その瞬間、坂本はリサの手を取って桟橋へと駆け出す。
「坂本さん、え? なに? 撃たれるわよ……!」
リサの悲鳴のような声がレッドに聞こえ、銃口が坂本に向いた。
タナチャイ警部が険しい表情でレッドの腕を掴む。
「馬鹿な真似はするな! 奴は日本の警察官だ!」
ソムバットはニーナと舟に飛び移ると、同時に縄をほどき、スターターロープを一気に引き抜いた。
――ブオンッッ!!
低く濁った排気音が川面に響き、あたりの水鳥が一斉に飛び立った。
2. 追跡
「リサ、急げ、舟に飛び乗るんだ!」
坂本が叫ぶ。
「えっ、これ動くの!?」
「文句はあとだッ!」
坂本はリサを押し込むように舟へ乗せ、自分も飛び乗った。
乾いた音とともにエンジンが咳き込み、黒い煙を吐き出し、四人を乗せた舟は水面を滑るように加速していった。
タナチャイ警部は、舌打ちしながら黒いSUVに乗り込み、レッドに叫んだ。
「追うんだ、見失うな!」
黒いSUVが急発進し、タイヤが砂利を巻き上げ、川沿いの道を追跡し始めた。
「並走して来てる! これ、追いつかれるよ!!」
リサが青ざめて叫んだ。
ソムバットは舵棒を握りしめ、舟を川の中央へ向けて滑らせる。
言葉が終わるより早く、SUVが荒れた路面を大きく跳ね、全速で追ってきた。
舟とSUV――水上と陸上の、二手に分かれた逃走劇が始まった。
ソムバットが速度を上げると、リサは転げそうになりながら船縁を掴む。
ピン川の上流を目指し、うねりながらハイウェイの高架下へと向かって行く。
水しぶきが容赦なく顔に叩きつけられ、リサは身を伏せる。
「坂本さん、あそこ!!」
坂本が土手の方を見ると、川沿いの開けたところタナチャイ警部のSUVが目に入った。
ソムバットは舟のエンジンを全開にし、蛇行する川を危険な速度で突っ走る。
坂本は揺れる舟の後部に踏ん張り、迫ってくるSUVを睨みつけた。
前方に、河川工事のフェンスが突然現れた。
「ここからは行けない! ——降りるぞ!」
その瞬間、銃声が川面を裂いた。レッドがソムバットを狙って撃った。
――パァンッ!
ソムバットの両腕に赤い飛沫が散った。
「ソムバットさん!!」
リサが悲鳴を上げる。ソムバットが血のにじむ腕で舵棒を握る。
舟が砂地に乗り上げ、勢いを失った。
ソムバットは痛みに顔を歪めながらも、迷いなく岸へ跳び降りる。
「乗り換えるぞ、急げ!!」
川沿いにある、市内でも有名なカオソーイ(*)レストランの駐車場、観光客の鍵のついたままのSUV が一台。
(*)カオソーイ:タイ北部チェンマイを代表する料理で、ココナッツミルク入りのカレースープに卵麺を合わせ、茹で麺と揚げ麺の両方を楽しめるカレーラーメンです。
「ごめんなさい、ちょっとお借りします!」
リサと坂本は、血まみれのソムバットを両肩で支えながら、後部座席に座らせた。
ニーナが息を切らせながら乗り込み、アクセルを踏み抜いた。
タイヤが砂煙を爆発させ、車体が川岸の道からハイウェイへと飛び出す。
坂本は後部座席で跳ね上げられながら、必死でシートにしがみついた。
「頼むから、安全運転してくれよ!」
バックミラーには、タナチャイ警部のSUVが、サイレンを鳴らしながら猛然と迫っていた。
ニーナの運転する車は、チェンマイ北部のハイウェイを降りて、国道を猛スピードで走り抜けていく。
やがて、チェンマイ大学、チェンマイ動物園の前を通り過ぎ、地図にない林道へと進んでいく。
激しい追跡を続けるタナチャイ警部の車の前に、道路を横切る水牛の群れが現れ、黒い壁のように進路を塞いだ。
レッドが急ブレーキを踏み、ハンドルを叩き悔しがった。
「……もういい。行先は分かっている」
タナチャイ警部がぽつりと言い、サイレンを止めた。
3. 森に沈む涙
ニーナは急斜面へと続く未舗装路にハンドルを切り込み、SUVは森の闇へと滑り込ませた。
陽の光がまばらに差し込む、生い茂った森、枝葉が車体を叩く。
「ニーナ、もう追手は来ない、車を停めてくれ‥‥‥」
ソムバットは息を詰まらせると、身体をシートに横たえた。
「ソムバットさん!?」
リサが悲鳴に近い声を上げて肩を支える。
ジャケットの胸元が赤く染まっていた。
レッドに撃たれた弾が、深く致命的に彼を貫いている。
ニーナは車を木陰に停めると、坂本は後部座席のソムバットを抱え、乾いた落ち葉の上へ横たえた。
ソムバットの胸から溢れる血が、坂本の手のひらに温かく広がる。
森は不気味なほど静かだった。さっきまでのエンジン音やサイレンが嘘のようだ。
「……大丈夫、大丈夫だから……!」
リサは震える手で傷を圧迫しながら、必死に言葉を絞る。
しかし、ソムバットは首をゆっくりと横に振った。
かすれた息、遠のく意識。
「……しくじったなぁ」
ニーナはその横に膝を落とし、震える声で兄の名を呼んだ。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……!」
ソムバットの瞳が揺れ、ゆっくりニーナを捉える。
「ああ……ニーナ……お前は無事で……よかった……」
彼の唇が微かに動いて、坂本へ向けてかすれた声が漏れた。
「……坂本刑事……あなたには……言っておくべきだ……」
坂本は息を呑む。
「ニーナが……村瀬からUSBを奪って……復讐するかもしれない……予感があったんだ……」
「え……? 予感……?」 ソムバットは、途切れ途切れに続ける。
「だから……あの日……俺は……乗務のシフトを……同僚に代わってもらった……」
坂本とリサが息を呑む。
「バンコクを出るときから……全部、分かってた……9列車に乗り込んだ“レディボーイ”が……ニーナだってことも……」
リサが目を丸くする。
「えっ……ニーナ、最初から……?」
ソムバットは弱く笑った。
「俺が気づけないわけ……ないだろ……妹を……誰よりもずっと……見てきたんだ……でも止めることができなかった…」
その言葉を聞いた途端、ニーナの目に涙が溢れ始めた。
幼いころ、闇に売られた自分を、兄だけが探し続けてくれた。
両親が殺されてから、一人で自分を闇の世界から守り続けてくれた。
ニーナの喉から押し出されるような声が漏れる。
「お兄ちゃんは……いつも……どんなに遠くにいても……私を見守ってくれた……!」
ソムバットの瞳にかすかに光が宿る。
「USBは……心配するな……信頼できる場所に……」
息を絞り出し、坂本の手を強く握った。
「坂本さん…あなたは信用できる…ニーナ、妹を頼む…」
その手の中には――小さな紙切れに書かれた暗号キーが残されていた。
「わかった……あなたのやったことは決して無駄にしない」
坂本が固く頷いた。
ソムバットは微かに、安堵したように笑い、震える指で妹の頬に触れようとする。
「ニーナ……俺の代わりに……生きてくれ……」
指先が空を切り、力なく落ちた。
ニーナは崩れ落ち、胸に顔を伏せ、押し殺した悲鳴を上げる。
坂本は拳を握りしめ、リサは唇を噛み、涙をこぼした。
落ち葉が一枚、静かに舞い落ちた。
暗い森の湿った匂いが、胸の奥まで沈んでいく。
ニーナは、優しかった兄の頬を撫でながら、微かに肩を震わせている。
追跡を振り切ったものの、その代償はあまりに重かった。
タナチャイ警部の捜索隊が、いつ追い付いてくるか分からない。
ここに長く留まることはできなかった。
「ニーナ……行こう。ここにいたら、兄さんの死が無駄になる」
ニーナはソムバットの耳元で囁いた。
「兄さん、さようなら……」
森の中の一本道は、風も止まったような静けさに包まれている。
坂本は血まみれの暗号キーを握りしめたまま、深く息を吸った。
この瞬間、彼がニーナを逮捕すれば、村瀬の殺人容疑で拘束できる。
それは刑事として、最も“正しいやり方”だった。
リサもそのことを分かっていた。
不安に揺れる目で、坂本の横顔を見つめる。
ニーナはゆっくりと車のドアを開け、小さい息を吐いた。
涙で濡れた目は決意に光り、震える声で言う。
「……私を逮捕したいなら、今ここですればいいわ」
坂本は眉をひそめる。
ニーナは続けた。
「でも、その前に――もっと悪い奴らのところへ案内してあげる」
「USBを欲しがってる連中よ。私を追ってきたタナチャイだけじゃない……彼の“後ろ”にいる化け物よ……」
坂本は唇を噛んだ――背筋を冷たいものが走る。
(タナチャイは追跡してこなかった……ニーナの行先を知っているのか?)
ニーナは運転席に乗りキーを回した。
「私の両親を殺した本当の悪党が誰なのか……あなたたち、まだ知らないでしょ」
リサは息をのむ。
村瀬の死から、タナチャイ警部の執拗な追跡……
―すべてが一本の線でつながり始めている―
しかしまだ、真相は闇の中だ。
坂本は暗号キーが書かれた紙きれをポケットにしまい、車に乗り込んだ。
「……わかった、今はまだ逮捕はしない。だから俺たちも一緒に行かせてもらう」
リサが驚いて坂本を見る。
「坂本さん……!」
「真相にたどり着くまでは、ニーナと共に行動しよう、ニーナの逮捕はそのあとでいい」
ニーナはわずかに目を伏せ、アクセルを踏んだ。
(……兄さん、もう少し見守っていて……必ず終わらせるから)
遠くのハイウェィから、サイレンがこだまのように響く。
ニーナの眼に女豹のような鋭さが宿った。
「ふふふ、ここからが本番よ……」
ニーナはサイレンの音を遠ざけるように、深い闇の入り口へアクセルを踏み込んだ。
(第6話へ続く)




