第4話 消えた12号室
1.食堂車の密会
―午前6時20分
列車は、深い森と切り立つ渓谷のあいだを縫うように北へ走っていた。
やがて、朝霧に煙るチェンマイの盆地が、窓の向こうにぼんやりと広がり始める。
タナチャイ警部は部下のレッドを伴い、食堂車の隅のテーブルに腰を下ろした。
二人の前には、湯気を立てるホットコーヒー。
その揺らめきが、列車の微かな振動に合わせて踊っている。
クンターン駅でレッドに買わせた熱々のパータンコーを、タナチャイは紙袋から取り出し、無造作にちぎってコーヒーへ沈めた。
(※パータンコー:小麦粉の生地を二本重ねて揚げたタイ風揚げパン)
彼はポケットから、透明な袋に入った腕時計を取り出す。
壊れたロレックス――針は午後7時55分で止まっていた。
「……午後7時55分だ」
タナチャイは独りごとのように呟く。
「村瀬が毒を盛られ、暴れた拍子に壊したとすれば、我々がアユタヤ駅で乗り込んだ午後8時には、すでに死んでいたことになる」
向かいのレッドが息を呑む。
タナチャイは目を細めたまま、静かに続けた。
「村瀬が“午後10時に会おう”と言った相手……ハンサ? いや、違う。間違いない――あれは村瀬の情婦、ニーナだ」
「公安の報告では、午後10時に村瀬の個室で会う人物が、麻薬取引の情報を持っているとされていた。午後10時になれば二人を同時に拘束できるはずだった……」
彼はコーヒーを一口啜り、低く言った。
「だが、殺害されたのはその二時間も前だ…」
再び時計を見つめる。
「……つまり、村瀬の“午後十時”は、タイ時間の“午後八時”。村瀬は日本を出ても時計を直さず、そのまま使っていた。自分の癖が、死の罠になったわけだ。」
小さく息を吐き、タナチャイは呟いた。
「この“時差のトリック”を利用できるのは――ニーナ。村瀬を知り尽くした、彼女しかいない」
鉄橋を渡る音が、タナチャイの声を打ち消すように轟音を響かせた。
遠くの山肌に立つ、大きな仏像を眺めながら、彼は少し力を込めて言った。
「ナコンサワンを出たあと、俺はディオに命じた。ニーナからUSBを奪い返せとな。あの中には、プラサート将軍に関する極秘データがすべて入っている…」
レッドは熱々のパータンコーを齧りながらもぐもぐと口を動かしながら頷く。
「あの女がそれをインターポールに渡せば、我々は終わりだ。」
――そのディオが、列車から忽然と姿を消した。
レッドがようやく口を開いた。
「……警部、まさかディオがUSBを持ち逃げしたとか……」
タナチャイはフンと鼻を鳴らして、レッドからパータンコーを取り上げて言った。
「馬鹿者、その逆だ…ディオも消されたんだろう」
そしてカップの底に残った黒い液体を飲み干した。
―午前6時22分
車掌が寝台をたたみ始め、乗客たちが次々と身支度を整えるころ、リサは坂本を誘い食堂車へ向かった。
リサは視線を泳がせながら、店員に軽く会釈し、空いているテーブルを探すふりをした。
だが、目はすでに一点、奥の席に座るタナチャイ警部へと向かっている。
食堂車の隅、タナチャイ警部とレッドが腰を下ろし、何やら真剣な表情で話し込んでいる。
テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと、透明な袋に入った腕時計。
リサと坂本はタナチャイ警部のテーブルの対角線の隅のテーブルに腰を下ろした。
平静を装い、タナチャイ警部に背を向けるように座り、坂本に注文を促した。
坂本はテーブルに置いてあるメニューを見ながら、店員を呼んだ。
「これとこれを」
坂本はメニューにある、サンドイッチとアイスミルクティー(*1)の写真を指差した。
「じゃあ、私はカノム・ジープ(*2)にするわ、それとコーラね。」
(*1)タイ語でチャーノム・イェン。コンデンスミルクをたっぷり使った甘いミルクティー。オレンジ色のような見た目が特徴。
(*2)タイ風シューマイ。海老のすり身などを黄色い皮で包んで蒸したもの。
坂本は思わず苦笑して、リサのコーラのボトルを指さした。
「朝からコーラか……?」
リサは肩をすくめ、あどけない笑みを浮かべた。
「タイじゃ普通よ。甘いものがないと目が覚めないの。」
(……それにしても、タイの人たちは本当に甘いものが好きだな…)
普通の食事にも平気でコーラ……日本人の感覚では少し奇妙に思えるが――
ここでは、それが“日常”なのだ。坂本はミルクティーを一口啜る。
濃厚な甘さが、舌の奥にまとわりついた。
「ねえ、坂本さん……」
リサの声がふいに低くなる。
「奥のテーブル……あの二人よ」
坂本の視線が、ゆっくりと彼女の指す方向へ向かった。
リサは囁くように言った。
「アユタヤから乗って来た三人の公安警察。そのうちの一人、サングラスの男がいないわ」
坂本はさらに声を潜めた。
「……ディオ、か」
「ええ。チェンマイに着いたら、村瀬殺害とニーナの事情聴取について話し合うつもりなのかもしれないわ」
坂本は静かに息を吸い、外の風景を撮るふりをして、その会話に耳を傾けた――
タナチャイと部下のレッドの会話は、内容までは聞き取れないが、時おり漏れる「USB」「ニーナ」「ディオ」「車掌ソムバット」という単語が、二人の耳を鋭く打った。
「やっぱり、村瀬の線を追ってるようだな……」
「それだけじゃないわ、」
坂本は身を乗り出してリサに顔を近づけた。
「それだけじゃない?……どういうことだ?」
そのとき、タナチャイがゆっくりと立ち上がり、振り返った。
彼の鋭い目が、まっすぐリサを射抜く――わずかに目が合った。
「……おやおや、リサ君じゃないか」
タナチャイは唇の端をわずかに上げた。
「こんなところで会うとは珍しい。若い男性とご旅行ですか?」
リサは息を呑みながら微笑みを作る。
「いえ、非番でチェンマイへ里帰りです……こんなところで警部にお会いするとは」
タナチャイは一歩近づき、坂本に視線を移した。
「そして……そちらの紳士は?」
坂本は静かに椅子から立ち上がった。
「坂本です。鉄道旅行誌の取材で日本から来ました。この彼女とは、たまたま座席が隣り合わせで…」
坂本は照れ笑いを浮かべ、咄嗟に嘘をついた。
タナチャイはしばらく二人を見つめ、やがて穏やかに笑った。
「……なるほど。そうでしたか、では、こちらの女性の通訳は、さぞ役に立つことでしょうね」
ただ、レッドが警戒の眼差しを坂本に向けている。
坂本は落ち着いた声で応じた。
「彼女の日本語はとても上手ですね、車内の取材も助けてもらっています…」
タナチャイはその言葉に一瞬だけ笑みを消した。
タナチャイは腕時計をポケットに戻すと、短く息を吐いた。
「――チェンマイまで、まだ少し時間があります。どうぞごゆっくり」
その声は穏やかだったが、どこかに冷たい響きがあった。
軽く帽子のつばに指を添え、形式的な敬礼をしてから、タナチャイは踵を返した。
レッドが無言で後に続く。
二人の背中が、食堂車のドアの向こうに消えると、坂本はようやく小さく息を吐き、
「……危なかったな」 と、呟いた。
リサは、まだ心臓の鼓動を抑えきれないまま頷く。
「気づかれたと思った……あの目、やっぱり警部はなんだか怪しいわ…」
坂本は黙って窓の外に目をやった。
遠くに、朝霧の薄れた山影が見える。
「――“USB”って言葉、確かに聞こえたな」
坂本の声は低く、慎重だった。
2. ランプーンの朝
―午前6時55分
定刻より五分遅れて、9列車はランプーン駅に滑り込んだ。
スーツ姿の日本企業の駐在員らしき二人が降りていく。
バンコク出張の帰りなのだろう、会社の制服を着た運転手がホームで待ち構え、慌ただしく車へ乗り込んでいった。
ランプーンは、かつてラーンナー王朝の都として栄えた古都のひとつ。
だが今では、郊外に広がるランプーン工業団地が北部経済の一端を担っている。
1990年代以降、日本の自動車や電子部品メーカーが次々と進出し、周辺には駐在員住宅や日本食レストランも建ち並ぶ。
いまでは数百人規模の日本人コミュニティが形成され、この街に新しい生活のリズムをもたらしていた。
駅前には青いソンテウ(*)が数台、エンジンをかけたまま客を待っている。
(*)小型トラックの荷台を改造した乗合トラック。地方では欠かせない庶民の足。
制服姿の学生たちが笑いながらソンテウに乗り込んでいくと、遠くで寺院の鐘が鳴り、汽笛がそれに応えるように低く響いた。
―午前7時13分
やがて列車がゆっくりと動き出す。
職場や学校へ向かう、踏切待ちの数台のバイクが、朝の光の中で列車の通過を見送っている。
坂本は腕時計に目を落とし、深く息をついた。
「……ここからが本番だな」
荷物をまとめながら、リサは小さく頷いた。今朝、食堂車で耳にしたワードが、二人の頭から離れなかった。
9列車の乗務員室では、車掌ソムバットが静かに制服の襟を正していた。
*
列車は国道に寄り添いながら、ゆるやかに北へと進む。
ジョギングする人影と歩調を合わせるような、どこか疲れを帯びた速度で、終着駅チェンマイを目指す。
やがて辿り着くのは、山々に抱かれた“北方のバラ”と呼ばれる古都チェンマイ。
1296年にラーンナー王朝の都として生まれ、城壁と堀に守られた旧市街には、古寺の鐘が今も響く。
伝統工芸や祭りが息づき、約170万人の人々が暮らす北部の拠点都市。 その背後にはタイ最高峰ドイ・インタノンがそびえ、乾いた季節には涼やかな風が旅人を迎える。
列車は、まるでこの古都の悠久の時間に寄り添うように、レールの軋みを抑えながら、ゆっくりとチェンマイ駅に差し掛かった。
9列車はチェンマイ駅を目前にした構内手前で、引き込み線から滑り出てくる貨物列車の退避待ちとなり、ゆっくりと速度を落として停止した。
―午前7時23分
その静けさを破ったのは、金属が弾けるような扉の音だった。
《ガチャン》
12号室の扉が勢いよく開き、ニーナが飛び出した。
黒の革ジャンにブルージーンズ、そして黒のレザーブーツ。
彼女はすかさず最後尾の非常扉を開けて、線路へ身を投げるように飛び降りた。
(……絶対に捕まらない。ここで終わらせるわけにはいかない──)
線路脇の食堂の前で、客待ちをしていたバイクタクシーの運転手たちは、あっけにとられ動きを止めた。
ニーナはその一台に駆け寄り、シートに跨がるや否や声を張り上げた。
「急いで! どこでもいい、走って!!」 運転手は一瞬あっけに取られたが、すぐに陽気な笑みを浮かべる。
「任せな、美人さん!」
エンジンが咆哮し、バイクは砂埃を巻き上げて市街へと向かって加速した――
ちょうど荷物を手にして降りる準備をしていた坂本とリサ――。
そのとき、リサが窓の外を指差して声を震わせた。
「あれ…ニーナじゃない!?」
窓越しに黒い革ジャンの女が、バイクの後部にしがみつきながら、走り去っていくのが見えた。
「非常扉が……あそこから逃げたんだ。行くぞ!」
坂本とリサはリュックを背負い、二人で最後尾の非常扉から線路へ飛び降りた。
たまたま通りかかったトゥクトゥクを手で制し、勢いのまま乗り込む。
「今走っていった黒い革ジャンの女のバイクを追って! ねぇ、急いで!」
運転手は驚きながらも、アクセルを踏み抜いた。
トゥクトゥクは軽い車体をプルプルと震わせながら、バイクの残した灰煙を追った。
後輪が跳ね、トゥクトゥクは一気に加速した。
前方には、遠ざかるバイクの排気の白い筋。
リサは振り落とされそうになりながらも叫んだ。
「もっとスピード出して!! あの女に追いついて!!」
トゥクトゥクはカーブで横転しそうなほどスピードを上げる。
(ニーナ……どこへ向かっているの?)
リサの胸に、不安と焦燥が入り混じっていく。
坂本は座席の手摺につかまりながら大声でぼやいた。
「リサ、お前とくるとなんでいつもこうなるんだよ!ったく!」
―午前7時25分
タナチャイ警部はレッドに命じてニーナの部屋へ向かわせた。
「レッド、12号室だ。ニーナを連れ出してくるんだ」
すると最後尾の非常扉が開いていることに気づいた。
「レッド、部屋の中を確認しろ、早く!」
レッドは扉をノックもせずに開け、室内を覗き込む。
次の瞬間、目を見開いた… “しまった……逃げられた!”
レッドはタナチャイ警部に叫んだ。
「……タナチャイ警部! ニーナに逃げられました!」
その報告を聞いた瞬間、タナチャイの表情は血の気を奪われたように険しく強張った。
「ソムバットを呼べ!奴が逃がしたに違いない!」
レッドは乗務員室に飛び込み、開口一番ソムバットの胸倉を掴んだ。
「貴様、なぜあの女を逃がしたんだ!金でももらったのか!この野郎!」
だがソムバットは静かに首を振り、落ち着いた口調で答えた。
「いえ、私は最後の車内確認を前方車両で行っていました、なので、到着前に非常扉から人が降りたことには気づきませんでした……」
「ふざけるな、お前があの女を逃がしたんだろうが!」
タナチャイ警部はドスの利いた声を出し、唇を噛みしめテーブルを叩いた。
3. 逃亡と追跡
―午前7時34分
長編成の貨物列車が通過し終える音が、重く構内に響いていた。
構内信号が青に変わり、列車は動き出し、長旅の疲れを労わるようにチェンマイ駅に停車した。
9列車がチェンマイ駅に停止した瞬間、タナチャイとレッドは、まるで弾かれたようにホームへ飛び出した。
タナチャイは携帯を取り出し、怒号に近い声で叫ぶ。
「全署に緊急連絡! 重要参考人の女が逃走中だ。20代後半、黒の革ジャン、バイクタクシーで市街へ向かった。至急包囲網を展開――見つけ次第、身柄を確保しろ!」
その指示が無線に消えていったと同時に、四人の追跡者がそれぞれの方向へ散っていく。
駅構内の空気が一変する。
警備員が走り、無線の声が飛び、チェンマイは一気に“追跡の街”へと姿を変えていく。
――だがそのわずか数分前。
ニーナを追う小さなトゥクトゥクが、国道を北へ向かっていた。
坂本とリサ、タナチャイとレッド、車掌ソムバット、そしてニーナの逃亡‥‥‥
それぞれの思惑が、チェンマイの街でひとつの渦へ飲み込まれようとしていた。
(第5話へ続く)




