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『北のバラに消えた寝台特急』タイ・トラベルミステリー・シリーズ  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


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第2話 王都の鎮魂歌


1.復讐の序曲(レクイエム)


―午後7時55分 


 雨季の雨は途切れることを知らず、夜空を濡らし続けていた。やがて再び勢いを増し、車窓を激しく叩き始める。


 タイ中央部を流れるチャオプラヤ河の本流と、支流のパーサック川に沿うように線路は続いている。だが歴史ある観光地にしては意外に簡素な駅舎だ。


 宵の帳が降りかかるというのに、駅前にはまだ、赤、黄、青、緑――絵の具のような原色をまとったトゥクトゥクが客待ちをしている。運転手たちは、地図やスマートフォンを片手に降りてくる観光客へ向かって、威勢よく声をかけていた。


 駅の西側を流れるパーサック川との間には、ゲストハウスや川エビを焼く屋台、レンタル自転車の店が軒を連ねている。  


 リサは黒いフードを深くかぶった“レディボーイ”の後を追い、列車を勢い降りていき、未だ戻らない。


 彼女の姿が、薄暗い駅の端のフェンスを乗り越えたかと思うと、次の瞬間――赤いスポーツカーが低い唸りを上げ、闇の中へ滑るように走り去った。


 構内の蜜柑色のライトに照らされた時計の針は、午後7時59分を指している。


 出発まで、あと一分。


「いったいどこへ行ったんだよ……まったく」


 坂本が呟いたその時、閉まりかけたドアの隙間から、リサが息を切らせて飛び込んできた。


「急に飛び出して、何をしていたんだ!」 ――坂本の声には苛立ちが混じっていた。


 もしかして、駅前の露店でアユタヤ名物の「*ローティ・サイ・マイ」でも買ってきたのではないかとさえ思ったが、意外な答えに驚いた。


《≪(* タイ・アユタヤ名物。線状の綿あめを緑やピンクのクレープ状の生地で包んで食べる甘いお菓子) ≫》


「違いますよ!私、見たの、あのレディボーイ――いいえ、女よ。黒いフードを脱いで、腰まである長い髪をほどいたの。赤いベンツに乗って走り去ったわ。あの女、絶対に怪しいわ」


 身振り手振りで、大げさに話すリサの頬は興奮で紅潮していた。


 坂本は眉をひそめ、窓越しに駅前の通りを見やった。


”なんだ、買ってこなかったのかよ…食べたかったのに”


 坂本は率直にそう思ったのだが、しかし、こういう時の女の勘は意外と馬鹿にできない――。


 アユタヤ到着の少し前から、今も13号車の一等個室寝台車の通路を行き来する、車掌ソムバットの姿が目に入った。落ち着きのないその挙動に、坂本の胸の奥がざわめく。


 ここからリサの得意な推理が始まった――


 役職は日本語通訳だが、本人は捜査官並みの洞察力を持っている、と思っているはずだ。


「あの女、13号車の最後尾の個室に隠れていたのよ、きっと。でも車掌が気づかないわけがないのに……」  


 リサは早口で言い、13号車の通路に立つソムバットを指さした。


「隠れるってことは……あの車掌が匿っていたってことか?」


「私たちが食堂車にいた午後7時30分ごろ、私が撮ってた動画の前を横切ったのがあの女だったとしたら、13号車へ行って、アユタヤ到着までの25分間、空いている個室に隠れることはできるわ。でも――なぜ?」


「13号車の最後尾には乗降扉がないわ。進行方向側の12号車の扉からしか降りれない。アユタヤでは多くの乗客が乗ってきた。人目を避けるなら……誰かが最後尾の非常扉を開けたとしか考えられないわ」


「じゃあ、開けたのは村瀬か? いや、奴が非常扉の鍵なんて持っているはずがないしな」


「ということは――」


 リサは坂本と顔を見合わせ、同時に言った。


 「車掌だ!」


 二人の声と同時に列車は、静かに拝謁を終えるように、悠久の王都を後にした。



2.赤いベンツの女


 ニーナの携帯の待ち受けは午後7時45分を表示していた。


 村瀬の個室の扉の前―


 黒いフードにサングラス、栗毛色の髪を束ね、深紅の口紅。  


 ニーナは通路の窓ガラス鏡に映った自分の姿を一寸見つめ、深く息を吸い込んだ。  


 ドアを軽くノックをする。


 少しの間のあと、ドアがわずかに開いた。


 隙間から現れたのは、険しい顔の男――村瀬だった。


「おい、誰だ。ルームサービスなんて頼んでないぞ」


 一瞬、警戒の色が浮かんだが、相手を悟ると村瀬の口元が緩んだ。


「……ニーナか? 早いじゃないか。午後十時に来いって言っただろ?」


「あなたの時計、日本時間のままじゃない? いつもそうなんだから……」


 ニーナはふっと笑った。


「そうか、タイはまだ八時だったな。まぁいい、とにかく入れ。ちょうど終わったところだ」


 村瀬は無造作に言い、ニーナを部屋へ迎え入れると、内側からドアのロックをかけた。


 ニーナはアユタヤの寺院遺跡での撮影を終え、私服に着替えてトゥクトゥクに乗って来たのだと話した。その声は軽やかだったが、瞳の奥にわずかな翳りが宿っていた。


 村瀬はバッグから銀色のスキットルと、二つのショットグラスを取り出した。


「どこにいても、日本のウィスキーが一番だな……」


 村瀬はそう言いながら、琥珀色の「山崎」を注いだ。二人のグラスが触れ、澄んだ金属音が静かな部屋に響く。


 村瀬が一口含み、グラスを置くと、ニーナの腰を抱き寄せた。唇が重なり、ニーナの吐息が村瀬の頸筋をなぞる。その甘美な香りは、どこか哀しみの影を纏っていた。


 村瀬が身体を捻り、ベッドの上のパソコンへ手を伸ばしたその瞬間――。


 黒い革手袋をはめたニーナの指先がわずかに動き、白い粉が村瀬のグラスに落ちた。


 ――琥珀色の雫が小さな閃光を放つ。


 村瀬は、「ダウンロード終了」と表示されたパソコンからUSBメモリを抜き取り、ニーナの頬に押し当てた。


「……これが、俺たちの未来だ」 と言ってグラスを手に取り、一息に飲み干した。


 ニーナは紅い唇を村瀬の耳元に寄せ、低く囁いた。


「あなたの未来も…今、終了するのよ」


 次の瞬間、村瀬の顔色がみるみる赤紫に変わる。喉を鳴らし、息を詰まらせながら、虚ろな目でニーナを見た。


「ニーナ……お前……俺を……裏切ったのか……」


 村瀬は胸を掻きむしり、壁を叩きつけ、倒れ込んだ。机の上のグラスが転がり、琥珀の雫が床に散る。左手の腕時計がドアノブにぶつかり、ガラスが砕けた。


 ベッドの上で、村瀬は空を掴むように手を伸ばし――やがて、指先が力なく垂れた。


 村瀬の未来は、虚しい静寂の中に溶けた。


 ニーナは無言のまま、彼の冷えた指からUSBメモリを抜き取り、ドアの施錠を外した。


 村瀬のロレックスは、午後9時59分を指して止まっていた。


 発車ベルが鳴り終わる寸前、ニーナは村瀬の個室を出ると、最後尾の非常扉から身を躍らせた。


「……ありがとう、兄さん――」


 車掌のソムバットは、非常扉の鍵をそっとポケットにしまった。


 列車が「村瀬の死」を知らせるのは“二時間後”のことだった…


 駅の駐車場の片隅に佇む、赤いベンツSLK250の滑らかなボディが街灯に淡く反射する。


 黒いフードが滑り落ち、夜風が束ねられていた栗毛色の髪をほどく。絹糸のような光沢が背をなで、変装を脱ぎ捨てた女――ニーナの素顔を浮かび上がらせた。


 ニーナは滑らかなレザーシートに身を沈め、エンジンをかけた。軽やかな唸りが夜の静寂を破る。  


 列車がホームを離れるのとほぼ同時に、ベンツはヘッドライトを灯し、闇を切り裂くように走り出した。


 アユタヤからナコンサワン駅まで、飛ばせば一時間ほどで着く。


 ―列車より早く着ける。


 フロントガラスを叩く雨音が、車内に流れる哀しいバラードに震える。


 ―記憶の中のあの夜も、同じ雨が降っていた。



3.復讐の決意


 ―まだ十二歳の頃。


 タイ北部の貧しい村で生まれたニーナは、親の借金のために売られた。


「明日からはバンコクで働くんだ」


 そう言って彼女を連れ去ったのは、村瀬の率いる日本人ブローカーと、タイの裏社会で“Redback Spider” (通称・レッドバック)と呼ばれる人身売買組織の男たちだった。


 村瀬は、東南アジア文化交流財団という看板の裏で、少女たちを違法なマッサージ店や外国人クラブへと“輸出”する裏取引の仕掛け人として暗躍していた。


 ―狭い部屋。閉ざされた窓ガラスを叩く哀しい雨の音。 逃げ出すこともできず、ニーナは幾日も辛く寂しい日々を過ごした。


 やがて、娘を取り戻しに来た両親は、村瀬の部下たちに撃たれた。母は血に染まり、父は声を上げる間もなく倒れた。


 ―その夜から、ニーナの世界は希望を失った。


 十六歳のとき、脱走に成功した。だが、逃げた先で再び村瀬に拾われた。


「運がいい女だな…」


 そう言って村瀬は笑い、別の“仕事”を与えた。


 情報収集と、色仕掛けによる潜入工作―― 裏口座、麻薬資金、政治家、警察幹部への裏献金……。 すべての証拠は、彼のUSBメモリに収められていた。


 その存在を知ったとき、ニーナの胸の奥で何かが静かに燃えた。


 ―あの夜の血の代償を、今こそ返す時だ。


 彼を惹き付けるためなら、村瀬の「情婦」となり、どんな役でも演じた。


 化粧を覚え、声を変え、愛のない微笑を作った。  


 “あとは、最後の毒蜘蛛に、一発の銃弾と冷たい微笑みを与えればいい…”



4.ロッブリーの猿


「次の停車駅はロッブリー、到着時刻は午後八時四十分の予定です」


 車内放送が小さく響いた――列車は夜の闇を突き走り続ける。


―午後8時38分


 アユタヤを出発した9列車は、遅れを取り戻すためかなりスピードを上げて、予定よりも早くロッブリー駅に到着した。


 ロッブリー…日本人の旅動画でも“猿の街”として紹介される、クメール王朝からの古い歴史を持つ街。ヒンドゥー教の猿神「ハヌマーン」が神聖視されてきたせいか、猿は「神の使い」として保護され、何千頭もの猿が現地住民との共存を続けている。


 夜中だというのに、駅前の通りには猿の気配が絶えない。


 街灯に照らされた歩道を、毛並みの乱れたボス猿が子分の猿を数匹連れて、悠然と歩いていた。猿に支配された街の人間たちは、その脇を何事もないように通り過ぎる。


 ―まるでこの街の主が誰なのか、暗黙の了解があるかのようだった。


 停車中の車内――。


 リサが「夜食」と称してバッグからポテトチップスを取り出すと、ベッドで書類に目を通していた坂本が眉をひそめた。


「音、立てすぎだろ。静かにしろ!」


「だって美味しいんだもん。いいよ、少しだけならあげる」


「いらねぇよ。しまえよ、猿に盗られるぞ」


 その“パリパリ”という音が、ホームの暗がりに潜む“ギャングたち”に気付かれた。


 窓の外をのぞくと、猿たちがまるで映画でも観ているかのように、じっとこちらを凝視している。


 坂本が「まさか列車にまでは入ってこないだろ」と笑った、その瞬間――


 開け放たれた扉から、一匹の猿が飛び込んできた。


 リサの悲鳴とともに、その切り込み隊長は、リサの持っていたチップスの袋を見事に奪い去る。猿は軽やかに宙を舞い、完璧な着地で袋を抱えたまま、車内を駆け抜けて夜の闇へと消えた。


「えええ、信じられない…私の大切なおやつが…!」


 呆然とするリサの横で、坂本が「……ロッブリー、油断ならんな」と声を出して笑った。


 リサは「ほんとにもう! 今度来たら許さないから!」と真顔で怒った。


 ―猿の街では、夜食すら命がけ…そんな教訓が刻まれた時間だった。


―午後8時46分


 ロッブリーの猿騒動のあと、列車はゆっくりと動き出した。


 すぐ左手の窓に、ぼんやりと影が浮かび上がる。


 それは、トウモロコシを突き刺したような三基の塔を持つ、クメール朝時代の古寺――プラ・プラーン・サームヨート。ロッブリーを象徴するその寺院は、闇の中にひっそりと沈み、まるで二人にその後に起きる、不吉な何かを語りかけるかのように静まり返っていた。


「おい、リサ……それより次の停車駅はナコンサワンだ、 “午後十時” 着だぞ」


 車掌のアナウンスが、低く車内に響く――ナコンサワンまで、あと1時間14分。


 アユタヤ駅から乗り込んできた三人の男――


 タイ公安警察司令部のタナチャイ警部と、部下二人は、2号室と3号室をつなげたコネクティングルームに陣取り、ソムバットにセットされた寝台をまた座席へと変えさせた。


 部屋のドアは開けっ放しにして、時おり10号室の村瀬の個室を確認していた。


 しかし、村瀬の個室のドアは内側から鍵がかけられ、外からは何も見えない。


《≪ 実際には、車掌ソムバットが特殊な鍵で外側から施錠し、あたかも村瀬が中にいるように見せかけていた… ≫》


「間違いない、奴は中にいるな…」


 低くつぶやいたタナチャイ警部が、頬に刻まれた古傷を撫でながら部下に目配せする。


「奴の部屋の出入りは絶対に見逃すな」


 二人の部下が無言で頷いた。


 窓の外には、漆黒の田園が広がり、ところどころに民家の灯りが点々と浮かぶ。すれ違う貨物列車の轟音が、時折、車体を震わせていった。


 タナチャイ警部は座席に腰を下ろし、時折電子タバコをふかす。


「ナコンサワン着は午後十時ちょうどか……」


 隣の部下ディオが答える―「はい、警部…」 素顔を隠すように黒いサングラスは夜の闇でも外さない。金のネックレスがシャツの襟元でちらりと光る。派手な身なりだが、タナチャイが最も信頼する部下の一人だった。 


 警部は無言のまま白い煙を吐き出し、その向こうに苦々しい表情を浮かべた。


「USBだ、例の組織の“情報”がすべて入っている。奴はタイ側の組織からも金を脅し取るつもりだ。プラサート将軍からの情報だ、間違いない‥‥‥」


 無表情な瞳と、刈り上げた赤茶の髪。 レッドは拳銃のグリップを指先でなぞりながら、感情のない声で言った。


「将軍からの…はい、わかりました…」


 二人とも公安警察というより、裏社会の“仕事人”のような風貌だった。


「よし、この車両の全室へ職務質問しろ、だが、村瀬の部屋は覗くな。奴を泳がせておけばもっと大きな魚が釣れる…」 


 タナチャイ警部の瞳の奥に微かな憎悪の色が宿った。


 村瀬――かつて捜査の協力者として信頼していた男。だが三年前、タナチャイの同僚を裏切り、死に追いやったのもあいつだった。


 タナチャイ警部は懐中時計を確認し、また白い煙を吐いた。


 遠くで夜汽車の長い汽笛が聞こえた――針は午後9時55分を指していた。 


「到着時刻の十時になれば奴は動く。USBの受け渡しか、逃走か――どちらにせよ、勝負はナコンサワン駅だ…」


 カタンコトン、カタンコトン――9列車は車輪の音を規則正しく刻みながら、ナコンサワンの小さな町へ辿り着こうとしていた。



5.ナコンサワンの夜


 ナコンサワンの町の灯りが、夜霧の向こうにぼんやりと浮かび上がっていた。


 列車は“ハイウェイ2131”と呼ばれる国道沿いを、並走する車の灯を横目に、ゆっくりと速度を落としていく。


 そのころ、駅前の市場の駐車場に、一台の赤いベンツがひっそりと停まっていた。


 運転席に揺れる黒い影――ニーナ。   


 黒革のジャケットにミニスカート、膝上までのブーツのジッパーを静かに上げる。  


 両腕には肘までの黒革のガントレット。  


 最後に、唇を紅く染め、村瀬が好んだ男物の香水をひと吹き。


 バックミラーに映る自分へ、氷のような微笑を投げかけた。 


 人気のない駅前を、ヒールの音がコツコツと響く。


 その音が霧に吸い込まれるころ、列車の汽笛が低く響いた。


—午後10時00分


 薄灯りのホームに、売店の蛍光灯が滲むように差し込む。


 やがて9列車がブレーキを軋ませ、珍しく定刻に滑り込んだ。


 黒い革のジャケットに包まれたニーナのシルエットを、列車の車内灯が照らし出す。


 腰まで流れる艶やかな髪が、光を受けて亜麻色に変わる。


 ―村瀬の情婦、ニーナ。仄かな明かりの中でさらに妖艶さを露にする。


 夜勤の駅員が切符を確認し、彼女を13号車の乗降口へと案内する。


 ニーナは静かに10号室へ向かい、黒革の手袋に包まれた指でドアを二度叩いた。


「村瀬さん……?」 ――応答はない。


 ドアは内側から鍵がかかっている。


「村瀬さん、わたし、ニーナよ、ドアを開けて…」


 今度は少し強くドアを叩いた― 


 異変を察した車掌ソムバットが駆け寄り、ドアをドン、ドンと叩くが反応はなかった。


「お客様、失礼しますよ!」


 そう言って腰の鍵束から一本を抜き取り、10号室のドアに差し込んだ。


 扉が開いた瞬間、鼻を突くような匂いが車内に広がる。


 ベッドの上――村瀬が仰向けに倒れていた。


 口から血を流し、白いシーツが真紅に染まっている。


 ニーナは息を呑み、声にならない悲鳴を押し殺す。


 ハイヒールの踵が硬い床を打ち、ニーナは震えるように後ずさった。


 その静寂を破るように、車内の通路を駆ける足音が響く。


 張り込んでいたタナチャイ警部が、ディオとレッドを伴って現れた。


「何があった? そこをどけ!」


 タナチャイ警部は、ニーナと車掌を突き飛ばすように部屋へ入った。


 血の匂いを吸い込みながら、現場をくまなく見回す。


 “やられた、USBがなくなってる……”


 その低い声は、ニーナにも車掌にも届かなかった。


 ベッド脇のテーブルには携帯電話とヴィトンのポーチ。中からパスポートと航空券が覗いている。床には銀色のスキットルとショットグラスが二つ。黒みがかった液体が、静かに広がっていた。警部の視線が村瀬の左腕に止まる。


 村瀬の腕時計のガラスは割れ、針は午後7時45分を指していた。


「……妙だな。今は十時過ぎだ、時計が狂っていたのか、それとも――」 


 白い手袋をはめ、村瀬の左腕をそっと持ち上げる。


 その手首には小さな蜘蛛の刺青があった。


 そして振り返り、ディオとレッドを鋭く見据えた。


「お前たち、ちゃんと見張っていたんだろうな!」


 ディオがサングラスを指で押し上げながら、


「はい、警部。車掌以外、誰も近づいていません」


 レッドは終始、無言で拳銃のグリップを撫でていた。


 凄惨な情景に震えるニーナをソムバットが、タナチャイ警部の部屋へ案内する。


 タナチャイ警部は、ニーナを座席に座らせ、自分は立ったまま、紳士的な落ち着いた声で質問を始めた。


「驚かれたことでしょう、少しお話を聞かせてくれませんか?」


 タイ公安警察のバッジとIDを見せ名を名乗り、そして横に立つ二人の部下を紹介した。


「彼らは私と同じ公安警察の部下でね、ディオとレッドです…」  


 二人は黙って小さくお辞儀をした。


「えーと、殺された方は、村瀬達夫、五十三歳、日本人。東京都出身…」


 タナチャイ警部は村瀬のパスポートをテーブルに置いた。


「そして、あなたのお名前を教えていただけますか?」


 紳士的な口調――だが、彼の本性を知る彼女には、それが芝居にしか聞こえなかった。


「……ハンサ、ハンサ・ラタナクンです」


 ニーナは偽名を名乗った。


「村瀬とは知り合いですか?なぜ彼の個室を訪ねたのですか?」


 矢継ぎ早の質問に、ニーナは少し間をおいて答える。


「私は……ナコンサワンで撮影の仕事があって。夕方に終わって、村瀬さんに旅行に誘われていたんです…」


 バッグからスマートフォンを取り出し、画面を差し出した。


 そこには“午後十時に13号車の10号個室で待つ”というメッセージ。


 村瀬の携帯からも、同じ文面が送られていた。


 タナチャイは深く眉をひそめた。


「……わかりました。明日の朝、チェンマイ警察署で詳しい話を聞かせてもらいます、今夜は空いている個室でゆっくりとお休みください…」


 立ち上がりながら、タナチャイは二人の部下に12号室へ案内するよう目で合図した。


 そして、車掌のソムバットに向かって、厳しい口調で告げた。


「地元警察への報告は私がやる。この列車は予定どおりすぐに発車させるんだ、いいな」


 ソムバットは無線機のスイッチを切り、運転席へ発車の指示を出した。


―午後10時45分


 列車の出発は大幅に遅れ、ナコンサワン駅を離れた。


 先頭の機関車が短く汽笛を二度鳴らす。


 それが、これから始まる“第二の殺人”の幕を開けるベルの響きだった。

 


6.沈黙の10号室


 12号車と13号車をつなぐ連結部—


 車両間を仕切る通路扉は、センサー式の自動ドアになっており、軽く触れるか近づくだけで開閉してしまう。


 坂本とリサはセンサーに触れないように、しゃがんで通路の先をじっと見つめていた。


 黒いサングラスに、腰まで伸びた長い髪――あの女だ、間違いない。


 リサには、その姿がアユタヤ駅で赤いベンツに乗って走り去った“レディボーイ”、いや、“女”のように見えてならなかった。


 通路灯の明かりが微かに揺れ、車体のきしむ音が耳に残る。  


 ドア越しに見えるのは、その“女”……ニーナと車掌のソムバットだった。


 二人は村瀬の個室の前で、何かを話している。声は聞こえないが、張り詰めた空気が伝わってくる。


やがてソムバットが腰の鍵束から一本を抜き取り、10号室の鍵穴に差し込んだ。


ドアを半分ほど開けた瞬間、彼の顔がみるみる青ざめていく――。


「お客様、お下がりください……危険です!」


 ニーナは顔を背け、口元を押さえながら後ずさった。


 リサは息を呑み、思わず立ち上がった。


「……村瀬の部屋よ。まさか――?」


 坂本が眉をひそめ、低く呟く。  


「その“まさか”かもしれないな……見ろ、あれを」


 直後、三人の男が現れ、立ちすくむニーナと車掌を押しのけて部屋に飛び込んだ。


 坂本とリサは息を詰め、顔を見合わせる。


「アユタヤから乗ってきた刑事たちか……。どうやら、彼らも村瀬を監視していたらしい」


 列車は緩やかなカーブに差しかかり、車体の軋みが二人の足元を震わせる。


 通路の中央で、ニーナは呆然と立ち尽くしていた。


「坂本さん……あの女、いったい何者なの?」


 闇の中、稲光が閃き、ふたりの顔を白く照らす。


「わからない。ただ……この事件、思った以上に深いかもしれない」


 リサは小さく頷き、自分のベッドに座り、ふぅっと息を吐いて横たわった。  


「……なんだか疲れちゃった。せっかくの非番の休みが台無しね」


 坂本が苦笑する。


「なんなんだよ。非番なのか、それとも俺の手伝いに来たのか、どっちなんだ」


 返事はない―


 覗き込むと、リサは列車のリズムに揺られながら、小さな寝息を立てていた。


 坂本は静かに立ち上がり、トイレへ向かうふりをして、最後尾の13号車へと足を向ける。


 村瀬の個室の前では、まだニーナとソムバットが立っていた。


 すれ違いざま、坂本はニーナから微かに男物の香水の匂いを感じ取った。


“やはり……食堂車で見かけた“女”と同一人物か、この香水の匂いは…”


 背筋を冷たい汗が伝う。  


 自分も同じく村瀬を追っている日本の刑事であることを、まだ誰にも悟られてはいけない。


 座席に戻ると、リサは無防備に眠っている。


 その横顔を見つめながら、坂本は静かに心の中でつぶやいた。


 ――この列車には、すでに得体の知れない思惑が蠢いている。


 列車は遅れを取り戻すように雷鳴と闘うかのようんな、ディーゼルの轟音を上げて闇をぶっ飛ばした。


(第3話に続く)

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