雨の中の恐怖
世界にたった一人取り残されたような心細さが、雨粒のようにじわりと胸に染みる。重いランドセルが、その不安に追い打ちをかけた。
ざあざあと、空が泣きじゃくっている朝だった。
世界から色が抜け落ち、すべてが灰色と黒の濃淡で描かれた水墨画の中に、ひとり迷い込んだかのようだ。黄色い傘だけが、この世界で唯一の色。ボクはそれを握りしめ、必死に走っていた。目覚まし時計のけたたましい音を、夢の続きだと決めつけて二度寝したせいだ。
傘を叩く雨音は、まるでボクを急かす無数の舌打ちのように、神経を逆なでする。
遅刻ギリギリのこの時間、車通りはほとんどない。アスファルトを叩く「タッタッタッ」という自分の長靴の音と、ぜえぜえと漏れる苦しい息遣いだけが、この灰色の世界でボクが存在する、かろうじての証明だった。
学校までの最後の直線。黒光りするアスファルトが、どこまでも続いているように見える。あそこを曲がれば校門が見える。あと少しだ。そう自分に言い聞かせ、さらに足の回転を速めた、その時だった。
ぐいっ。
唐突に、右腕に強い圧力がかかった。
まるで、背後に忍び寄った誰かが、氷のような指でボクの腕を掴んだような。そんな冷たくて硬い感触が、はっきりとそこにあった。
「うわっ!」
思わず声が漏れる。心臓が、凍った池に投げ込まれた石のように、どくん、と跳ね上がった。
恐怖に突き動かされ、バッと振り返る。
けれど、そこには誰もいない。
あるのは、雨に打たれて黒く濡れた道と、すべてを覆い隠す灰色の雨のカーテンだけ。
誰もいない。いるはずがない。
「……きの、せい?」
か細い声で自分に言い聞かせる。たまたま濡れた葉っぱでも飛んできたのかもしれない。
でも、腕に残る感触はあまりにも生々しかった。
気のせいなんかじゃない。
見えない「何か」が、すぐ後ろにぴったりと張り付いている。
その瞬間、背筋をぞわりと氷の指がなぞった。早く、早くここから逃げなくては。あれに捕まってはいけない。
ボクは再び前を向き、なりふり構わず駆け出した。水たまりが跳ね、ずぶ濡れになるのも構わなかった。
カーブミラーに一瞬映った自分の顔が、泣き出しそうに歪んでいる。
何なんだ、あれは。
ボクを捕まえて、どうするつもりなんだ。
嫌な想像が頭の中を駆け巡る。振り返りたい。でも、振り返ったらきっと見てはいけないものを見てしまう。
ただ、学校へ。人のいる、明るい場所へ。
それだけを念じてがむしゃらに足を動かした、まさにその時だった。
ガツン!
今度は、左腕。さっきより遥かに強い力で、肘を掴まれた!
「っ……!」
恐怖で喉が張り付いて声も出ない。ボクの足は、地面に縫い付けられたように止まった。左肘に、じんじんと痺れるような感触が残っている。
間違いない。何かが、いる。
完全にパニックだった。恐怖で涙が滲み、視界がぼやける。もう走れない。振り返るしかなかった。
まるで「だるまさんがころんだ」の鬼になったみたいに、息を殺し、一気に後ろを振り向いた。
しかし、誰もいない。その直後──また、腕に衝撃が走る。
パニックのまま左右を滅茶苦茶に振り向くたび、見えない「何か」に腕を掴まれそうになる。
カーブミラーにだって、ボク一人しか映っていないのに!
けれど、その時だった。何度も見返したカーブミラーの中で、ボクは自分の背中の「異変」に気がついた。
ボクが走るたびに、ランドセルの蓋が大きく揺れている。
そうだ。今朝、急いでいたせいで、ボクはランドセルの留め金……あの、くるっと回す銀色の金具を、締め忘れていたのだ。
大きく口を開けたランドセルの蓋が、まるで生き物のように暴れ、その硬い角がボクの腕を叩いていたのだ。
恐る恐る、カーブミラーに映る自分を見つめたまま、もう一度走る真似をする。腕を振る。
案の定、ランドセルの蓋の角が、がくん、とボクの腕にぶつかった。冷たくて、硬い感触。
……これだったのか。
全身から、どっと力が抜けていく。あれほど心臓を鷲掴みにされた恐怖が、嘘のように霧散していく。
ボクは後ろに手を回し、ランドセルの留め金がはまって「カチリ」と音がしたら、しっかりと金具を回した。
もう、「あれ」は追いかけてこない。
黄色い傘の下、ボクは再び学校へ向かって走り出した。