表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/73

船、沈没す

大金持ちの客が望んだ特注品の家具を載せた船が、海に沈んでしまった。パニックで放心した父と家計を助けるため、うら若き女の子がのったとんでもない契約とはー。


裁縫、お琴、割烹、すべて不得意。大正時代には生きにくいそんな女の子が、誰にも言えない秘密を抱え、二足のわらじ生活を送ります。

「長きに渡り大変お世話になりました。どうかご家族皆様、お元気で」


 茉由子が幼い頃から遊び相手となり、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたミチが玄関で深々と頭を下げた。すでに執事は去り、彼女が去れば見送りは終わりだ。


「急なことで本当にすまなかった。君の話は先方の家にしっかり通してあるから、茉由子にしてくれたように、半年後に生まれる赤子を可愛がってあげておくれ。

 ほんの少しばかりだが、お給金が出るまでの足しにしてほしい」


 父はそう言いながら封筒を差し出した。ミチはそれを恐縮しながら受け取り、茉由子の方に向いた。


「茉由子様。利発でお話上手で、可愛い茉由子様が大好きでございます」


 ミチの言葉を聞いた茉由子は思わず、子供の頃にしたようにミチにぎゅっと抱きついた。そして西條邸には家族3人が残されたのだった。

 

 ***


 前日の土曜日に、茉由子が女学校から帰宅した時はまだ家はいつも通りだった。


 昼食を母の美津子と食べ、美津子が神田須田町で購入してきたわらび餅を二人で食べながら庭で満開に咲き誇る一本桜を眺めていると、父が唐突に帰宅したのだった。

 

「船が沈んだ」


 開口一番、真っ青な顔でそう言った父はそのまましゃがみこんでしまった。


 茉由子の父である穣は家具の輸入事業を展開している。新品からアンティークまで、既製品を主として取り扱っているが、富裕層の細かい要望を受けた特注品にも力を入れている。


「芝山様のご新居に入れるはずだった調度品がほとんど沈んでしまったんだ」

 

 穣が絞り出したその言葉に、茉由子は息をのんだ。


 個人宅であるのに、その建築が進む様子がしばしば雑誌で取り上げられるほどの芝山新邸。

 穣はそのすべてのインテリアに関してコーディネートと調達を任され、ここ一年ほどそれに心血を注いでいた。向こう三年は何もしなくても安泰なほどの巨額の契約だったはずだ。


 その「ほとんど」が日本に届かなかったとは。


「あなた、しっかりなさって!保険をかけてあるから大丈夫なはずでしょう?芝山様にはご迷惑がかかってしまうけれど、もう一度急いで発注すれば…」


「保険が足りないんだ」


 穣が美津子の言葉を遮った。


「保険が全額下りてもすべて賄えない」


「お父様、いつも保険はしっかりかけていらっしゃるのに、どうして」


 自分が口を挟むべき状況ではないと理解しつつ、茉由子はたまらず会話に入った。


「保険証書が改ざんされていたんだ。十割補償だと認識していたのに、保険会社にある書類には五割だと書かれていて、こちらの印鑑も入っている」


「なぜそのようなことが!?」

 

 美津子は動揺し、穣の隣にへなへなとしゃがみこんでしまった。穣は頭を抱えながら小さな声で言う。


「田中くんに任せていたんだ…」


 田中弥吉。茉由子はその人物を苦々しい気持ちで思い出した。


 五年前に商売を畳んだ取引先から雇い入れた田中は、半年ほど前まで父の会社で真面目に働いていた。少なくとも、穣を含む会社の人間はそう捉えていた。


 しかし次第に、酒を飲んで出勤したり無断欠勤したりと勤務態度の悪化が目立ち始めた。

 茉由子は一度、一升瓶を抱えながら、目つきの悪い男と連れ立って歩く田中の姿を女学校の近くで目撃している。


 そして昨年、経理作業が忙しい年の瀬に田中は忽然と姿を消した。下宿先には家財道具一式がそのまま残されており、社長である穣を含む社員全員が警察の聞き込みへの対応に追われたのだった。


「お父様、じゃあその差の分は田中さんが使い込んだということかしら」


 茉由子の問いに、穣は


「そう考えている」


 と言いながら頷いた。

 父も母も放心状態で時間がかかったが、茉由子はその後少しずつ会社のお金回りや芝山家との契約について質問し、全容を把握した。


 沈んだ家具の再発注に必要な資金は保険金では賄えず、会社の資金をかき集めてぎりぎり足りるかどうかというところで、このまま商売を回し続けることは不可能となる。


 それに加えて、期日までに納品できないことが確実となったため違約金の支払い義務が発生するのだが、会社にはもはやそれを支払えず、穣個人が追うこととなる。


 端的に言うと、西條家とその事業は金銭的に行き詰まったのである。


 麗らかな春の日差しとはあまりに合わない厳しい事態に茉由子も放心しかかった、いや、したかったが、先に目の前で泣かれると泣くのを忘れる子供のように、なんだかタイミングを逃してしまった。


 ただ、もうこの先食べられないかもしれないと思い口にいれたわらび餅は、大好きなのに味がしなかった。




 その後父は会社に戻り、茉由子は母と二人で家の財産目録を調べたり、西條家の財産状況を詳らかにするため銀行に出向いたりと忙しく過ごした。


 美津子は多才な人だが、金勘定には疎い。そのため、本で読んだ知識をもとに茉由子が会話を主導するしかなかった。

 何も分からない女が何をしにきた、という気持ちを隠そうとしなかった銀行員が終盤、ちゃんと目を見て説明してくれるようになったのを見た時、茉由子は手あたり次第に何でも読む自分の読書癖に感謝したくなった。

 

 しかし判明したのは、やはり西條家の財産のほとんどを投げうってようやく違約金を支払えるということだ。夜遅くに再度帰宅し、茉由子と美津子を部屋に集めた穣が、


「芝山様が、一家を路頭に迷わせるのは本意ではないから、家は売らなくて良い。その分の支払いは猶予する、と言ってくださったよ」


 と言った時には、身一つで野に放り出されることがなくなったことに少し安堵したが、結局のところは借金であるし、父の事業を畳むとなると返していく手立てがない。


 茉由子が悶々と考えていると、昼間とは打って変わって落ち着いた父は西條家の今後についてこう切り出した。


「侑司さんがね―私の妹の夫だから、茉由子にとっては叔父さんの、あの侑司さんだ―彼が、自分の事業を手伝ってほしいと言ってくれている。


 会社の整理をして、社員の転職先をできる限り探したら、すぐにそっちに移ろうと思う。

 芝山様の調度品については、同業で引き受けてくれるところがあったから、そこ経由で調達してもらえることになりそうだ」


「侑司さんということは、穣さんカフェーのお仕事をなさるの?」


 美津子が目を見開いて聞いた。無理もない。


 叔父の侑司さんは浅草から日本橋のあたりでカフェーを五店舗経営しており、そのインテリアに穣が協力したこともあって、二人の関係は良好だ。

 しかし穣はその父から貿易ビジネスを継ぎ、それ以外の仕事をしたことがないので、門外漢もいいところである。


「日本橋寄りにある三店舗を統括として全面的に任せてくれると言っているけれど、実際私はカフェーのことは何も知らないから、しばらくは経理や備品の発注といった、今の私でもできる事からやっていくよ」


 芝山家に支払い期限延長の話をつけ、親族のつてで就職も決めてきた。

 狼狽えながら茉由子と母のもとに悪い知らせを持ってきた時から、数時間のあいだにここまで道筋をつけてきた父を、茉由子は素直に尊敬した。


 沈んでしまった荷物にしっかりと保険さえかかっていれば、この父の事業は今後も安泰だっただろうと思う。


 穣の答えをじっと聞いていた美津子は、しばし考えた後、決心したようにこう言った。


「穣さんが家族のために新しいことに挑戦されるのであれば、私もそうしない理由はないわ。働きに出ますので、侑司さんのところで雇ってもらえないか、お願いしてみてくださらないかしら」


 お嬢様として育ち、奥様として暮らしてきた女性がこのような発言をすると驚かれることが多いと思われるが、茉由子は違和感がなかった。


 美津子は愛情深く、家族で楽しく過ごす時間を生きがいにしている人だ。また、趣味に社会奉仕にといつも走り回っている。

 普通の家庭で生まれ育っていたならば、家庭をしっかりまとめながらよく働く、肝っ玉母ちゃんになる素質のある人なのだ。

 家庭の一大事には自分も何か貢献したい、と考えるだろう。


 穣は頷き、顔を茉由子の方に向けた。


「茉由子。女学校はあと一年だが、通い続けることは今の状況では極めて難しい。親として本当に申し訳ないが、退学してもらうことになる」


 銀行で明細を見て以来、そうなるだろうと思っていた茉由子は一言、わかったとだけ言って無理矢理微笑んでおいた。それをじっと見ていた穣は姿勢を正し、美津子と茉由子に向かって額と手をテーブルにつけた。


「美津子、茉由子。私の不手際でこのようなことになって、すまない。君たちの暮らしがこれからまるで変わってしまうが、不甲斐ない私にどうかついてきてほしい」


 美津子は慌てて立ち上がり、茉由子もそれに続いた。親子は三人、黙って抱き合ったのだった。


***


驚天動地の出来事により眠れぬ夜を過ごした茉由子は、ミチを見送った後の一日をほぼ図書室で過ごした。


 東京市麻布本村町というお屋敷街にこそあるが、茉由子の家は豪邸というほどの規模ではない。

 しかしその大きさに不釣り合いとも言える立派な図書室は、応接間より広く、床から天井まで何百冊もの本が並んでいる。


 一部茉由子が読めない言語の本もあるが、ほとんどの蔵書は英語であり、茉由子は幼い頃から暇さえあればここに来て本を読んできた。


 父の穣は若い頃に英国に留学していた。

帰国して結婚し、生まれた茉由子が本 -実際はその挿絵だったのではないかと思うのだが― に興味を示し始めると、穣は喜んで英語の猛特訓を始めた。


 友人たちには驚愕されたが、女学校に入学するまで英語の家庭教師以外の習い事もしたことがない。


 こうして出来上がったのが、お琴や裁縫などおよそ令嬢に求められる要素はいつも落第ぎりぎりの評定だが、英語だけは他者の追随を許さない、いささかアンバランスな西條茉由子という人間だった。


 (作法が完璧とは言い難い私には、良家に奉公に出るという道は少なくともないわね。


百貨店の接客も作法が求められるから、すぐにぼろが出てしまいそう)


 茉由子はソファに腰かけ、アメリカの婦人雑誌に載っている求人票を見た。


 日はすでに傾いており、200ページ読んでも何も頭に入ってこなかった小説は諦めてサイドテーブルの端に放り出した。


 明日以降、東京でどのような仕事を得られるのか情報収集せねばならないが、とりあえず手持ち無沙汰なので外国の情報を見ながら考えてみている。


 (裁縫も得意じゃないので縫い子さんは難しい。


帳簿の勉強をするか……でも女はなかなか雇ってもらえないかもしれないし、お給金がもらえるまで時間がかかってしまうわね)


 学費の払い込みが済んでいる学期末までは学校に通うのがいいのか、さっさと学業に見切りをつけて、何でもいいから雇ってくれるところに飛び込むのがいいのか。


 そもそもそれも分からないが、タイピストや居留外国人の通訳という需要はありそうだ。


 学歴が問われなければ。女でも雇ってもらえたら。


 たらればがたくさんついてしまうけれど、根気よく探せばできる仕事はあると思えてきた茉由子は、少し前向きな気持ちになってきた。


 当面同じ家に住み続けられる見通しであるし、女学校を出てよく知らない相手と結婚し、家庭に入るよりも面白いことがあるかもしれない。


 (私が悩んだからといってどうにかなるわけでもないし)


 茉由子は元来あまり悩まないが、さすがに家の一大事とあって昨晩は眠れぬ夜を過ごし、一日図書室にこもって己の未来について考えることになった。


 しかしどうやらそれが限界のようで、もはや悪い想像やネガティブな気持ちといったものを己の思考が拒否しているのを感じる。


 (普通に結婚していたならば、塩加減を間違えた料理を出して、でっぷりと太ったお姑様にねちねちと苛められたかもしれないわ)


 (いや、子供だけ産まされて適当な理由で実家に送り返されていたかもしれない)


 女学校でまことしやかに囁かれる「気の毒な先輩令嬢の結婚逸話」を思い出してそう考えながら、一方で冷静に茉由子は思う。


 (今は目の前の事態に向き合うことから逃げているだけかもしれないけれど、悩んで落ち込むくらいなら私はこれでいい)


 すっかり暗くなった部屋で茉由子は立ち上がり、伸びをした。

反応をいただけるのが一番励みになります。

ブックマーク、評価、甘口/辛口コメント、なんでも大歓迎です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ