断罪される寵姫に転生したはずなのに大王さまが溺愛してきます
※気弱ヒロインなのでご注意下さい
美女は悪だ。
物語でも、可憐な女の子がヒロインで美人は悪女と相場が決まっている。それが権力者の寵姫とくれば悪玉として描かれる。
そんなことを熱で苦しんだ三日間のうちに思い出した。
「マーシャさま!! お気が付かれましたか!! 本当に良かったですわ」
筆頭侍女のクシャルが目を真っ赤にした顔で言う。彼女が纏っている衣服は白衣でも喪服でもなく、たっぷりのドレープがある白を纏っていた。
……。
……。
ここは日本じゃない。
私が日本で読んでいた『ギオニスの花園』という古代ギリシャを舞台にした恋愛小説の世界だ。
そして、『マーシャ』である私は大陸屈指の強国ギオニス王の寵姫で、腰まである艶やかな黒髪、ぱっちりとした猫目、小高い鼻に熟れた果実のような真っ赤な唇の妖艶な美女だ。
だが、その美しさは悪女として描かれる。
可憐なヒロインのエレニアに嫉妬し、大王ガルデスによって最後は断罪されるのだ。
■
世界のほとんどを支配するギオニス王国の後宮に新しい妾が入宮するはこびになった。名をエレニアという女は、元は敵国ゲルシガの王女で珍しい桃色の髪と目から大王ガルデスに所望されたのだ。
「まさか大王さまが新しい妾を所望されるとは思わなかったわ。今までずっとマーシャさまを寵愛なさっていたのにね」
「謎の高熱でずっと夜のお召しがなかったんですもの、飽きられて当然でしょ」
「美人もいずれ飽きられるという証拠でしょ。つまり、あたしたちにもチャンスがあるってことよ」
かしましい妾達が好き勝手に噂する。そしてその噂を耳にした専属侍女たちがご丁寧にマーシャに報告する。今までそうやってマーシャが過ごしてきたのだから侍女たちに悪気はない。
「マーシャさま……!! 私共は悔しゅうございますっ!! 大王さまの寵愛を頂くどころか、お目見えすらしていない妾共にいいように噂されるなんて耐えられません!!」
「そうですわそうですわ!! 大王さまがゲルシアの王女を欲しがったのだって、珍しい髪の色というだけですわ!! もうお身体も平気でございましょう? 宴でも開いて皆を驚かせましょうよ!」
マーシャ付きの侍女、クシャルとリヘイナが眉間にしわを寄せて言う。だが、マーシャが思うのは、ようやくヒロインのお出ましか。くらいだ。
「まだ体が回復していないから無理よ」
マーシャは前世を思い出してからずっと引きこもり生活を謳歌している。高熱がいい言い訳になった。
「ですがマーシャさま。他の妾達がこの機に寵愛を奪おうと画策しております。もちろん、マーシャさまは唯一無二の寵姫でいらっしゃいますが、お立場を奪われはしないかと……」
クシャルが心配そうに言う。
後宮に階級はないが、寵愛次第で序列が決まる。そして、マーシャは寵愛を傘に莫大な財宝をもらい、贅沢三昧で暮らしていた。
しかし、寵愛がなくなったらどうなるかわからない。
「あなたたちの気持ちもわかるけれど、基本のお手当だけでも十分贅沢だわ」
「で、ですが、新しいご衣裳や宝飾品を作るにもお金がかかります」
「マーシャさまはご寵姫ですもの。一番美しく着飾るべきですわ」
「ダメよ。お金は永遠にあるものじゃないわ。私はこのとおりの不調だし、新しい妾も入った。お呼びになることはないでしょうし、それなら着飾るだけ無駄というものよ。必要なものを残してあとは金庫にしまっておいて」
マーシャの言葉に侍女たちは困惑したが素直に従った。
(目立たず生きていけば、恐ろしい末路を迎えなくても済むはず……)
マーシャはそう願って身辺整理をし始めた。
しかし、マーシャの思惑とは別方向で事態は動く。
「マーシャ。体の具合が悪いそうだな。熱はもう下がったのか?」
大王ガルデスがマーシャの部屋にやってきたのだ。プラチナブロンドの長い髪、青い瞳、高い鼻にすっきりしたあごのラインは彫像のように美しい。
以前のマーシャが愛したのも頷けるほどの麗しさだ。
「だ、大王様!! も、申し訳ありません。お出迎えの準備も整っておらず……」
マーシャは慌ててひれ伏した。
「構わん。具合が悪いのだから床から出るな」
ガルデスは手を差し伸べてマーシャの額にあてた。そしてもう片方を自分の額に当てる。
「ふむ。熱は下がっているな。医者から倦怠感がまだ残っていると聞いた。よほど重い病だったのだな」
「病に負けてしまい、面目次第もございません……」
「謝らずともよい。思ったより元気そうで良かった」
ガルデスは額の手をそのままマーシャの頬にうつして優しく撫でる。
マーシャはどう反応していいのか困った。今までの自分ならガルデスに抱き着いてどれほど病が辛かったか訴えただろう。そして色々なものをおねだりしたに違いない。
だが、結末を知っている今のマーシャはそんなことできなかった。
無言で俯くマーシャにガルデスの目が見開く。
「……ふむ。やはりそうとう辛いと見える。いつものお前なら騒ぎ立てるのにな」
「お恥ずかしい限りでございます。……大王さま、夜も更けてまいりました。はやくお休みになりませんと明日の朝議に支障が出ますわ」
これ以上一緒に居たくなくてマーシャが言うと、ガルデスは一瞬驚いた顔をした後で微笑んだ。
「ああ、そうだな。早く寝るとしよう」
そして、ごろんとマーシャの横に寝転んだ。
「だ、大王さま?!」
「どうしたマーシャ。私がここで寝ることに問題があるのか?」
少し楽しそうにガルデスが言う。
「あ、あの……私はまだ体が優れず……その……」
しどろもどろに言うマーシャにガルデスはアハハハと大きな声で笑った。
「わかっているさ。本当にここで休むだけだ。それともお前はこの真夜中に私を冷たい廊下に歩かせる気か?」
「……い、いえ。わかりました」
「マーシャ。どこに行くんだ?」
「二人で寝るには狭すぎますわ……。私は寝椅子で十分でございます」
「ッハハハハ。以前まで一緒に寝ていたというのに、すっかり私との過ごし方を忘れてしまったようだな。それも一興だ。私はこうして隅で大人しくしているからお前も安心して寝台で寝ろ。病み上がりなのだから体を労われ」
ガルデスは楽しそうに笑った後、壁際に移動してマーシャに背を向けた。
「これなら安心だろう?」
顔は見えないが、ガルデスの楽しそうな声が聞こえる。
「……ご配慮に感謝します」
これ以上、辞退するのは不敬すぎる。マーシャは観念して寝台の端っこで体を休める。医師から処方された薬のせいか、段々と眠気が襲ってきた。
手を伸ばせば触れられる距離にガルデスがいる。マーシャが嫉妬に狂うほどに愛しぬいた人だ。そして最後には嫌われて憎まれて殺される。
(絶対に、愛してはいけない)
マーシャは言い聞かせるようにつぶやいた。
翌朝、マーシャが目覚めると朝食を摂るガルデスの姿が見えた。今まで何度も寵愛を受けたが、ガルデスの寝所に呼ばれていくだけで朝まで一緒にいたことはない。
「だ、大王さま……?」
「起きたかマーシャ」
「お戻りにならなかったのですか? それより、食事でしたらこの寝所でなくても、居間の方がよいではありませんか」
「いちいち戻って食事を摂るよりここで食べた方が楽だからな。丁度出来立てのパンが来たところだ。お前も起きて食べるがいい」
驚きすぎて動けないマーシャだが、ガルデスはそれを勘違いした。
「ああ、そういえばまだ体調が万全でなかったな」
ガルデスはヨーグルトとハチミツ、果物の入った器を取ると立ち上がってマーシャの寝台まで持ってくる。
「さあ、食べるといい」
スプーンで掬ってガルデスは親鳥のようにマーシャに口を開くよう促した。
「だ、大王さま。だ、大丈夫です。一人で食べられますわ」
「遠慮するなマーシャ。大王である私みずからの下賜だ。ありがたく受け取れ」
そう言われれば断ることもできない。
マーシャはおずおずと口を開く。濃厚なヨーグルトとハチミツの甘さ、そして甘酸っぱいフルーツの味が口に広がった。
「どうだ、うまいだろう」
「はい……」
朗らかに笑うガルデスは楽しそうにもう一匙掬った。マーシャはもうすべてがなすがままで、口を開けて咀嚼するだけだった。
ガルデスは始終ご機嫌で楽しそうに笑っていた。
「……疲れた」
ガルデスが退室した後、マーシャは寝台にごろんと寝転んだ。
「マーシャさま!! すごいですわよ。大王さまが見舞だといっていつも以上の財宝を用意してくださいました!!」
「さすがマーシャさまですわ!! しかも、寝所に呼ばれるのでもなく、大王さまがお立ち寄りになって朝食まで召し上がるなんてまさに寵姫の証ですわ!! 後宮内はその噂でもちきりですわよ!!」
リヘイナとクシャルが弾んだ声で言う。
「……大王さまのご不興を買わなくて良かったわ。お見舞いもありがたいわね」
マーシャに言えることはそれだけだ。なにしろ、あと数日でマーシャは捨てられる。エレニアに首ったけになった大王は彼女の部屋に入りびたりになり、姿どころか声も見ることが叶わなくなるのだ。
■
大王ガルデスの幼馴染であり、親友のレイゾン将軍は宮廷の国中の娘が憧れる美貌の将軍だ。亜麻色のくせ毛に鳶色の瞳、武人として鍛えられた体躯にすらりとした長身はガルデスと並んでも引けを取らない。
そんな彼はガルデスが始終楽しそうなことに気が付いた。
「ガルデスさま。お顔の色がいつもより明るいご様子、なにかよいことでもありましたか? 」
「ああ、マーシャがなかなか面白くてな。見た目は優雅なのに、私が近づくとコロコロと変わる表情が楽しくて仕方がないのだ」
「マーシャ様ですか。この前も大王さまに紅玉の腕輪と碧玉の耳飾りをねだっておりましたね。その前は翡翠の髪留めと東国の絹衣装……」
「よく覚えているなレイゾン。私は何を贈ったかかとっくに忘れているというのにな」
「マーシャ様の贅沢は宮中に出入りしていれば誰でも知っていますよ。ガルデス様の寵愛を傘に好き放題しているともっぱらの噂です」
「ふぅん。お前はマーシャが嫌いか」
「大王さまのご寵姫に対してそのようなことを申し上げるのは憚られますが……大王さまの寵姫となるお方は慈愛に満ち、華美を好まず、落ち着いた女性が好ましいですね」
レイゾンはマーシャと真逆の女性像を言う。
「なるほど……」
ガルデスが思い浮かべたのは飾りもつけず、シンプルな衣装のマーシャだ。そしてにやりとほくそ笑む。
「レイゾン。今日の夕餉はお前も一緒に摂れ」
「ガルデスさまのご要望なら是非もございませんが……なぜに?」
「来れば分かるさ」
そして夜、マーシャはガルデスとレイゾンの来訪を受けることになった。
夕食時、のんびりご飯を食べていたマーシャは寝耳に水だ。
「だ、大王さま……。レイゾン将軍……!!申し訳ございません。食事中でございました」
マーシャが立ち上がって臣下の礼を取るとガルデスは笑う。
「それを狙ってやってきたのだから気にするな。……しかし、ずいぶんと貧相な食事ではないか、これで体力が回復するとは思えん。なあ、レイゾンよ」
曇った顔のガルデスがレイゾンに同意を求める。
しかし、レイゾンはすぐに答えられなかった。
彼の知るマーシャは居丈高で鼻持ちならない傲慢な女だ。常に飾り立ててレイゾンや臣下を見下した目で見る。
だが、今のマーシャは全く違った。何も着飾らないシンプルな装い、そしてガルデスが苦言を呈するほどの質素な食事、そしてレイゾンを見る目も敬意が感じられた。
「おい、レイゾン。聞こえなかったのか?」
「あ、いえ。失礼いたしました。たしかにお食事の量が少ないかと思います」
マーシャの食事はヨーグルトに蜂蜜、そして果物、ゆでた鶏肉を少々。あとはお茶だ。
「レイゾンもこう言っていることだし、もっと食べろ。医師に聞いたが食事に制限はないと言っていたぞ。肉料理も大量に用意したから存分に食うがいい」
ガルデスはマーシャの隣に座ると手を鳴らして侍従に食事を持ってこさせた。焼き豚に羊の串焼き、それも食欲をそそるものでマーシャの喉が思わずなった。
「ははっ。食欲が出てきたようで良かったぞ。さあ、食せ。それとも食わせようか?」
「い、いえ!! 大丈夫です。一人で食事ができます!!」
マーシャは慌てふためいて断った。今朝みたいに密着して食事の世話をされたら心臓が持たない。
(どうしてこうなるんだろう)
笑いかけるガルデスの顔と声はマーシャが好きなものだ。
捨てようとした心がざわめきはじめて胸が痛い。
「マーシャ様……ずいぶんと変わられましたね。高熱で臥せっていらっしゃったと聞きますが、何か心境の変化でも?」
レイゾンの問いかけにマーシャは即答できなかった。
「……辛い思いをして、今までの自分の行いを振り返っただけですわ」
「そうですか」
レイゾンが発した言葉は短かったが口元には笑みを浮かべていた。人の美点を見つけると気持ちが浮き立つものだ。ガルデスはレイゾンの笑みに気づいて楽しそうに笑った。
「なあ、レイゾン。マーシャはなかなか楽しいだろう?」
「ええ、大王さまが寵愛なさるのも頷けます」
レイゾンの言葉にマーシャは頬が熱くなる。捨てられると分かっていても、嬉しくなってしまうのはまだ愛しているから。
(ガルデスがエレニアを召せば私はもう忘れ去られるのよ)
無言になってしまったマーシャをガルデスとレイゾンは気遣い、今朝と同じようにガルデスに世話をされて食事する羽目になった。
■
「大王さまったら立て続けにマーシャ様のお部屋で過ごされたんですって。普通は大王さまの寝所に呼ばれるものですのにね」
「食事も一緒に摂られるんですってよ。しかも、マーシャさまのご助言でルヴィール河の洪水被害が最小限にとどまったって出入りの商人が言っていたわ」
「あら、私はザーリデ地方のかんばつへのご助言って聞いたわよ。雨水で農作物を育てるのが普通なのに、作物のための水路を作ったんですって」
「すごいわねえ。大王さまがマーシャさまを信頼しているからこそできるわけよね? やっぱりマーシャさまが一番なのね」
「でもそれじゃあ、新しい妾はどうなるのかしら? 大王さまが見初めて後宮に召し上げられるのでしょ? だったらマーシャ様への寵愛も続くかどうかわからないわ」
妾達は様々な憶測を好き勝手に話す。
「マーシャさま!! 小うるさい妾達にガツンと言ってやって下さいませ!! 大王さまのご寵愛はどんな妾が来てもマーシャさま一筋ですわ!」
リヘイナが悔しそうに叫ぶ。
「そうですわ!! それにマーシャさまのご助言で数々の問題を解決できたんですもの。新参の妾がマーシャさまを脅かすことはできませんわ」
だが、マーシャはそれを肯定することはできない。前世の知識を生かして悲しい事件を減らす努力をしたが、ガルデスとエレニアは必ず結ばれる運命だ。
「すべて大王さまのお気持ち次第よ。それよりも、エレニアが入宮してもけして虐めてはだめよ。そして、誰かが虐めてるのを見たらすぐに止めなさい。他の侍女たちにも徹底してね」
マーシャは侍女たちに厳命した。
■
ゲルシガの王女、エレニアは生母が身分の低い奴隷ということで疎まれていた。ぼろぼろの離れで生活し、侍女がやることも全部自分でやって来た。王の失策でゲルシガ国がギオニス国に敗れた際、服従の印としてエレニアをガルデスに献上したのだ。
エレニアは新しい場所へ希望さえ抱いていた。
(今度は殴られないところがいいな)
そしてエレニアは生まれて初めて綺麗な服を着て、大王ガルデスに出会ったのだ。
「ほう。変わった目の色と髪をしているな。面白い。ゲルシガ王よ。たしかにこの娘をもらい受けた」
プラチナブロンドの髪、青い瞳の美しい青年がエレニアを見た。そして彼だけはエレニアを侮辱的な目で見ず、このおぞましいと言われた髪と目を褒めてくれた。
エレニアはそれが泣きたいほどに嬉しかった。
その後、ギオニス王国のことを学ぶために専用の教師を付けてもらい、エレニアはギオニスの女として教育を受けた。
月日がたち、エレニアはようやくガルデスのいる後宮へ入った。
「元王女とはいえ、ここでは妾の一人よ。大王さまの寵愛を受けると侍女もつけてもらえるけれどそれまでは自分の世話を自分でしなさい」
先輩の妾にそう言われたが、エレニアは侍女を持った経験がない。すべて自分でするしかない彼女に、先輩の妾の言葉はあまり響かなかった。
(うれしい! ギオニス国に来てからずっと三食食べられるわ。綺麗な服を着てふかふかの布団で寝られるなんて幸せだわ)
エレニアは妾の生活を堪能していた。しかし、大王に見初められたという背景を持つ彼女に嫉妬する人間は大勢いた。
「ちょっとあなた。大王さまが見初めたと聞いたけれどどうやって誘惑したの?」
「そうよそうよ。私たちはずっと大王さまにお仕えしてきたのよ。それを新参の癖に大王さまにすり寄るなんてどういうつもり?!」
「え……えっと。私は何も……」
エレニアは詰られて体が震えた。
ゲルシガ国ではいつも殴られていたし、侮辱的な言葉をぶつけられていた。今度もまたぶたれるのだろうかと思うと足がすくんだ。
しかし、傍から見れば新参を虐める先輩妾の図だ。マーシャの侍女の一人が気付き、すぐに割って入った。
「マーシャさまはゲルシガ国の王女、エレニアさまを気にかけていらっしゃいます。エレニアさまに仇を成すことはマーシャさまに敵対するということですがよろしいでしょうか?」
マーシャの侍女は後宮の中で一目置かれている。妾達は気まずそうな顔で一歩下がった。
「あ、あの……。助けてくれてありがとうございます。マーシャさまってどなたでしょうか」
エレニアが首を傾げると侍女はため息を吐いて答えた。
「大王さまのご寵姫ですわ。ここにいるのなら知っておくべき名前です」
侍女の言葉にエレニアはマーシャの言葉を何度も呟いた。
この悲しくて残酷な世界で、たった一人エレニアを気にかけてくれる存在がいる。それがエレニアにとってとても嬉しく、幸せなことだった。
母国でもエレニアを気にする人はいなかった。ゴミクズ同然に扱われ、血を分けた兄弟からも差別されてきた。
そんな自分を誰かが見守ってくれている。この幸せをエレニアは初めて味わった。
しまいにはぽろぽろと涙を溢すエレニアに侍女は困惑し、結局はマーシャの下へ連れてきた。
「……一体どうしたの?」
マーシャは顔が引きつった。泣いているエレニアが自分の部屋から出てきたと知れれば皆が虐めたと思うだろう。なんとかして誤解を解かないといけないとマーシャは焦った。
「他の妾に虐められているところを助けたのですが、ご覧の通り泣き止まみませんので連れてまいりました。マーシャさまがエレニアさまを気遣っておられるのでその方がいいかと思いまして」
侍女の言葉にマーシャは頭を抱える。
しかし、マーシャの頭痛とは裏腹にエレニアはわんわん泣きながら目をキラキラさせた。
「マーシャさま。本当にありがとうございます。私、なんでもします。どうかお側においてください」
彼女の発言はまさに青天の霹靂だ。
「何を言っているの。あなたは大王さまに見初められたのよ。あなたがお側にいるべきは私ではなくて大王様よ」
「ですが、マーシャさまは私を助けて下さいました。御恩のお返しがしたいです」
めげずにいうエレニアにマーシャは少し考えた後で答えた。
「……では、もし、私が大王さまのご不興を買った時に味方をして下さるかしら?」
「もちろんです!! どんな時でも私はマーシャ様の味方です!!」
エレニアは言い切った。
これで少しマーシャはホっとした。
あとは泣き止ませるだけだと考えて、美味しいお菓子とお茶でエレニアを歓待した。
そしてこの噂は後宮中に広まった。
「新参を虐めた妾をマーシャさまが咎めたんですって」
「そしてその新参を部屋に招いてもてなしたんでしょう? マーシャ様って公明正大でおやさしい方だったのね」
その話は後宮を飛び出してガルデスのいる外宮殿にも届いた。
「はは、マーシャは度々驚きをもたらしてくれるな」
「洪水や干ばつへの金言のみならず、後宮内の諍いすらも治めて下さるとは、ただの妾にしておくのは勿体ない才覚でございます」
レイゾンが言った。それには他の重臣たちも頷いた。ギオニスを襲うであろう災禍を予測し、最適な対処までも提案する。
「……ふーむ。位を与えるとしたらどうすればいいだろうな?」
ガルデスの発言に皆が真意に気づいた。しかし、その気持ちも痛いほどわかる。マーシャはたの妾でしかない。いくつかの助言でギオニスを救ったがそれは大王の寵姫という立場からだ。
「……恐れながら、マーシャ様を正式な妃となさるのがよろしいでしょう。我がギオニス王国に妃の慣習はございませんが、マーシャさまならどれも文句をつけようがございません」
大臣の一人が意見する。彼は干ばつ被害のあるザーリデ地方の出身だった。民が飢えることなく、青く茂る農作地を見た時は涙が出た。
「私も賛同いたします」
次々と声が上がる。
ガルデスはそれを見て嬉しそうに笑った。
■
新参の妾は月の女神が最も輝く満月の日に召されると決まっている。
マーシャはその日を苦しい気持で待ちわびた。
エレニアに会えばもうガルデスはマーシャの下に来なくなる。そうすれば、ようやくこの苦しい心に終止符を打つことができるのだ。
しかし、ガルデスは人の気も知らないで毎日、マーシャの部屋に来る。
「マーシャ。これはリュスの商人が持ってきた珍しい宝石で朝と夜とで輝きが違うのだ」
「あ、ありがとうございます」
マーシャは輝く宝石を困惑した顔で受け取った。なぜなら、この素晴らしい宝石はガルデスがエレニアにあげるものだからだ。貴重な宝石を献上されたガルデスはそれにふさわしい妾がいないからと宝物庫に保管してしまうのだが傲慢なマーシャはいくどとなくガルデスにねだり、ガルデスはそれを跳ねのけるのだ。そして、エレニアに恋したガルデスは彼女にこれを渡し、怒り狂ったマーシャがエレニアを虐め始めるのだが……。
(なぜ私に!?)
マーシャは信じられない気持ちで輝く宝石を見た。
「近頃はお前のおねだりがめっきりなくなって褒美を選ぶのも一苦労だ。何か欲しいものはないのか? お前の助言で国は救われたのだ。なんでもよいぞ」
ガルデスの言葉にマーシャはようやく納得がいく。
(たしかに干ばつと洪水で本来なら大被害を被っているからご褒美ってことね。でも……いずれエレニアに与えたいと思うかもしれない)
「この貴重な宝石、頂くのは分不相応でございます。しかるべき方が現れた時までお預かりいたします」
「ふーむ。本当に謙虚になったな。以前なら大皿一杯に乗るほどの宝飾品や絹織物をねだったのに、ずいぶんと変わった」
「今までが恐れを知らぬ傲慢な行いだったのです」
「それに気づいて反省することが素晴らしいのだ」
「恐れ入ります」
「マーシャ。お前は日に日にやつれているな。医師が言うには気鬱が原因らしい。私はどうすればお前を元気にしてやれるだろうか」
ガルデスの手がマーシャの頬を撫でる。青い優しい目がマーシャを見つめた。
「……十分にしていただいております。これ以上は何も望みません」
マーシャは目を伏せて言った。
「そうか。本当に無欲になったものだ」
ガルデスはそう言ってマーシャの頭を撫でた。そして侍従に明かりを消させ、マーシャの寝台に寝転ぶ。
もはや恒例となったそれにマーシャは何も言えなくなっていたが、美しいプラチナブロンドや青い目、笑いかける顔や声がもうすぐ手の届かないものになってしまうと思うと、辛くてたまらなかった。
そしてとうとう満月の日が来た。
「今日、ようやく新しい妾が召される日ね。でも、いまさらどんな妾が来てもマーシャさま以外に大王さまが興味を持つと思えないわ」
「本当よね。それに妾の子はマーシャさまのお気に入りでしょう? もし寵愛を受けたとしてもマーシャさまの身内同然だし、お立場が揺らぐことはないわね」
妾達はもはや寵愛を受けることを諦めてマーシャの支持に回っていた。
マーシャの侍女たちも今度は余裕をもって噂を聞き流していた。
その夜、マーシャが高熱から復帰して以来、初めてガルデスが部屋に来なかったが、それは慣例に過ぎないと皆がわかっていた。
しかし、マーシャは違う。
「これで私は彼から捨てられるのね……」
何も目的を持たず、生きた屍になるしかないのだろうか。
■
次の日、ガルデスはマーシャの部屋に来た。侍女たちは当然とばかりに準備を滞りなく済ませており、驚いたのはマーシャだけだ。
「だ、大王さま? 一体どうして……」
「昨日は慣例ゆえに新参と過ごしただけに他ならん。私は私が過ごしたいところを選んだまでだ。さあ、マーシャ、美味い料理を作らせたから一緒に食べよう」
マーシャは驚きすぎて思わず大きな声が出た。
「エ、エレニアは? 大王さまは彼女を見初めたのではなかったのですか!?」
「うん? 物珍しさで後宮に入れただけだぞ。しかし、面白い娘なのは確かだ。昨夜はずっとお前の話で私と意気投合していたからな」
「え……? お話ですか……? しかも私の?」
目を丸くするマーシャにガルデスは笑う。
「疑うなら本人を呼ぼうか。おい、エレニアを呼んでまいれ」
ガルデスの命令でエレニアが呼ばれ、桃色の髪の少女は目を輝かせてマーシャに拝謁した。
「マーシャさま!! お会いできてうれしいです!!」
「エ、エレニア。大王さまに礼を取るのが先よ!」
思わずマーシャが口を出す。しかし、ガルデスは笑ったままだ。
「よいよい構わん。昨晩、エレニアからどれだけマーシャの事を敬愛しているかを聞かされていたからな。咎める気も起こらないさ」
「ご理解して頂いて大変ありがたく思っております!! ここにいる妾はすべて大王様を敬愛しないといけないと教えられましたが、私の一番はマーシャ様ですと大王さまに申し上げているのです!!」
エレニアは堂々と、そしてどこか誇らしげに宣言した。
「え……?! あ、あなた。大王さまに一目で恋に落ちたのではない……の?」
苦労を重ねたエレニアが自分を必要としてくれた人に恋の落ちる……はずだ。
「え? あ……そうですねえ。 ゲルシガで大王さまに求められてとても嬉しかったのですけれど、マーシャさまに救われてから身も心もマーシャさまのものなんです!!」
エレニアは満面の笑みで言った。ガルデスはうんうんと頷いている。
「マーシャ、昨晩はエレニアと私、どちらがマーシャを好いているか言い合っておったのだ。もちろん、長い付き合いである私が勝利したがな」
「うう……。大王さまのマーシャさま愛に屈服するしかありません。悔しいけれど完全に負けました……」
しょんぼりとエレニアは肩を落とす。ガルデスは子供っぽい笑顔で笑った。
「マーシャは私の寵姫だから諦めろ」
「くぅ……マーシャさまの一番にいつかなります」
エレニアとガルデスは楽しそうに軽口を言い合う。飾らない自然な会話は二人の親密さを感じさせるものだが、そこにマーシャの想定していた『愛』はなかった。
「そんなにじっと見つめてどうしたのだ?」
ガルデスがマーシャが困惑していることに気づく。
「いえ……その、大王さまとエレニアは……お似合いだと思っておりましたので……」
マーシャが歯切れ悪く言うと、ガルデスとエレニアの目が点になった。そしてガルデスは吹き出すと笑い始めた。
「あははははは!!! そうか!! エレニアと私は似合いか!!!」
ガルデスは楽しそうに笑い、対してエレニアは大慌てだった。
「わ、わたしが大王さまとお似合いなわけないじゃないですか!! ガルデスさまも笑ってないでちゃんと言って下さいよ!」
「ふふふふ!!!」
ガルデスはひたすら笑った。
彼の笑みが何を意味しているのかその場にいる誰一人分からなかった。マーシャはいつのまにか手が震えていることに気が付いた。
思わずうつむくマーシャにガルデスの逞しい腕が伸びる。彼はすっとマーシャを
抱き寄せた。
「確かお前は気鬱だったな。もしかして私の寵愛がエレニアに移ると気をもんでいたのではないか?」
図星を刺されてマーシャは顔が青くなる。これ以上、胸の内を知られたくなくてマーシャは腕から逃れようと身をよじった。
「ふふ。逃げるなマーシャ。エレニアに嫉妬していたのだな? 私の寵愛を傘に好き放題やっていたお前が性格が変わるほどに心を揺るがすとは、私は相当愛されているらしい」
ガルデスはマーシャを二本の腕で抱え込むと、その頬に口づけをした。
マーシャの顔が真っ赤になり、驚きと恥ずかしさで真ん丸な目に涙が浮かぶ。
「だ、大王さまっ……!! 恥ずかしゅうございますっ!」
「はは。以前はお前から口づけをしていたのに恥ずかしがるか。マーシャよ。お前は嫉妬するほど私を愛していたのだな」
ガルデスは明るく笑った。太陽のように輝くその笑顔にマーシャは見とれてしまい、胸がときめく。
そして、自分の恋が永遠のものでないことに絶望する。
「……大王さま。御戯れはよして下さいませ。私は大王さまの妾の一人でしかありません。特別な存在になりえないのです」
マーシャが声を絞り出す。
寵愛がなくなれば見捨てられる。それが分かっているのに、道化のように笑ってなどいられない。
ガルデスはマーシャの感情の吐露を驚いた眼で見ていた。そして彼はエレニアに言った。
「エレニア、もう下がってよい」
「は、はい!」
エレニアはぺこりと頭を下げて部屋から出て行った。
「マーシャ。ここには二人だけだ。何を言っても罪には問わん。お前の思っていることをすべて話せ」
ガルデスはマーシャに言った。
「……恐れ多いことですわ。先ほどはご無礼を致しました」
マーシャは力なく言った。愛していると伝えたところで何が変わることもない。マーシャは妾として存在するだけだ。
「マーシャ、私はお前の意思を聞きたい。お前が何を思ってどうしたいのかを知りたいのだ。私はギオニスの大王でそのすべては私のものだが、心まで支配できるとは思っていない」
ガルデスの言葉にマーシャは目を見開く。その言葉は、『ギオニスの花園』でガルデスがエレニアに告白するときのものだ。
「マーシャ。お前は私に楽しみを与えてくれた。お前の声を聞くと耳が喜ぶ、顔を見ると目が喜ぶ、そしてお前と一緒に過ごすと心が満ち足りるのだ」
ガルデスはそう囁きながらマーシャの黒い髪を一房掴み、そこに唇を落す。
「私はお前を愛している。そして私はお前を妻に迎えたい。妾という存在ではなく、永遠に愛する妻としてお前とこれからを歩んでいきたいのだ」
ガルデスは顔を上げ、青い目をマーシャに向けた。
ぽろぽろとマーシャの目から涙がこぼれた。
「っ……!! 大王……さま。私は……」
愛している。その言葉がどうしても言えなかった。マーシャが愛されるはずがないという考えがどうしてもぬぐえないのだ。
だが、ガルデスはマーシャを問い詰めることはなく、やさしく頭を撫でた。
「急なことで驚くのも無理はない。安心しろ、お前の気持ちが固まるまで待つつもりだ。それまでは自由に暮らすがいい」
ガルデスの言葉にマーシャは疑問に思って顔を上げた。
「自由……でございますか?」
後宮の女に無縁の言葉だ。
「明日をもってお前は妾ではなくギオニス人として戸籍を持つ。財務大臣エルティマールを養親とし、ギオニスの重臣の娘になる。そして私はその娘に求婚するつもりだ」
ガルデスの提案にマーシャはぽかんと口を開けた。
「求婚……?」
「ああ、豪華な贈り物を持って毎日お前の下に通おう。そしてお前を私の妃にする」
ガルデスは楽しそうに笑った。
「そ、そんなこと……」
できるはずがない。きっと皆が反対する。マーシャはそう言いかけたが、ガルデスの目は決意を秘めた強い輝きを持っていた。
「愛してるぞマーシャ。こうやって夜を共に過ごすことはなくなるが、すぐにまた私の腕の中に取り戻して見せる」
ガルデスはぎゅっとマーシャを抱きしめるとそのまま寝台へと身体ごと運んだ。灯を消した暗がりでガルデスは子供のようにはしゃぐ。
「明日が楽しみだ。特に財務大臣はお前に傾倒しているから、養親の話を大喜びしていたぞ。夫人も娘が欲しかったらしく、部屋の準備に大張り切りだそうだ」
■
マーシャは盛大な式をもって財務大臣エルティマールの養女となった。エルティマールはマーシャに助言の事をひたすら感謝した。夫人のザフィーはマーシャを温かく出迎え、まばゆいばかりの宝飾品が入った箱を贈った。
そして、ガルデスは宣言通りに毎日、熱烈な恋文と贈り物を届けた。
『愛するマーシャへ。お前と過ごす食事の楽しさに思いをはせている』
『愛するマーシャへ。今日の議会で皆がお前の立后を希望していた。私も同じ気持ちだ。ここにお前と並んで座れたらどれほど素晴らしいだろうか』
『愛するマーシャへ。花園に実が付き始めた。咲き誇る花を共に愛でれたらと願う』
マーシャは読むたびに心が揺れ動いた。
ガルデスに憎まれるかもしれないという恐れは、彼の愛のこもった手紙で日に日に薄れていく。
そして、ガルデスの髪、笑顔、声……そのどれもが恋しくて会いたくなる。
マーシャはついにガルデスの愛を受け入れることに決めた。ガルデスを忘れることは絶対にできないとわかったからだ。怖くないと言えば嘘になるが、ガルデスにもう会えないことの方が嫌だった。
エレニアとはどうなるかわからないが、今の私と彼女ならきっと良い関係を築けるだろう。
「使者殿。大王さまにお受けすると伝えて下さい」
マーシャの言葉に使者は満面の笑顔で礼を言った。
後宮に舞い戻ったマーシャだが、宮殿丸ごとがマーシャの居住区になっていた。そして、マーシャが知らなかったことがまだあった。
後宮は解体されて妾達は宮女として王宮の勤め人になったのだ。結婚も許されて幾人かの妾は有力貴族や将たちと幸せな新婚生活を始めている。
エレニアはなんとレイゾン将軍と結婚していた。彼女が言うには、「マーシャ様談義でレイゾン将軍と意気投合したんです! 彼も中々のマーシャ様信望者でした!!」とはしゃいだ手紙を送って来た。本当は会いに行きたかったらしいのだが、ガルデスが嫉妬するから遠慮したのだという。また、エレニアの母国は革命が起きて豊かなギオニスの属国となったらしい。レイゾン将軍が総督として治めてエレニアはそれを補佐しているとのことだった。
マーシャはその知らせを聞いて肩の力が抜けた。ここはマーシャの知る『ギオニスの花園』ではなく、新しい世界なのだと理解した。
「愛するマーシャ。ようやく私の元に戻って来たな」
ガルデスは笑顔でマーシャを出迎えた。
「はい、大王さま」
いつもの癖で礼を取るとガルデスはマーシャの肩を掴んで止めた。
「マーシャ。天にも地にも私の愛する妻はお前だけとなる。ギオニスの王ではなく夫として私の側にいて欲しい。礼を取る必要もない、どうか『ガルデス』と呼んでくれ」
「……ガルデスさ……ま」
「ああ、そうだ! お前の夫のガルデスだ。愛しているよ」
ガルデスは愛しそうにマーシャを見つめて抱きしめた。強い力に引き寄せられ、マーシャはドキドキする。
好きだ。愛していると熱烈な告白の雨を受け、マーシャは小さくつぶやく。
「私もです。ガルデスさま」
前世の記憶に縛られていたマーシャはようやく悪夢から解放され、ガルデスと幸せな結婚をした。
民から愛される二人は国を繁栄させ、偉大なるギオニス帝国の礎を築いた。
そして、ガルデスの愛は枯れることなくマーシャ一人に注がれ続けた。二人の愛は伝説となり、後世の恋人たちは愛を誓うときに二人の名を出す。
『偉大なる帝王ガルデスの名において、慈愛深き美しきマーシャの名において、永遠の愛を誓う』と。