症例:猟犬その2
新しい年度の始まりを教えてくれる桜が散り少しずつ緑が増えてきた道を歩く私の脳内は憂鬱という文字で埋め尽くされていた。
クラスメイトの大半はもう友達ができているというのに私には未だ1人も近づいてきてくれる人がいないし、私も1人で集団に話しかける勇気はない。
学生の本分は勉強にある事は勿論わかってる、でも私だって青い春を過ごしてみたい。
学校が近づくにつれ周りには同じ制服に身を包んだ人たちが増えてくる、その誰もが奇異といった視線を向けてくる気がする。
お母さんやお父さんはそんな事ないと笑ってくれるけどやっぱり私にはそう感じる。
イジメられてる訳じゃない、私の周りにも今のところイジメのようなものは見えない。
けど、そう見られているように感じた時点で私にとって周りの視線は敵対視されているように感じられるものなんだから。
学校の授業は今のところ着いていけている、分からないところはクラスの真面目くんが質問してくれていて私もついでに理解できた。
ところどころ文句を言いたい先生もいるけど、それはクラス全員がきっと同じことを思っていると思いたい。
休み時間になるとまず周りを見渡してみる、周りのみんなはすぐ仲のいい人たちで固まって有意義な休み時間を謳歌しはじめた、何人か視線がぶつかった気がするけどすぐに目を背けられる。
やっぱりだ、私はきっと避けられている。
この後の学校生活は、地の文だとしても語りたくない。
それに今のこの話はおじさんに話すために過去を振り返っているだけなんだから別にここまで詳しく思い出す必要はない必要はないはずだ。
時間は飛んで放課後のことだ、私はいつものように一人で帰る準備を進めていた。
周りからはこの後どこで遊ぶー?みたいな浮かれた声が聞こえてるけど気にしてない、気にしてない。
家に帰ってもどうせ二人とも忙しいだろうし本屋さんにでも行こうかなと頭の中で考えながら教室を後にした。
校門の辺りが少し騒がしい気がする、人混みができているそこに歩いていくのは少し躊躇われるけどいつまでも学校にいても面白くないし端っこの方から少しずつ外へと向かう。
何故か異臭が鼻についた。
学生のみんながなにに騒いでいるのかがわかった、朝はいなかったけどホームレス?みたいなおじさんが校門近くに立っていた。
二日酔いのお父さんが出てきたあとのトイレみたいな匂い、酸っぱい感じの異臭。
薄汚れた上着のフードで顔を少し隠しているけど遠目で見ただけでもおじいさんとわかるご年齢だ。
誰かに話しかけるわけでもなく、ずっと校門の方を睨みつけている。
その人と目があった。
それはそうだ、私は校門から出ようとしていておじいさんの方を見ていたし、おじいさんは校門の方を睨んでるんだから。
その目がすっと細くなった、背筋に少し冷たいものを当てたみたいに少し身体が固まる。
この視線はなんの視線なんだろう、敵視?少し違う気がする。
笑ってる?私を見て、喜んだように笑っている。
怖い、単純に理解できない恐怖から私はすぐに駆け足になって走っていった。
後ろから低い声が聞こえた、おじいさんの物かと思ったけど振り返ったら先生たちだ。
少し安心したけど、心細さはまだ残っていた。
本屋さんに立ち寄る気にもならなくてまっすぐ家に帰ろうと進路を変えた。
あんな事があったんだ、自分に危害とかそういうのが無くても怖くなって家まで真っ直ぐ歩いた。
「……いた」
帰り道、私は本当に真っ直ぐ歩いていた。
なんなら少し駆け足だった、学校から自宅までの最短距離を急いで帰ってたのに。
目の前にあのおじいさんがいた。
「ひっ!」
自分でも情けない悲鳴が漏れた、おじいさんの目を見てしまった。
こっちを真っ直ぐ見て笑ってる、異臭が更に鼻を突く。
少しずつ近寄ってくるその人への嫌悪感が隠せない。
「……やっぱりいた、合ってたんだここで合ってたんだ」
学校指定の薄い鞄を盾みたいに持って後ずさりする私とまっすぐ歩いてくるおじいさん。
私を狙ってる、なにが目的かはわからないけど私に危害を加えようとしている。
走った。
助けて!とか嫌だ!とか発音できてたかわからないけどそんな事を口から発しながらひたすら走った。
振り返りたくない、だって足音みたいな衣擦れみたいな音がおじいさんの気配がずっと着いてくる。
放課後のこの時間帯なら私と同じ学校の生徒とか近所の人たちがいてもおかしくないはずなのに誰もいない。
まるでおじいさんと私以外この辺りにいないんじゃないかって感覚に陥りながら、長い時間走った。
喉が渇く、肺が痛い、涙が止まらない。
助けて、誰か助けてよ!
けど、私のそんな心の叫びみたいなものなんて知らないと言った感じに私はつまづいて転んだ。
膝が痛い、肘も痛い、振り返らずに鞄をやたらめったに振り回した。
当たった、おじいさんのなにかに当たった、でもこっちに手を伸ばしてくる、嘔吐物みたいな匂いが目にしみる、痛い痛い。
おじいさんの手が私の手に触れた。
「……ごめんね」
おじいさんはそれだけ言うと離れて行った。
「……?」
おじいさんの後ろ姿を見て泣きながら地面に転がっていた私は少し惚けてしまった。
理解できない。
この小説が念の為のR-15からR-18になるかもしれないと思っていたのにそんな事は起きなかった。
でもこの時の私は助かったっていう安堵感から、ずっと泣いていた。
結局、ずっと泣いている間誰も私に声を掛けてくれる事はなく。
警察に行けば良かったと考える頭もなく涙をハンカチで拭いながら立ち上がった。
帰ろうと前を向いた。
ご近所さんの家の塀から煙が燻っている。
火事かと思って声を上げようとして気づいた、塀の前、道から煙が上がっている。
道でも無い……?
まるで塀と道の境目から煙が上がっているように見えた。
異臭が鼻を突く、目が離せない。
さっきまでいたおじいさんと同じ匂いだと今更わかる。
煙からぬらりとなにか舌のようなものが這いずり出てきた、舌だけじゃない。
脚が生え始めた。
私はまた走り始めた。
水の滴るような音がしたと思うと持っていた鞄が軽くなった。
違う、鞄が無い。
私は逃げた、家へと急いたけど。
鍵は鞄の中だ、引きちぎれたと思う鞄の中だ。
悲鳴をあげながら逃げた。
どれだけ逃げただろう、周りには街路樹だけがあった、ここは何処だろうと考え始めた時。
電子音が鳴った。
驚いてそれをブレザーのポケットから引きずり出す。
買ってもらったばかりのスマートフォン、そこに映し出された名前は毒島下弦。
おじさんの名前だった。