暗がりの愛で満たされた話
物語のヒロインは笑顔が素敵だから良いのであって。
勇気があって、温かな心の持ち主だから良いのであって。
愛されるだけの理由があるから、ヒーローが現れるのだ。
秋空のように青青とした髪をはらい、マリナは硬いベッドから身を起こした。
少し身じろぐだけで舞った埃を無感情にしばし眺め、薄らと日の差し込む小窓に視線を移す。ひび割れた硝子越し、寒い季節を過ぎたのだと知らせる花の蕾を見付けた。咲くまで見届けるのは、孤児であったマリナが実の父親だという男に引き取られてから次で五度目になる。
伯爵の身分を持つその男は平民の娘であったマリナの母と一時関係を持った。そうして一年と経たない間にマリナを身篭ったことが分かると、未だ妊娠する気配の無い妻の怒りを怖れて連絡を絶ったそうだ。
それから十年後、病魔に侵され死期が近いと分かった男は、自身が捨てた母子に一目会いたいと願った。しかしマリナの母は産後に儚くなっており、父親どころか母親の記憶すら残っていないマリナだけが孤児院で見付かったのだ。
せめて娘だけでもと男は屋敷に連れ帰るよう命じ、病床に呼んだ。
「ああ、よく、似ている……その髪も、目の形も……」
懐かしむように細められた目を見返しながら、マリナは横たわった男が伸ばした手を受け入れた。肩下まで伸びた髪をそっと撫でられる。
何の病気か、さほどやつれてはいないが顔色が悪い。どんどんと浅くなる呼吸に、背後に立っていた伯爵夫人が主治医の名を叫んだ。
難しい表情で脈を取る医師に、この日初めて会った『父』である男は自嘲の笑みをやる。
「もう、良い……。きっと、これは罰なのだ……。許せ……マリナ……」
『「許せ……マリナ……」そう言って力尽きたように父親が目を閉じたその時、黄金の光が二人の繋がれた手に宿る』
マリナの脳裏にふっと過ぎった一文が、しかし現実となることはなかった。
同日、数時間前。
伯爵家からの迎えの馬車に乗り込む寸前、片足を乗せたその瞬間に別世界の記憶が少女の頭に流れた。
放課後に通う図書館で毎日閉館時刻まで残っている『私』。
誰かが忘れていったゲームのストーリーブック。
見慣れない構成のそれは読んだことの無いジャンルで、『乙女ゲーム』というのだと後に知る。
魔法の学び舎を舞台に魅力的なキャラクターや動物が登場し、恋愛だけでなく友情を育んだり魔法を生かした多彩なイベントなども盛り込まれていた。何より、可愛らしく華やかな絵柄に引き込まれて夢中でページを捲り、読み終えるまでの数日間は忘れ物として届けずに図書館内に隠した。
夢のように輝いた世界。
登場人物誰もに救いがあり、彼らの中心には笑顔の少女。
純白の制服と青い髪を靡かせた――ヒロイン『マリナ』。
崩れ落ちるように座席に腰を下ろし、どうして、と『マリナ』になった少女はまず思った。
だって、物語のヒロインは笑顔が素敵だから良いのであって。
勇気があって、温かな心の持ち主だから良いのであって。
それは自分じゃないのに――と。
馬車に揺られながら目的地を思う。
自分は今から、実の父の手を握って涙し、初めて『光の魔法』の使い手であることを知る。そして父を助けてからは気難しい義理の母や弟と打ち解け、進学先では悩める生徒達を助け、切磋琢磨し成長してゆく。
彼らの設定やシナリオ――救い方は、おおよそ知っている。
だけど。
「許せ……」
その言葉に、マリナの胸はもや、とした。
「……」
「ぐ、うぅっ……」
「あぁっそんな! あなた!」
「旦那様……!」
「許せ」の言葉一つで自己満足するのではなく。
ただ過去を懐かしむだけでなく、後悔と、母がもう居ないことへの悲しみと、――自分への愛情を、ほんのひとかけら見せてくれたら。
マリナの両手は行儀良く体の両側にある。
『光の魔法』が出現する切っ掛けであるヒロインの始まりのエピソードを蹴り飛ばした少女に、輝いた世界は待っていなかった。
物語のヒロインは笑顔が素敵だから良いのであって。
勇気があって、温かな心の持ち主だから良いのであって。
そうではないマリナはヒロインの位置には居られず、義理の母に修復が不可能なほど嫌悪され、屋敷から離れた納屋へ軟禁された。多少人が住みやすいように手を加えられたが、『野宿よりはマシ』な程度だ。
寒さ暑さに耐えるのは慣れている。今の人生よりも前から。
腐っていない食事を用意してもらえることに感謝しながら、年齢に比べ細く小さな手がパンをちぎりスープに浸した。
「余っているから分けられるし、溢れているから惜しくないのよ」
パンも、スープも、愛情も。
これがマリナの正直な考えだ。
無いものは出せない。持っていないと渡せない。持っているそれが沢山じゃないと見返りを求めずに与えられない。
光の魔法はヒロインの美しい心が生み出す。
きっとその心は愛を知っていて、許しを知っていて、正しさも知っているのだろう。
食事の手を止めたマリナはぼう、と空中を見やってヒロインの心について考えた後、「早すぎた」と呟く。
図書館で読んだ本のことも、その時歩んでいた人生も、今際の際に思い出したかった。そうしたらきっと家族や友人に囲まれ、別世界の人生の分も愛を抱えて旅立てたのではないだろうか、とマリナは詮無いことを考える。
しかし、別世界の記憶など無くとも自分はこうなっていたような気もする、と思い食事を再開した。
空の食器を回収しやすいよう扉の近くに置き、何をするでもなく小窓の傍に立つ。映るのは曇り空の様な灰色の目だ。この目に孤児院を思い出すのは表情がみな似通っていたからだろう。自分を含め、あそこで暮らしていた子供達の目には諦めか飢えが滲んでいた。
とにかく金が欲しいと口にする者が多かったが、マリナが欲しかったのは愛だ。
ゲームのヒロインを思い出す前から、きっと素晴らしいもので持っていることが正しいのだと疑いなく信じていた。
愛とはどんなものか、今もよく分からないけれど。
「欲しいな、私も」
湿気のこもった埃だらけの小屋にぽつりと落ちる願い。
その声に偽りは無かったが、しかし切実さも無かった。
自身の年齢を十四、五だと認識しているマリナは、記憶に有るヒロインのプロフィールに近い気がしていた。つまり、そろそろゲーム本編のシナリオが始まる頃ではないかと。
けれども学校に通う予定は無いし、メインキャラクターの中で最初に親しくなるはずの弟とも顔を合わせたことは一度として無い。父の最期に居合わせたかもしれないが、鮮明に覚えているのは「疫病神」とマリナを罵る義母の姿だけだ。
母親違いの弟であるグリゼルダ――グリスは、自身に宿る膨大な魔力の制御がままならず、幼少期は精神が不安定だったと過去のエピソードにあった。彼を支えたのは姉であるマリナと、姉弟が先生と慕う家庭教師だ。
姉と家庭教師、二人の献身的な協力によってグリスは幼くして魔力の扱いを学び、精密にコントロールする才能を開花させてマリナと同時期に特例で入学を果たすのだ。
屋敷に来たばかりの頃のマリナは弟はどうしているのかと少し気にしていたが、納屋まで破壊音や悲鳴が聞こえて来なかったので家庭教師一人でどうにかなっているのだと納得した。同時に、自分一人居なくても世界は変わらないのだと、自分がヒロインである必要はないのだと理解した。
だから物語通り学院で騒ぎが起きても誰かがどうにかするし、きっと何とかなってしまうのだろう、と。
では、この先どうしようかとマリナは目を閉じる。
義母がいつまで此処に住まわすのか分からないが、実の父がマリナを娘だと認知してしまった為、捨てるにしても困るのではないだろうか。
マリナはなんの魔法も持たないやせっぽちの少女だし、きっと利用価値も無い。
「……食事が来なくなるかな」
気付いたら息絶えていた、という流れなら伯爵家に都合良く誤魔化せるかもしれない。
引き取った愛人の子は病弱で、別邸で療養させていたがその甲斐なく――とマリナは想像を膨らませ、何も役に立たなかった変わりにせめてひっそりとこの世界から退場しようとぼんやり思う。
かつて聞こえてくるのではと気にしていた破壊音、それに加え爆破音と窓が割れる程の衝撃にマリナが目を覚ましたのは、小窓越しに見えていた蕾が開ききった頃だった。
遅れて届いた悲鳴は次第に聞こえなくなり、それが何を意味するのか深く考える前に四散した納屋の扉へと意識を持って行かれる。
外が月明かり以上に眩しいのは、屋敷が燃えているからだろう。ごうごうという音と熱気、火の粉が風に舞っている。
魔法を使った強盗かとマリナは頭の隅で思った。ストーリーブックにそんなエピソードは無かったが、魔法は使い方次第なのだという台詞は覚えている。悪事に利用する方法はいくらでもあるのだ。
苦痛を伴う最期は、可能なら避けたいけれど。
無理かな、と感じたマリナの視界に、ゆら、と大きな影が扉のあった場所から入ってくる。
砂利を踏み入ってくる影は段々と人の形になり、顔が見える距離に近付いた時、マリナは
「グリス」
と無意識に呟いていた。
びく、と肩を跳ねさせた相手をまじまじと見詰め、マリナは驚く。
年下なはずの弟は、未完成だが立派な体躯をしている。記憶に有る身体つきとはまるで別人だったが、記憶通りの灰の髪に青い目というマリナとは逆の色に、彼女はそうとしか思えなかったのだ。
はっきりとは確認出来ないが、その顔付きも利発そうだと表現されていたものではない。マリナが知っているのはヒロインを嗜めるいつも冷静なグリスの姿だが、目の前に居る彼は野良犬の様だ。
その双眸には今にも咬みついてきそうな攻撃的な色と、そして――
「……誰だ……お前」
弟はこちらのことを何も知らないらしいと分かり、マリナは他意無く返した。
「お姉ちゃんよ」
「――!?」
野良犬から人間らしい理性ある目に変わったグリスに、彼の半歩下がった足に、そして自身で口にした言葉にマリナは初めての感情を持つ。
グリスは、私の弟。姉が、私。
「……本当よ。産んだ人は違うけど、私は血の繋がった姉なの。何の用?」
「な、ん……俺は……」
グリスの一人称はヒロインの前では『僕』だった。
公式設定との違いをまた一つ見付けたが、マリナは自分がヒロインの『マリナ』であることを思えば別人なのが普通かもしれないと思った。
マリナがこの五年ゲームのシナリオを掠りもしなかったように、弟もまた全く別の暮らしだったのだろう。でなければ、こんな目にはならない筈だ。
自分と色違いなだけの、愛を渇望する目には。
父親を失ったことを切っ掛けに著しく精神を乱したグリゼルダは、屋敷内が荒れるほど魔力を暴走させるようになった。母親は魔力操作に優れた人物を呼び寄せたが、誰もが「手に負えない」と匙を投げてしまう。
何が引き金になるか分からないグリゼルダの魔力の暴走に使用人は怯え、怪我人も後を絶たない。
終日鳴り響く破壊音に気が狂いそうになった母親がとったのは、息子ごと抑える方法だった。
罪人に使われる封じの魔法や手枷、足枷によって一切の自由を奪い、屋敷の地下に隠して目を背ける。実の息子に行ったその処置は、憎き義理の娘相手と大差無いと言えるだろう。
グリゼルダは自身を鎖で繋いで閉じ込めた母親を伯爵家ごと恨み、たった今焼き尽くして来た所だった。彼の両手には、次の獲物を探す破壊の魔法が真っ黒な霧となって揺らめいている。
彼にしてみれば、母に見捨てられ、檻の中に餌を投げ込まれるような生活に一変して精神が安定するはずも無い。発作のように体内で膨れる魔力と外からかけられた魔法に苦しみ、終わりの見えない地獄を幾度も味わった。
身の内に暴れ狂う魔力を制御出来るようになったのはつい最近だ。魔力に壊されぬよう器である体を鍛え、怒りで自我を保った。
苛立ちに任せた杜撰な復讐は魔法の威力だけは凄まじく、彼が数年過ごした地下諸共、屋敷を壊すことが出来た。
最後にふらりと寄ったのは物置で、幼少期に隠れたことが有ったような……と気まぐれに中に入ったのだ。まさか自身の居た地下牢よりも不衛生な場所に人が居るとは思わなかったグリゼルダは、愛称で呼ばれたことに動揺した。
そして、相手は姉だと名乗る。
禍々しい魔力を纏った侵入者に警戒心を示すことなく何の用事かと尋ねる少女の持つ色が、その表情が自分と似通っていると気付く。更には草臥れた衣服も、櫛で梳けなさそうなほどボサボサの髪も、だ。
「お前が、姉……?」
「『お姉ちゃん』」
「え」
「お前じゃなくて『お姉ちゃん』。もしくは『マリナお姉ちゃん』」
『姉さん』でもいいが、『姉上』や『姉貴』は何だか嫌だと言われ、グリゼルダは戸惑った。
自身を閉じ込める檻を壊し、貴族の義務など捨ててやると意気込んでいたのだ。自分だって母を捨てて出て行ってやる、これまでの思い出ごと粉々にして一人で生きてやると。
それなのに。
自分には半分血の繋がる姉が居て、何らかの理由で似た様な目に合っていた。
恨みなど湧かず、いつの間にか両腕の黒い霧は消えてしまう。
「マリナ?……姉、さん」
く、とほんの少し眉を寄せられただけで、咄嗟に『姉さん』と付け足した。そんな自身に、従ってしまった口に内心首を傾げる。
不思議と逆らえないのは、彼女が本当に姉だからか。
マリナは弟の素直な態度に、まあいいでしょうといった様子で頷いた。
『姉さん』呼びはゲーム通りだ。『お姉ちゃん』の方がより姉弟らしいと思って勧めたが、さほどこだわりは無い。
グリスは突如現れた姉への対応に困っている。攻撃する気も無くなったらしく、こちらを窺うように見下ろしていた。
頭一つ分違う身長に、大人と子供ほど違う腕の太さに、マリナは少し迷う。けれど、大丈夫だろうと判断して弟を見上げた。そして身体の前で両腕を広げる。
「抱き締めてほしかったら、先に抱き締めて」
「――え?」
「私は、先に欲しいの。無いから。渡す分がないから、先に欲しい」
え?え?とまた半歩下がったグリスに、マリナから一歩踏み出す。
マリナは愛が欲しい。
ヒロインの心に溢れるほど在り、多くの人を癒す源が。
遠い記憶の自分も持っていないそれが。
「お姉ちゃんの言うこと聞けないの?」
「え、えぇ……?」
グリスの戸惑いが大きくなる。
彼の牙は抜かれきって一本も残っておらず、ゲーム内でヒロインに見せるどの顔とも違っている。弟のグリスは時に無謀な行動をとる姉を嗜め、呆れ、説教をするようなポジションだ。
今浮かべている困惑と羞恥の混ざった表情は、この世界のマリナだけが知るものだった。
「抱き締めて。そうしたら私も抱き締められるから」
愛が欲しいのだ。マリナはそれが、二人の人間の間に生まれるものだと思っている。
親子。夫婦。恋人。友人。
繋いだ手の間に。
抱き締めあった体の間に。
「先に欲しい。グリスはちょっと持ってるでしょう?先にちょうだい」
姉弟間でも、愛は愛だ。
何でもいい。愛情なら。
きっと素晴らしいものだから。
「くれた分だけ返すから」
相手が兄や姉なら、言い出すことは出来なかった。
マリナは甘え方を知らないし、頼り方も分からないから。
相手が妹なら、気を遣ってここまで強く出られなかったかもしれない。
だけど、弟なら。
ゲームよりもずっと逞しくて強そうなグリスなら、魔法を一つも使えない今のマリナに逆らうのなんて簡単だろう。
そして愛が足りないと叫ぶ目をしたこの子なら、少しだけくれるかもしれない。
「ん!」と催促された弟は、小さな姉に怖々腕を回した。痩せ細った身体をぽきりと折ってしまうのではと思ったのだ。
ほどなく不器用に抱き締め返され、知らず肩の力が抜ける。
一つ零れた彼の涙は青青とした髪に溶けて消えた。
「して欲しいことがあればグリスからして」と何故か強気で上から言う姉に、グリゼルダは素直に従った。
二人で当ての無い逃亡生活をしながら、手を繋ぎ、肩にもたれ掛かり、膝に頭を預けて眠ったりした。その度に地下牢で累積された怒りが減るような感覚に、凪いでゆく心に、彼は姉が必要だと自覚せざるを得なくなる。
姉が返してくれるてらいの無い愛情は心地良く、彼女と離れる想像がもう出来ない。
開き直って抱き締めて眠れば抱き締め返される。満足気な寝顔に、姉も同じ思いだと信じた。
まだ半年も経っていない姉弟付き合いで、マリナは弟が可愛いと感じるようになった。
伯爵家を離れてすぐ互いに髪を切ったのだが、肩下で切り揃えたマリナに対しグリスは額が出るほどばっさり鋏を入れた。頭がずっと重かったらしい。
そうして現れた顔はやはり目付きがあまりよろしくなく、表情も硬かった。人生は顔に出るものなのだなと関心し、自分も似たようなものだろうと告げたマリナにグリスは言いよどんだ後パッと顔を背けた。不快にさせたかと謝ったが、あれは照れだったのではとマリナが気付いたのは、グリスが「姉弟だし」「俺と姉さんは似てるから」と度々口にするようになった為だ。
自分との共通点を見付けると喜んでいるらしいところや、一度離れた手を気まずそうに再び握ってくる時。二人きりだと変わる口調、声のトーン。
そのどれもが可愛くて、ああこれはブラコンというやつだなとマリナは納得し、また自分がヒロインの公式設定から離れてしまったと他人事のように思う。
実家を燃やした逃亡犯だけれど、もしかしたら相当な人数を手にかけてるかもしれないけれど、マリナは弟のグリスに愛情を覚えている。この先ずっと日のあたる場所を歩けなくとも離れる気は無い。繋いだ手の間に、抱き締めた体の間に生まれた愛が心に溜まっている気がするのだ。
グリスは光の魔法を使えないマリナでも姉だと呼んでくれる。
マリナもグリスに清廉潔白な人柄は求めていない。
体調を気遣ってくれる、一つのパンを分け合ってくれる、先に抱き締めてくれる彼が弟であることが、とても嬉しい。
「マリナ姉さん」
「グリス」
輝いた世界から離れ、二人は身を寄せ合って世界を旅した。
物語のヒロインは笑顔が素敵だから良いのであって。
勇気があって、温かな心の持ち主だから良いのであって。
愛されるだけの理由があるから、ヒーローが現れるのだ。
旅の途中、船上で不意にそんなことを言った姉に、弟は何の物語かと尋ねる。
「昔、何度も読んだ話」
ふうん、と相槌を打った後、グリスはぼんやりと姉に視線を向け続きを待った。
潮風に流れる姉の髪は旅を始めた頃より少し伸びていて、自分の前髪も眉に触れそうになっていると気付く。後で散髪をしようと決めた時に姉の口が動いた。
「だから、私はなれなかったな、と思って」
「……『ヒロイン』?」
「そう」
なりたかったの、と訊きかけてグリスは開こうとした口を閉じる。
物語のヒロイン。ヒーローが愛する相手。
ヒーローを、愛する人物。
グリスはマリナの手を少しだけ強く握って自身の方へ引いた。
「俺の、……俺が、姉さんの、ヒーローになるから。姉さんの言うヒロイン像に当て嵌まらなくても俺は姉さんを選ぶし、ヒーローの俺に選ばれたなら姉さんはヒロインだろ」
「…………」
「なん……なに? 不満?」
「不満とかじゃ……」
「――俺の、ヒロインになってほしいから、言ったんだけどっ」
彼は姉が初対面で命じた通り、して欲しいことを先にしたらしい。「渡した分を返してくれないのか」と少し潤んだ目で訴える弟にマリナはパチ、と瞬いた。
「そっか。じゃあ、私はグリスのヒロインね」
「…………うん」
「ありがとう。なれたね、私。ヒロイン」
「……」
無言で伸ばされた拘束具の痕が残る腕に、マリナは目を閉じて納まった。考えるより先に動いた両腕で抱き締め返して、深い深い静かな場所に沈んでゆくようだと感じる。
この世界で多くのキャラクターをハッピーエンドに導くのは、マリナではない。
私はグリスというヒーローに選ばれて、二人だけのハッピーエンドで満足した。満足出来てしまった。
弟を道連れに、弟を唯一に、この愛を手放さずに――――きっと最期まで。
お読みいただきありがとうございます