ヒヒイロカネ 2
無数の過去
その中の一つはおよそ五億年前
現在本流となっている過去においてはオルドビス紀の頃に始まった。
そこは精神による物理干渉がごく当たり前に起こる過去
その中の一つはおよそ二億五千万年前
現在本流となっている過去においては三畳紀の頃に始まった。
そこはあらゆる事象が無軌道に変化していく過去
その中の一つはおよそ一万六千年前
現在本流となっている過去においては後期更新世の末に始まった。
そこは絶対的な存在により万物が容易に姿を変える過去
無数の過去はひとつの現在へ
ひとつの現在は無数の未来へ
永い時をかけて徐々に収斂した過去はやがて一つに収束し、また無限に拡散する。
短い人の命では知覚することすら叶わない無数の異なる過去
収斂の過程で名残すら消えて失せたそれは、今ではごく一部の鉱石の中に
そして永い時を生きるモノ達の記憶の中に
ただ僅かな残り香だけをおいてー
新潟県糸魚川市
憎しみと軽蔑の籠った視線
あの戦の直後であれば慣れっこだったが、あれから数千年を経ても未だにこんな剥き出しの憎悪を向けてくるのは彼女くらいのものだろう。
「高天原の巫女が一体何の用ですか」
「何度も申しましたが……私は別に天にも地にも属してはいません」
「どの口で……あの不心得者の為に星を読んでいたこと、決して忘れはしませんよ!」
「私に権力に逆らえる力があるとでも? あなた達は私を用いた。天もまた然りというだけの話です」
「あなたが裏切ったせいで私の息子は……!」
「あの戦で私に何が出来たと?」
「白々しい! 貴女の怪しげな卜占で奴等に勝利をもたらしたのでしょう!」
「星と大地の動きを読んで戦の芻勢にどう関わるというのです?」
ずっとこんな調子だ。
余程悔しいのか、自らの領域に引き込もって以降も天への怒りを隠すこともしない。
しかし、この怒りは反面として烈しくも情深い女神である彼女の内面をよく表している様にすら思う。
実際当時私が出雲勢に使われていた頃も、何かに付けて此方を気遣ってくれていたものだ。
きっとこれからどれ程の時を経ようと、彼女にとって私は単なる裏切り者なのだろう。
その事は残念ではあるが、今日彼女の元に来たのは仲直りをするためでは無い。
「奴奈川姫命……貴女の御子息から此方を預かっています」
私は強引に議論を打ち切る。
私と彼女だけであれば何百年でもこうしていられるが、生憎とがっさんたちが待っている。
「……なんと厚かましい」
奴奈川姫は私が手渡した手紙を読むと、吐き捨てるようにそう言った。
私と神格性事案の間柄は割りとドライな関係が多いが、諏訪大神こと建御名方神は私にとって友人と呼べる数少ない神格性事案だ。
神代の頃より諏訪の山中にて隠居同然の暮らしを強いられている彼は今目の前にいる奴奈川姫の息子である。
ヒヒイロカネ採掘の許しを得られるように一筆したためて貰ったが……あまり旗色はよろしくないかも……
「勝手に持っていけばよいでしょう」
「良いのですか?」
だが、意外にもあっさり許可が出た。
「貴方を許すわけではありませんし、人間共が翡翠峡を踏み荒らす事をよしとするわけでもありません。ですが……」
奴奈川姫は遠くを見つめるように天を仰ぐ
「筆致を見ればあの子が貴方を心から信頼していることくらいはわかります」
「……御厚配に感謝します」
「用が済んだのであれば早く戻りなさい……」
踵を返した彼女の肩は少し震えて見えた。
無理もない……
諏訪と糸魚川、現代においてはさほど遠いとは言えない距離ではあっても、厳とした天の監視がある以上顔を見ることも声を聞くことも……それどころか直接の文のやり取りすら許されない我が子からの手紙である。
子を持つ母の気持ちなどは解りようも無いが、それでも思い描くことくらいは出来る。
「姫命……今度は古い友人としてまた会いに来ます」
彼女の背中に言葉を投げて私も皆の元へと歩き出す。
彼女からの拒絶は、無かった
「それって……第四紀大収束ですよね? それとヒヒイロカネに何の関係が?」
説明を受けた小笠原研究員が疑問を投げ掛ける。
「それではもう一度ヒヒイロカネの組成について思い出してみてください」
諏訪医師は穏やかに言う
「ヒヒイロカネの組成……あ!そういうことですか……金と翡翠輝石……!」
「そういうこと!第四紀大収束によって発生した大量の余剰エネルギーが作用して超常的変異を起こしたとびっきりのレアな鉱物だよ」
「あ、博士!お帰りなさい」
「ただいま」
藪の中から出てきた千人塚博士が諏訪医師から説明を引き継ぐ
「金と翡翠は元々超常エネルギーに対して電池みたいな作用をする特性があるからね、その影響とこの辺りの環境が作り出した素晴らしい作品だよ」
「環境……ですか?」
「そう、高位の神格性事案の領域」
「はぁ……」
「うーん……ピンと来ない?」
苦手分野の話を振られて苦笑いで返す小笠原研究員に少し呆れた様な表情を向けた千人塚博士は、ともかくと話を変える。
「許しは得たからね! 元気に土木作業と行こう!」
姫川の支流に沿って深く大地を切り裂き続く渓谷
100tを優に超える巨大な翡翠が転がり、翡翠峡とも賞されるこの場所ではあるが、その実としてあくまでも翡翠峡の入り口に過ぎない。
寺社で言うところの仲見世通り程度である。
私達が目指すのはその更に奥、許しを得なければ認識する事すら叶わない真性の『神域』だ。
「博士……落っこって死んでも知らないですからね?」
ショベルカーのショベルの部分に乗ってルンルン気分の私に藤森ちゃんが冷たい視線を向けてくる。
「へーきへーき! 全速前進面舵いっぱーい!」
何せこんな機会でも無ければそうそう乗れないだろう。
見晴らしが良くって素晴らしい!
「面舵……ああ右ですか、了解!」
「まった! 田島くん今の無し! 真っ直ぐ行って!」
ショベルカーを運転する田島くんに慌てて訂正する。
彼は見た目に似合わずとても器用だ。
鍵針編みから12式地対艦誘導弾の操法まで何でもこなせるナイスガイである。
そのギャップが佳澄さんに刺さったのだろうか?
「うん、そろそろかな……?」
評するのであれば水墨画に描かれる仙峡
移ろいゆく大地の営みそのものの雄大さはしかし、移り行く時を惜しむかのような寂寥感さえも感じさせる。
「これは……なんとも見事な……」
好奇心バカの諏訪先生まで息を呑んでいる。
「なんと見事な認識阻害作用……! 誰か、誰か脳を提供してください! 作用機序の解明を……!」
うん、彼に風流を期待した私が愚かだった。
羽場君にアイコンタクトを送る。
小さく頷いた彼は手早く鎮静剤を諏訪先生に注射し、物陰へと引き摺っていった。
「こんなとこに来てまで役立たずにならないでほしいよ……」
「博士……凄いです……」
そんな諏訪先生の姿にも気付かない程に目を輝かせた小笠原ちゃん
そういや、彼女も大概ー
「こんな綺麗な場所……初めてです……! 凄い……」
良かった、彼女はまだ手遅れでは無さそうだ。
というか、諏訪先生以外は皆この美しい景色に引き込まれている様である。
良かった。うちに頭のおかしい子は一人しかいないみたいだ。
「はい! 皆ちゅうもーく!」
美しい景色に心震わせるのは大変素晴らしい事だが、今日は目的があってここに来ている。
「これから注意事項の説明をするからしっかり聞くように! 大嶋くん、例の物を」
「はい、かしこまりました!」
人数分の冊子を抱えた大嶋くんが笑点の山田君よろしくそれを配っていく。
神域内での作業という特殊な状況下だ。
いくら彼等が優秀でも、しっかり必要事項を確認する必要があるだろう。
私はその為にこの冊子を作ったのだ。
タイトルは……
「遠足の……」
「しおり……?」
なんだろう……みんなの視線がちょっと冷たい。
「えっと……あっ! 佳澄さん用に点字版もありますよ!」
「ふふっ、お構いなく……彼に教えて貰いますので」
田島夫妻は田島夫妻でなんかいちゃついている。
周りからの揶揄うような声や嫉妬風の野次のお陰で凍てついた空気が少し緩む。
「まあ……その、なんだ……ええと、タイトルは置いといて、中身はしっかり作ってあるから!」
みんなの安全のみならず、高位の神格と『機構』の関係性にも影響する可能性がある以上、そこに関しては妥協無く作ってある。
基本的に掘削は禁止、取り過ぎは禁止、谷川に土砂を流出させない、騒音は極力立てない、喧嘩はしない、皆仲良く、おやつは300円まで(バナナ含む)etc…
「確かに所々悪ノリしている部分はありますが……」
「資料としての必要事項をしっかり抑えてるとこが猪口才ですね」
羽場君と藤森ちゃんが言う。
褒め言葉として受け取っておこう。
「それじゃ、感謝を込めてお祈りしてから作業開始!」
長野県大町市 甲信研究所千人塚研究室
糸魚川市への遠足……もとい、採掘作業から二週間後、完成したレールガンの試射に立ち会っていたがっさんがホクホク顔で帰ってきた。
うん、成功だったようだ。
「博士! 大成功です!!」
「うん、その顔見れば分かるよ」
超伝導体を利用したレールとヒヒイロカネによる弾体が揃った以上元の形に拘る必要は無いと、がっさんは新兵器をレールガンの形式で作成した。
基礎理論が固まっているとはいえ、これだけのスピードで試射まで漕ぎ着けるとはとんでもないスピードだ。
大規模な設計変更ではあったが、深夜のテンションで依頼を出した負い目から理事会がケチを付けてくる事は無かった。
それに関しては六角、十河両理事を問い詰めて聞き出した事なので特に心配はしていなかったが……
「なるほどね……ガスを純粋な推進力にするんじゃなくてプラズマ化させて磁性体として使ったのかぁ……うん、堅実でいい設計だね」
気になっていた諸元や詳細の書かれた書類に目を通す。
翡翠峡から帰ってからずっと籠もりっきりで設計と製作をしていたから、最終的にどうなったのか私も知らなかったが、がっさんらしさのあるとても良い作品だ。
「理事会も砲台の設置に掛かってくれるそうなので、これで一段落です。後は弾体の方なんですけど……」
「出来てるよ、二十四発」
「あぁ……やっぱり時間かかりますよね……増産は私も一緒に-」
「いや? これで全部だけど?」
「へ……? ダンプ三台分ですよね?」
「うん、ダンプ三台分だよ?」
そういえばそうだ。原石からのヒヒイロカネの精製については説明してなかったか……
ヒヒイロカネも原石の状態では通常の翡翠輝石とあまり大差が無い。
本来であれば現実性不平衡のエネルギーを照射して大きく変容させる事で大量のヒヒイロカネを得るのだが、残念な事に今は神代ではない。
私達の有する技術では砕いた原石を選り分けた上で特定のパラメータのレーザーを用いて高純度の原石を励起状態にし、更に薬剤で不純物を蒸発させ……と、多数の工程を経てようやく少量の精製が出来る。
「じゃあ……二十四発しか?」
説明を受けたがっさんが肩を落とす。
神格性事案の力を借りられればもっと沢山作れたのだが、神格性事案の人類への向き合い方を思えば現実的ではない。
「道理でこんな便利なのに普及しないわけですね……」
「大昔は鉄よりもありふれてたんだよ? それこそ糸魚川とか大佐山の露頭鉱脈周りに原石もごろごろ転がってたし」
「え……? 翡翠峡以外にもですか?」
「うん、当時は第四紀大収束の直後で不平衡エネルギーが飽和状態だったからね、地表面に近い所で原石は沢山出来てたね」
「それじゃあ……やっぱり不平衡が解消されたせいで……」
「ううん、ただ単に掘り尽くしちゃっただけだよ」
この国において翡翠が威信財としての地位を確固たるものとしたのは翡翠の供給源=ヒヒイロカネの供給源という図式が成り立っていたからだ。
資源が枯渇した後も宝石としての価値こそ残ったが、戦略物資の供給源という価値を失った国内の翡翠の産出地は時と共に忘れ去られていった。
大正の頃に国際条約で秘匿事物に指定された頃には素性不明の謎物質扱いだった。
「まぁ秘匿事物指定を受けた後も知ってる人は結構いてね……ほら、竹内文書とかあの辺が世に出た辺りで当時の対応当局は……ついて来れてる?」
「えっと……要は今では凄くレアって事ですよね?」
「まぁ……うん、今はそれでいいか……」
歴史的背景はともかく、がっさんの作品が『機構』全体に認められためでたい日だ。
あまり長々昔話をして困らせるのもよくないだろう。
「最近頑張ってたから疲れてるでしょ? 今日はもう上がっていいよ」
「あはは……実はもう流石に限界で……仮眠室借りますね……」
「うん、ゆっくり休んでね」
がっさんを見送り息をつく
「それで……どこまで話しましたっけ?」
『君が送ってくれたこの翡翠の小刀の事だろう?』
がっさんが帰ってきたので中断していた通信を再開する。
相手は十河理事だ。
「ああ、そうでしたね……何か思い出しましたか?」
『いや……すまないが……』
「そうですか……いや、それならそれでいいんです。その小刀は御守りだと思って持っていて下さい」
『巫女殿……君は何かその記憶に特別な思い入れがあるのでは?』
「……ううん、大丈夫……ただの古い……本当に古い苔生した昔話だから……」
それは残酷なまでに儚く、どこまでも極彩色の記憶
私の永い永い人生でたった一つの暖かな灯の思い出
十河理事との会話を終えて私は見るとも無しに天井を仰いだ。
無機質な白
まるであの朝の雪を思わせる程に冷たい白
「ねぇ……あなたは一体いつまで私を待たせるつもりなんですか……?」
届かぬ相手への届かぬ言葉は無機質な天井に吸い込まれ、消える。
過去というものは、何故こんなにも遠いのだろうか……
今作に登場するオリハルコンについてはノラ博士先生の『ばいおろじぃ的な村の奇譚』の設定に準拠しています。