夏服 【梅雨明け宣言記念番外編】
長野県大町市 甲信研究所
草木も眠る丑三つ時、平素の喧騒もどこへやら静まり返った研究所の廊下を歩いていると見慣れた後ろ姿を見つけた。
「あれ?藤森ちゃんどうしたの?」
「あ、博士お疲れ様です。いやぁO業務で手間取っちゃって今戻って来たところです」
O業務は研究所等所属の直協職種調査員が支部に派遣されて支部調査員の調査業務に同行するもので、主に調査対象との武力衝突の危険性が高い場合や軍事的技能が必要とされる場合に要請される。
「そっか、お疲れ様……どうだった?」
「無事に逃げた下請け取っ捕まえて来ました!」
今日彼女が行っていたのは所在が分からなくなった下請け研究者の保護だ。
私も一度会ったことのある男だが被害妄想と誇大妄想が酷い奴だったのをよく覚えている。
トレードマークは頭に巻いたアルミホイルで『機構』ではDr.キスチョコの愛称で親しまれている名物業者さんだ。
逃亡は最早恒例行事だが、厄介な事に超常的洗脳と精神汚染を専門とする研究者だけあっていつも即席の護衛部隊を侍らせている。
密造銃やらその辺の貧弱な武装の反社会勢力や過激派がその構成員の主なものであり、洗脳の影響で判断力も低下しているとはいえ流石に支部調査員だけでは危険なので毎回完全武装の直協職種調査員がO業務に出ることになるのだから迷惑な話だ。
「報告書はシャワー浴びてきたらすぐに書きますね」
「別にゆっくりでいいよ?今日は明け休みだし、明日もオフにしとくから……まあ今週中に出してくれればいいや」
「相変わらず大雑把ですね……」
「細かいよりはいいでしょ?というか……すごい汗だね、そんなに抵抗強かった?」
Tシャツもズボンもまるで大雨にでも降られたかのようにびしょびしょだ。
「いえ、抵抗自体は別に……ただ完全装備だとこの時期暑くて暑くて」
「そっか、そうだよね……」
普段研究所にいるときは防炎素材の作業着とブーツ、簡易耐性インナーという身軽な出で立ちだが、出動するとなると気密防護衣と防弾ベストが加わる。
気密防護衣は対NBC防護のみならず超常エネルギー防護も行える優れものだが、分厚くて重いツナギの雨合羽のようなものだし、防弾ベストもセラミックプレート入りで重量は10kgほどある。
更に今回のように相手が超常の方法を用いて来る可能性がある場合はそれらの上から防護外衣と呼ばれるアウターを着用する。
精神エネルギー受容体や現実性不平衡エネルギーによって変質しやすい神経細胞や生殖細胞への影響を防ぐための重要な防護具であるが、分厚くてごわごわのフード付きアウターだ。丈も膝上ぐらいまであるので非常に鬱陶しい。
マカロフ弾くらいなら単体で止められる強度があり防護具としては非常に優秀なのだが、裏を返せばそれだけ分厚いということでもある。
簡易耐性インナーと同素材のバラクラバと抗弾ヘルメットの上からフードを被れば防御力こそまさに鉄壁だが、サウナ状態であることは想像に難くない。
一応熱中症対策としてハイドレーションを内蔵してはいるが、この発汗量では体力の消耗も激しいだろう。
これからの時期だけは空調完備のmk.8を通常業務でも使わせた方がいいだろうか?
いや、流石にそれでは人目を引きすぎてしまって業務遂行に支障が出る。
しかしこのまま調査員の皆の根性に頼りきってしまっていてもそれはそれで業務に支障が出るだろう。
甲信研のO業務の管轄は山梨、長野、新潟、富山、岐阜の各県だが、甲府盆地や長岡、伊那谷やら多治見やら……一般的なイメージに反して夏の酷暑で有名な土地が多い。
まだ本格的な夏ではない今のうちに何らかの対策を講じておかなくては!
浴場に向かっていく藤森ちゃんを見送った私は、予定を変更して技術部に向かった。
「というわけで、こんなの作ってみたよ!」
「はぁ……昨夜妙に騒がしいと思ったらそんなことしてたんですね」
私が夜なべして作ったのは俗に言う空調服だ。
ファンの小型高出力化とカバーの形状とサイズの調整によって気密防護衣内でも吸気性能を維持できるようにしてある。
早速起きてきた藤森ちゃんに着てもらってのテストだ。
「で、どう?」
「意外と涼しい……のかな……?」
「あんまり効果無い……?」
「すいません、空気が動いてる感じはあるんですけど……」
作業着が分厚いせいだろうか?いや、そもそも空調服が気化熱を利用して体表温度を奪うものだということを思えば答えは自ずと見えてくる。
気密防護衣内の水蒸気量が多すぎるのだ。
湿度が高い時にどれだけ発汗しても体表冷却に至らないのと同じ原理だ。
「熱中症対策ですか……なら別角度からのアプローチとしてこんなのはいかがです?」
私と藤森ちゃんのやり取りを見ていた諏訪先生が薬の入った瓶を持って来た。
「それは?」
「交感神経に作用して暑さを感じにくくする薬です。暑がりの友人に頼まれていまして」
「それ……大丈夫なんですか?」
「特に超常の技法は使っていませんし、原料も植物由来のものですよ」
「それなら……」
「ストップ!!」
諏訪先生の口車に乗せられて薬を服用しようとする藤森ちゃんを止める。
「成分について詳しく教えて貰っていい?」
「構いませんよ、こちらです」
しっかり作り込んだ説明書、『ヨクヒエール』という商品名……突っ込みどころは多いが、とりあえずはそこじゃない。
「毒薬じゃん!」
多様な成分が含まれてはいるが、主成分は植物から抽出されるアルカロイド系の成分だ。
「計算上は影響は最小限のはずなのですが……」
「致死量のアコニチンぶちこんどいてよく言うよ……アトロピンも150mgって……臨床は?」
「このくらいならば必要無いでしょう」
その後特定調査員に『ヨクヒエール』を投与したところ、体温が大幅に低下する効果がみられた。
同時に心拍も停止したが……
冷却性能と軽量化の両立という課題は思っていた以上の難題だ。
Mk.8に搭載したペルチェ素子を用いた空調システムは空調機としては破格の小型軽量だが、それでも生身での装備に加えるには重すぎる。
そう思えば諏訪先生の『ヨクヒエール』のような別の方向性からのアプローチというのはあながち間違っているとも言えない。
まあ、調査員の皆に致死性の毒薬を飲ませるわけにもいかないのだが……
「藤森ちゃんもボタニカル詐欺には気をつけなきゃダメだよ?」
「はい、不覚でした」
天然由来というとなにやら安全な気がしてしまうが、ボツリヌス毒素だって天然由来だ。
植物に限ってもトリカブトやら曼陀羅華やら猛毒を持つものは枚挙に暇がない。
幾ら科学が発展したといっても、自然界に存在する毒素は未だ実用に足るだけの性能を持っている。
「あれ?藤森さん今日明け休みじゃ無かったでしたっけ?」
大荷物を抱えたがっさんと大河内くんが帰ってきた。
「いえ、博士が空調服を作ってくれるって言うんで一緒に動いてました」
「二人はどうしたの?すごい荷物だけど……」
「マシンの改良です。もう少し冷却性能を上げたくて」
空調の効いた研究所内にある彼のマシンだ。時節柄というよりは稼働率の問題だろう。
「あんまりその辺のハイテクには詳しくないけど……どんなことやるの?」
ほぼ完全に私物化しているが、彼のマシンは『機構』の備品である。
それも海上自衛隊のイージス艦に相当するほどの高級品である事を思えば一応確認は必要だろう。
「冷却水の配管の経路の見直しとラジエーターの改良ですね」
「その程度でいいの?」
「それだけで案外冷えるようになるものですよ?」
コンピューター関連の冷却はかなりシビアな世界だとは聞いている。
それ故に基本設計の段階からかなり冷却効率を重視して作られているだろうし、そこを更に改善していくとなると小さな無駄を一つ一つ取り除いていくしかないのだろう。
「そっか……そうだよね……」
現状の問題の改善……そこを目指すのならば新機軸のみではなく元からあるものにも目を向けるべきだろう。
「博士?」
「藤森ちゃん!休み明け楽しみにしてて!」
「は……はぁ……」
完全装備でルームランナー上を走る藤森ちゃんの体温は非常に安定している。
もちろん高強度のランニング相当の体温上昇や発汗、心拍数の上昇こそあるものの、これだけの装備での運動とは思えない程度の上昇幅にとどまっている。
「どう?」
「すごいです!めちゃくちゃ涼しいです!」
感想を求めると予想以上の興奮度合いの言葉が返ってきた。
開発者冥利に尽きるというものである。
手法は至って単純なものだ。
今までは出来合いのハイドレーションシステムを使っていたが、それを取り外して全身を覆うように水を循環させる管路を設置、前のものより幾分か小さいウォータータンクにはラジエーターとペルチェ素子を用いた冷却装置を取り付けた。
全身を冷たい空気で冷やすとなると手間が大きいが冷却水を冷やすとなれば効率は格段に向上する。
構成要素として加えるのも小型のポンプと最小限のペルチェ素子、補助的な小型のラジエーターのみで重量増加も許容範囲内だ。消費電力も装備のバッテリーパックの余剰分だけで十分に賄いきれる。
「腿のところと首もとのバルブ開けてみて」
「これですか?……お、おお!!」
消費電力が大きいのであまり多用は出来ないし、外気が危険な状態では使用できないが自動で排気と吸気を行う装置だ。
下部から湿った空気を排出して、上部から新鮮な空気を簡易的に除湿した上で取り込む。
Mk. 8開発で培った大容量蓄電技術によって調査員の皆が携行できるバッテリー容量は格段に向上した。これだけの装置を稼働させられるのもそのお陰だ。
幾ら省エネ仕様になっているとはいえ、従来型のバッテリーでは長時間の稼働は不可能だっただろう。
「博士!すごいです!!これは流行ります!!」
「あはは、一般に出せればだけどね?」
既存の技術が主ではあるものの、核心部分にはいくつも機密指定の技術が使われている。
その最たる物がバッテリーだ。
ビッグビジネスの予感はぷんぷんするが、その為に『機構』を離反するのは余りにも割に合わない。
「まあ、私達だけでひっそりこっそり使っていこう」
と、思っていたのが六月の中頃……一月近く経った今、あのときの藤森ちゃんの言葉が現実になっていた。
外回りに出る『機構』の職員が皆気密防護衣を着用している。
見た目には非常に暑苦しいが、当人達は非常に快適そうだ。
作りが単純で既存の装備品の改修だけで済むというお手軽さから直協職種調査員を中心に非常にスピーディーに配備が進んだが、研究職や技術職の面々も割りと裏ルートで手に入れたり、自分で改造したりしているらしい。
こうなってくるとスーツでの行動が基本の全般職種調査員も不満が出てくるようで、理事会経由で私のところに開発要請が届いた。
『非戦闘損耗を防ぐための重要な研究だ。是非ともよろしくお願いしたい!』
いつになく熱のこもった様子の十河の爺さんだが……
「ラジエーター付きのスーツって……もうクールビズすりゃよくないですか?」
『クールビズ……?』
「……夏時期の渉外調査とかはジャケット無しでノーネクタイ……なんならポロシャツとかでもいいんじゃないですか?」
支部調査員のスーツは通称『喪服』と呼ばれる真っ黒の暑苦しいスーツだ。
特に防護性能があるわけではないのでクールビズにしても何ら問題はあるまい。
『なるほど……その手があったか!』
「本気で言ってます?」
『何がだね?』
「いえ……いいです」
十河の爺との通話を終えて伸びをする。
わざわざ余計なものを着用するより気候に合った服装をするのが結局は一番だ。
「博士……もう少しシャキッとした格好できないんですか?」
「ちゃんと白衣は着てるじゃん」
かりゆし、グラサン、短パン、カンカン帽にサンダル、ここに白衣を羽織れば真夏のフォーマルの完成である。
「外回りなんですからもう少しちゃんとした格好を……」
「外回りなんだから涼しい格好しないと!」
今年の夏もきっと暑い。
真面目なこの子達が熱中症にならないようにしっかり見ておかなければ!
「とりあえずはい、あーん」
「むぐっ……」
藤森ちゃんの口に塩レモンアイスを突っ込んで歩き出す。
安全第一、いのちだいじに!
私達の暑い夏はまだ始まったばかりだー
関東甲信で梅雨明けが宣言されました。
これから本格的に暑くなってくると思われます。
皆さんもどうか健康第一でお過ごし下さい。