記憶-case.1 諏訪光司
延べ8842人の人間を直接殺害し、間接的に数万人の人間を死に追いやったマッドサイエンティスト
意外にも彼の幼少期は猟奇性のかけらも無い好奇心旺盛などこにでもいる普通の少年だった。
彼が妄執的な人体への好奇心に取り憑かれたのは10歳の頃、交通事故で家族を亡くした時の出来事が切っ掛けだった。
父親は即死したが、彼の兄は頭部の大部分を損傷していたのにも関わらず、数時間に渡って生存していた。
間近でそれを見ていた彼は、父親の死と兄の生存における差異は何なのかという未知に対して、大きな興奮を抱いていた。
一家の大黒柱である父を失いはしたが、彼の母方の実家は地域でも有数の資産家であり、何不自由なく成長した彼は医学の道を志した。
元来が優秀な青年である。
医師免許と博士号を取得した後、この世界に人知れず存在する超常に彼が気が付くのにそう時間はかからなかった。
自然界、そしてただでさえ自身を魅了して止まない人体に、更なる深淵のあることを知った彼の心の中で箍が外れたのはその頃だったのだろう。
時を同じくして超常を利用して生体兵器の開発を行う企業が彼に目をつけた。
法に縛られること無く人体について知見を深められるという誘い文句は、彼の心を揺さぶるには十分過ぎるものだった。
入社後、すぐにその才能を発揮した彼は人間の生体を利用した実験の数々を成功に導き、やがて社内で秘密研究所の一つを任されるほどになる。
若干30歳での異例のスピード出世であった。
同時に私生活では同じ職場の同僚と結婚、まさに順風満帆の生活を送っていた。
しかし同時にその才能が故に世界160の国と地域において指名手配されてもいた。
顔も名前も一切が不明…ただ凄腕のマッドサイエンティストとして各国の超常管理組織から追われていた。
しかし、そんな事はお構いなしに彼はその好奇心を満たす、その一点のみの為の研究に明け暮れていたー
「動くな!」
彼の元に捜査の手が伸びてきたのはいつものように研究を終えて夜遅くに帰宅した日のことだった。
小銃で武装した大凡一個分隊程の部隊…89式小銃を使ってはいるが、陸上自衛隊のものとは異なる深いモスグリーンの戦闘服に先進的な装備は『機構』の部隊だろうと、彼はあたりをつける。
「諏訪光司博士でお間違いないですね?」
戦闘員と同じ服の上から白衣を着た女性が声をかけてきた。
ボサボサの髪、目の下の濃い隈、野暮ったい黒縁の眼鏡…洗練とは程遠い出で立ちだが、どこか奇妙な気品を感じる女であった。
無感情にこちらに向けられたその目は、同業者が実験体を見るときの目そのものだ。
「さぁ、人違いでは?」
一切揺らがない口調で返したものの、内心かなり驚いてもいた。
彼の個人情報は一切公にはなっていないはずである。
この連中は如何にしてそれを知り得たのだろうか?
「そうですか…それは困りましたね」
言葉とは反対に一切困った様子では無い研究員風の女が顎をしゃくり、戦闘員に合図を送る。
恐らくは彼等のものであろう車両から、一人の人間が引きずり出され、女の前に放り出された。
「では、我々も後片付けをして一から捜査を仕直すとしましょう」
そう言って女は目の前の人物に拳銃の銃口を向けた。
(なるほど…そういうことか…)
恐らく手酷い拷問を受けたのだろう。もはや自力で立つことすら侭ならない様子だが、顔面の損傷は辛うじて面影は分かる程度に留めてある。
それは彼の妻、昭恵だった。
人的諜報において世界有数の実力を誇る『機構』である。
所属する会社から地道に浸透して痕跡をたどり、彼の正体、そして弱みにまで至ったのだろう。
組織に守られる安心感に浸り、その弱点に目を向けていなかった己の浅薄さに彼は小さく溜息をついた。
「まずはあなた方の目的を聞きましょうか」
「目的?」
女は怪訝そうな顔で聞き返す。
組織への帰属意識の成せる業か、それとも彼が過去の行いに何ら罪の意識を抱いていないことの証左か、とにかくその問いは本心からのものであった。
例え『機構』に転職することになったとしても研究を続ける事が出来るのであれば何の問題も無いし、研究成果を寄越せと言われれば全て渡してしまったところで惜しくは無い。
そもそも彼の関心は未知にのみ向けられるものであり、己の研究成果などに執着するつもりは一切無かった。
そんなことを考えての問いに女は一瞬の困惑を見せたものの、すぐに平静さを取り戻して答える。
「目的…そうですね、まずはあなたをUNPCCに引き渡すことでしょうね」
「なるほど…そういえば指名手配されているのでしたね」
彼は納得した。
しかし同時に失望してもいた。
初めて彼のもとにまで辿り着いた彼らが、あろうことかそのように凡庸な目的しか持っていないとは嘆かわしいとばかりに大きなため息をつく。
「確かに私の研究で多くの人命が失われたことは知っていますが…それはあなた方の職務とて同じでは?」
『機構』が特定調査員制度というものを用いて数多の人体実験を行っていることはこの業界では広く知られている。
「私もあなた方も、結局のところ未知への好奇心の僕だ。そこに違いがあるなどとは私には思えませんが?」
つまるところ国が許可したか否かの違いしか無いのである。彼にとってそれはさしたる問題では無い。
「はぁ…一体どんな狂人なのかと思っていましたが、言葉だけはまともな様ですね…」
無感情に言い放った女は、無感情に発砲する。
拳銃の間の抜けた様な銃声に昭恵の苦悶の声が続く。
「ですが、私達もあなたと我々の有り様について議論を交わす程暇では無いのです。この場で夫婦共々死ぬか、それとも投降して奥さんの命だけでも救うか…どちらかを選んで頂けませんか?」
女の言葉に彼は昭恵をちらりと見て小さく溜息をついた。
彼の見立てでは手遅れだ。
そもそも『機構』が捕虜を解放するなどあり得ない話でもあるが…
救えない、死を待つだけの妻は最早彼の中では『物』でしか無くなった。
彼は妻を確かに愛していた。彼女と過ごす毎日は満ち足りてもいた。
だが、苦悶の呻きをあげるだけの肉は、既に彼の愛する妻では無くなっていた。
(幸い、良い頃合いでもあるか…)
彼は小さく、しかしはっきりと口笛を吹いた。
「…なんですか?」
「慰みの様なものです」
彼が女の問いに短く答えた直後に、それはやって来た。
体長6m体重は優に5tを超えるそれは、生きた人間であった。
少なくとも材料は…だが…
不意の襲撃自体は彼も警戒していたし、備えはある。
超常の技術を用いて作成されたヒト由来の生体兵器は、彼と対峙していた女を昭恵だったもの諸共踏み潰し、彼を大切そうに抱え上げた。
(やはり、未だ知能は未完成か…)
妻の遺体か遺品を持ち帰る事は難しそうだと小さく溜息をついた彼は、再び口笛を吹く。
歯に仕込んだ装置によって変換された音波はこの兵器に指示を出すための唯一の方法である。
周囲からの銃撃を一切意に介する事無く、それは巨体に似合わない俊敏さをもって夜の街を駆けて行く。
「さて、身元が割れてしまったがどうしたものか…」
一人小さく呟いた彼は、しかし考えたところで答えにたどり着く事は無いことを悟り、ゆっくりと目を閉じた。
今はゆっくりと身体を休めよう。きっとまた忙しくなるのだから…と。
「うへぁ…血みどろだぁ…」
起き上がった千人塚由紀恵博士は、自身の血液で湿った服の不快感に顔を歪めた。
「羽場くん、着替えとかってある?」
「いやぁ、残念ながら」
「だよねぇ…」
配属されたばかりの調査員に尋ねた彼女は予想通りの返答に肩を落とした。
本来であれば、学者一人を逮捕するだけの仕事の予定であり、日を跨ぐ前には彼女らの研究所に帰ることが出来る程度の仕事だ。
「しっかし…こういうのって特殊部隊とかの仕事じゃ無いのかね?ただの研究室に任せる?」
「どうなんでしょう…?」
「あぁ、羽場くんはうちに来てから日が浅いから知らないか…うちはこんなんばっかだよ」
苦笑いしながら一人の男が両手に大量のタオルを抱えてやって来た。
守矢久作主任研究員、千人塚博士の部下の研究員であり、彼女の弟子を自称する男だ。
「やっぱり着替えは無さそうなんで、研究所までこれで拭きながら我慢して下さい」
「えー…久ちゃんの作業着頂戴よ」
「いやですよ!」
「いいじゃん、代わりに私の作業着あげるから!匂いかいでいいよ!」
「老婆の匂いに興奮する趣味は無いです!」
「失敬な!」
部下達と軽口を交わしながら、彼女は大きく陥没したアスファルトを見た。
(愛妻家って聞いてたけど…容赦無いもんだね…)
既に人であった事が判別できないほどの肉片と血溜まりは諏訪光司の妻だったものだ。
アキレス腱になればと用意してきたものの、結局は不要な問答で容疑者に逃げられる隙を作る結果にしかならなかった。
(まあ、幸い死傷者は無かったし…これで理事会も専門の特殊部隊なりなんなりを送ってくれるでしょ…)
彼女の職責は機構における研究者であり、今回の様な犯罪捜査は雑事も雑事である。
「それじゃあ、帰っていつもの毎日に戻ろっか」
この後五年間に渡って彼女らと諏訪光司の戦いが続いて行く事をこの時の彼女は知る由も無いし、その後諏訪光司が最も信頼できる友人になることなど考えもしていなかった。
経過した時間以上に長い戦い…それは焦がれ合う恋人同士が求め合う以上に熱く、千の夜を尽くした問答よりもお互いを深く知る事になる。
それが彼と彼女にとって禍福のいずれだったのかは当人達にすら分からないが、千人塚博士の永い人生の中の小さな転機であったことはまず間違いは無いだろう。
甲信研究所 千人塚研究室
「諏訪先生…大丈夫?」
最初に諏訪先生が机に突っ伏しているのを目にしたとき、私は心臓が止まるかと思った。
まぁ止まったところで何が起きる訳でも無いのだが…
ともかく諏訪先生も大分いい年である。突然死なんてたまったものじゃ無い。
結論から言えばただのうたた寝だったのだが…勘弁してほしい。寿命が縮んだ気がする。
「ああ…これは失礼…」
「珍しいね、諏訪先生が研究中に居眠りなんて…流石の諏訪光司も寄る年波には勝てない?」
「ははは、博士の基準で考えれば…いや、よく考えたら博士はよく居眠りしてましたね」
「…遠回しな年寄り扱い?」
「いやいや、博士はお若いですよ?」
元気そうは元気そうだが、今日は急ぎの案件も抱えていないし早上がりにしても良いかもしれない。
最近色々立て込んでいたせいで疲労も溜まっている事だろう。
そもそも諏訪先生はかなりピシッとしているから忘れがちだが、もう引退していてもおかしくない年だ。
「そういえば…諏訪先生って引退しないの?」
「肩たたき…というやつですか?」
「違う違う!純粋に興味があるだけだって!そろそろ引退してのんびり平穏な暮らししたいって思うんじゃ無いかなって」
加齢によって刺激よりも安定を望む傾向が強くなるのは本能であり、自然な事だ。
群れをなす生物は高齢な個体の知恵を若い世代に伝える役割に回る。
昨今の人類では珍しくも無いが、本来高齢になっても刺激を求めてしまう方が異常なのだ。
「博士はモアという鳥をご存知ですか?」
「これまた素っ頓狂なお返事で…ニュージーランドにいたっていう絶滅種でしょ?」
専門外だからそれ程詳しくは無いが、3mを超える巨体を持つ鳥だったはずだ。
「そうです。天敵のいない楽園で巨大化に進化の舵を切った生物…」
「方向性としてはありがちだよね、なにせ飛ぶ必要も無いし」
「あの様な種の話を聞く度に思うのですよ、私もそうなりはしないだろうかと」
「…ごめん、どういうこと?」
「甘美な好奇心への欲求をただ生存するための安定志向が上回ってしまわないか…と」
「うーん…諏訪先生の場合それぐらいが丁度いい気もするけど…」
年のせいか我慢しているのかは分からないが、スイッチの入った諏訪先生は正直手がつけられない。
「ははは、ご冗談を…ですがお気遣いには感謝します」
何も冗談なんて言ってないし、何を気遣いだと思ったのかは分からないが私の言葉は本心だ。本当に、実体験を元にした実感を伴う本心の中の本心である。
「博士…私達が敵同士だった頃の事を覚えておいでですか?」
「え?う、うん…流石に忘れようにも強烈すぎて忘れられないよ」
いつになく饒舌で、いつになく話が飛躍するのは寝起きで完全には覚醒していないからだろうか?
「ついさっきまで貴方と出会ったときのことを夢に見ていました」
「まんまと出し抜かれたっけねぇ…」
「いやいや、こちらもぎりぎりの綱渡りでしたよ」
住宅街での対超常戦…今だったら確実にネットが大騒ぎになりそうな話だ。
「もし私がモアの様になってしまったら…身を焦がすような好奇心に突き動かされなくなってしまったら…あの時やろうとしていた様に私の息の根を止めて下さい」
「何を言ってんの!まったく、年取って感傷的になってるんじゃ無い?」
冗談っぽく返しはしたが、諏訪先生の目は本気だ。
それ程私を信頼してくれるのは嬉しいが…友人の幸せと命を天秤にかけるなんてしたくは無いし、かけたとしても私は確実に命に重きを置くだろう。
「ははは、いやいや…まだ少し寝惚けているようです」
諏訪先生もそれを察して真面目な話を打ち切ってくれた。
「顔でも洗ってきなよ、コーヒー淹れといてあげるから」
「そうさせてもらいます」
結局諏訪光司という男は今でもそういう人物なのだ。
未知という名の大空を征く渡り鳥
好奇心と言う名の磁力に引かれて飛び続けていく…
旅路の先が傍から見れば見当違いであれ、酷く猟奇的で残忍なその旅路が、どこか美しくさえ思えてしまうのはその純粋さが故だろう。
営巣地とまでは言えなくとも、せめて止まり木くらいにはなれるだろうか?
その翼をいつまでも力強く動かし続けるために、その身を癒す止まり木くらいには…
個人的な友情はさておき、そこらの特定管理事案以上に危険な諏訪先生を世に解き放たないために、それはとても重要な事項なのだ。